形式論理における矛盾と弁証法における矛盾


形式論理で矛盾と呼ばれるものは、ある命題の肯定と否定が同時に成立するものを指す。これは形式論理では絶対に認められないものとなる。なぜなら、形式論理というのは命題の内容を問わずその形式のみに注目する視点を持つからだ。ある命題の肯定と否定が同時に成立するというのが、命題の内容に関係なく形式として成立するならば、それはすべての命題についても同等に成立するものとなってしまう。

否定というのは、形式論理においてはその肯定を判断したことが間違いだったことを示す。つまり、否定が成り立つならばその肯定は真ではない、偽であるということになる。だが、肯定も否定もいつでも成り立つというなら、その命題に関しては真偽が決定できない。それはいつでも真だと考えても良くなるし、いつでも偽だと考えても良くなる。真偽を考えることに意味がなくなる。

形式論理というのは、真なる命題のネットワークを構築することにより、真であるということの性質を持つ命題を導くことで合理的思考を行うものだ。それが真なる命題のネットワークが無くなり、あらゆる命題が真であってもいいし、真である命題が一つもないと考えても良くなるなら、何が合理的思考かということも決定できなくなる。論理そのものが崩壊してしまう。だから、矛盾という命題は、形式論理においては絶対に成立しないということが大前提になる。

これに対して、弁証法における矛盾は、それが現実に存在するというような言い方がされる。形式論理においては絶対に容認されない矛盾が、その存在を許容するということでは、弁証法における矛盾は形式論理における矛盾とは全く違うものだと考えなければならない。これは同じ言語表現を使っていながら概念が違うという理解をしなければならないだろう。

仮説実験授業の提唱者である板倉聖宣さんは『新哲学入門』(仮説社)の中で矛盾に関して次のような記述をしている。

「それなら、ある人々の言うように、「矛盾は実在する」と言っていいのでしょうか。私はそうは考えません。「運動は、静止の論理にこだわって表現しようとすると、どうしても矛盾した表現を必要とする」というのと、「運動そのものが矛盾している」というのとは違います。「矛盾」という概念は、元々人間の認識の論理に関わるものなので、人間の認識とは独立な自然や社会そのものに矛盾があるはずはないのです。」


僕もこのとらえ方に賛成だ。「矛盾」というのは、あくまでも形式論理が提出するような概念で理解した方がいい。それは形式論理の肯定判断と否定判断に関わって、それが同時に成立するという表現をしたときに見出せるものとして理解した方がいい。弁証法で言う矛盾は、その形式論理の矛盾の比喩的表現として受け止めた方がいいだろう。ある命題の肯定と否定とが同時に成立するような、ある対象を表現しようとすると、そう表現せずにはいられないような現象が見られるときに、弁証法ではそれを矛盾と呼んでいるのだと理解した方がいい。

矛盾の例としてよく出されるものに「運動」という現象がある。「運動は矛盾している」とも言われる。これは、ゼノンのパラドックスに見られるように、運動を言語によって表現しようとすると、「運動している物質は、空間の一点に<存在している>と同時に<存在していない>」というような表現をせざるを得ない現象が見られる。

運動している物質を瞬間という時間でとらえようとすると、その瞬間という時点ではその物質は空間のある一点のどこかにいると考えないわけにはいかない。そうでなければ物質の存在そのものが言えなくなるからだ。しかし、ある瞬間にそこに存在することが確かめられるということは、その瞬間の時点では物質はそこに静止していると言わざるを得ない。それは運動ではなくなってしまう。従って物質はそこに「存在していない」とも言わなくてはならない。

ゼノンは、論理的に矛盾が導かれるから運動は存在しないと主張した。逆に弁証法では、運動の矛盾を認め、運動は矛盾として存在していると主張している。これは板倉さん的なとらえ方をするならどちらも間違っているように感じる。

論理的な矛盾によって否定されるのは、あくまでも論理の方の矛盾であり、運動を静止でとらえようとするそのとらえ方が否定されなければならない。現実の運動そのものが否定されるわけではないのだ。運動を無理矢理に瞬間でとらえようとすれば、そのとらえ方の中にそもそも矛盾をはらむ可能性が潜んでいる。瞬間は静止でなければとらえられないからだ。これは0によって極限を表現しようとすることに似ている。限りなく0に近づくというのを、0を無限にたくさん足していくことで表現しようとすれば失敗する。0はいくらたくさん足しても0にしかならないからだ。

「運動と静止」や、「0と0でないもの」という、最初から矛盾した性質を持ったものを結びつけて概念化しようとすれば、その表現にはどうしても矛盾が入り込む。この矛盾を形式論理ではどのように処理しているだろうか。形式論理では矛盾を許さないのだから、矛盾した表現のままではそれは形式論理では扱えない。

形式論理の世界のみで成立する数学では、極限を扱うのに任意の正の数εというものを使う。これは0ではない。しかし、任意であるからいくらでも小さくできる。これで極限の現象が、限りなく近づいていくある瞬間の状況を捉えようとする。形式論理では、限りなく近づいていく過程を直接とらえることは出来ない。それは常に変化している現象であり、時点が違えば同一であることが主張できなくなる対象だ。それは「AであってAでない」という表現を必要とする矛盾したものとしてしかとらえられない。形式論理がとらえることが出来るのは、その瞬間における静止的な関係だけだ。

その静止的な関係において、どれほど小さくしてもかまわないという任意の正の数εに対しても、その瞬間はいつでも差が小さくなるということが確認できるという表現で数学では極限を語る。ここには、過程として限りなく近づくということは表現されていない。しかし、それを時点がつながったものとして全体的に把握されれば、いつでもその差を小さくできるということから、限りなく近づくという過程が想像できる。この想像として極限をとらえるのであって、表現には過程を持ち込まないというのが数学の工夫だ。

現実の運動に関しても、極限の時と同じように、静止の表現の時にはそこに過程を持ち込まず、静止的な均衡の表現が成り立つことを見るだけにとどめる工夫が必要だ。つまり、瞬間をとらえたときは、そこに運動があるということを忘れなければならない。あるいは、そのときには運動をとらえることが出来ないと考えなければならないだろう。

そしてそこに運動という現象を認めて観察するときは、それを静止として表現することをあきらめなければならないだろう。これは不確定性原理というものに似ている論理ではないだろうか。運動量という運動に関する測定をしているときは、静止の表現である位置情報を正確に測定することはあきらめなければならない。また逆に、位置情報を正確に求めたときには、運動に関する情報である運動量に関しては正確に求めることをあきらめなければならない。両方を同時に求めることは出来ない。

運動と静止を両方同時に求めるということは、形式論理でいえば肯定判断と否定判断を同時に成立させることになる。これは形式論理では絶対に許されないので、そのようなものを形式論理で表現することは出来ない。これは何を意味するかといえば、それを同時にとらえようとすると合理的な思考は出来なくなるということだ。神秘的な表現だったら出来るかもしれないが。

合理的な思考をしたいと思ったら、弁証法的な矛盾のとらえ方を表現するのはあきらめなければならない。それは矛盾ではないという理解をした方がいいだろう。だが、板倉さんも次のように語っている。

「科学研究というのは論理が一貫していなければならないので、その論理に矛盾があってはなりません。しかし、「科学研究の対象とする自然というのは、私たちが<矛盾している>と思えるような性質を研究するときには、一見<矛盾と思える>ことだって避けて通ってはいけないのです。私が<矛盾>についての理解の重要性を指摘するのはそのためです。」


弁証法における矛盾として捉えられるような現象は、それを矛盾そのものが現実に存在していると理解すると間違いだが、それは「一見矛盾と思える」だけで、実は形式論理的な矛盾ではないということが分かれば、形式論理的には整合性の取れる表現を工夫し、数学における極限のように合理的な思考を展開することが出来る。その工夫のきっかけとなるような発見として、弁証法的な矛盾をとらえるという発想法が役に立つ。この弁証法的な矛盾は、そこにとらえられたら、それが形式論理的な矛盾ではないという理解をすることで解決される。

弁証法的な矛盾が形式論理的な矛盾ではないということを理解する一つの方法は、弁証法で求める結論はその対象をどこから見ているかという視点の方向を条件とする仮言命題としていつもとらえるということだ。弁証法の教科書では親と子の矛盾が例としてあげられることがある。三浦さんも『弁証法とはどういう科学か』という本の中で紹介していた。

この矛盾は、弁証法的な矛盾としてはつまらないもので、これを矛盾として理解したからといってそれほど発展的な思考が展開できるものではないが、「視点の違い」を理解するには分かりやすい例となっている。この矛盾は、無理矢理とらえたもののように感じ、これが弁証法的矛盾の代表だと思うと、何か弁証法というものは詭弁のような感じがしてしまうので、あくまでも「視点の違い」を理解するための分かりやすいつまらない例としてとらえた方がいいだろう。

これは、ある男性Aさんの現実の存在をとらえるときに、その父親との関係からいえば、Aさんは「子である」という判断になる。しかし、Aさん自身の子供との関係からいうと、Aさんは「父親である」ということになる。すなわち「子ではない」ということだ。ここに「子である」と「子でない」という肯定判断と否定判断が同時に成り立っているように見える。そこに矛盾があるように見える。

しかし、これは形式論理的な矛盾ではない。これは視点の違う判断だからだ。この視点を仮言命題として表現すれば次のようになるだろう。

  Aさんの父親から見る ならば Aさんは「子である」
  Aさんの子供から見る ならば Aさんは「父親である」すなわち「子ではない」

このとき、あくまでも視点をどちらかに固定するなら、たとえばAさんの父親からの見方をするなら、Aさんが「父親である」という判断は出てこない。「子である」という判断がいつまでも変わらずに提出される。形式論理的な矛盾は生じない。視点を変えることによって「子である」と「子ではない」という二つの結論が両立するものとして提出されているだけだ。弁証法的矛盾は、このようにして形式論理的な矛盾でないことが、視点の違いとして理解されることで解決する。

弁証法的な矛盾が、具体的にどのように解決されていくかを見ることが出来れば、弁証法的発想のすばらしさも、それを合理的に考える形式論理のすばらしさも、どちらも実感することが出来るだろう。今度はそのようなことを考えてみたいと思う。