現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ


宮台真司氏の社会学的な言説の中には、原初的な社会では誰もが同じ感情を有していたので、誰もが同じ判断をしていたというものがある。これはある意味では、思考のルールというものがはっきりと決められていて、そのルールに従った思考の流れしか持てなかったということを意味するだろう。レヴィ・ストロースが発見した婚姻の規則なども、それに従うことが当然という感情しか持っていない人々は、そこから外れる選択肢があることなど想像もしなかっただろう。このような態度は、ルールに従った思考という意味でたいへん論理的ではあるが、それはなぜそのように考えるかという反省を全くもたらさないので、論理そのものを意識することはない。

それに対して現代社会では、もはや誰もが同じ感情を持つということがほとんどない。どの問題に対しても多様な感情が見られ、それから生まれる反応のどれが正しいかということを意識せざるを得なくなっている。その意味では、現代社会では論理を意識しなければ正しい判断が出来なくなっているといっていいだろう。原初的な社会では、誰もが同意する結論に達するのはたやすかった。それが客観的に正しいかどうかは置いておくとしても、社会的な合意が得られるという意味での正しい解答を求めることはたやすかった。

現代社会では、思考を展開して得られた結論が正しいか否かは論理的に正しいかを判断して理解される。だが、人間が思考を展開するときに、論理に従わない思考の展開というものが出来るかどうかを考えると、人間は無意識のうちに論理的な法則に従わずにはいられないということがあるのではないかと思う。非論理的な思考を展開することの方が難しいのではないかと感じるときがある。

これは、人間が考えたことの結果がすべて論理的で正しいという主張ではない。結論としては間違っていると思えるようなこともたくさんある。だが、それは結論に至るまでの間に前提とすることを間違えて受け取ったりすることによる間違いであり、論理そのものを間違えて陥った誤りではないように感じる。人間は、論理に従わない思考の展開を受け入れることが出来ないのではないだろうか。そもそも思考の展開というものが論理に従わなければ出来ないものであり、ものを考えるということから合理性を全く除いてしまったら、ものを考えること自体が出来なくなるのではないかと思う。

現代社会では何が正しいかが単純にルールとして決まっていない。かつてなら正しかったと思えたものが、今ではいかなる理由で正しいかが説明されなければなかなか信じられない時代になった。前提となるものにも思考が及ぶようになるという「再帰性」という特徴を持ったものが現代社会だ。何が正しいかがよく分からなくなったので、恣意的な理由をつけると、その前提を認める限りでは論理的に正しくなるが、結論としては間違っていると思われる思考の展開が見られる。それは決して非論理的な思考の結果ではない。むしろ論理的には、仮言命題が成立するなら、その仮言命題に従って「推論」としては正しいにもかかわらず結論がおかしいと思われるものが出てくる。この結論は、推論として正しければ、結論がおかしいという感覚が生まれないので、おかしいにもかかわらずそれが世間で流通する。

そのような現象の一つとして、グリーンピースが行った行為に対する世間の反応がそれに当たるのではないかと僕は思った。これは宮台氏の指摘だったが、グリーンピースだけが犯罪として立件されて、告発していた当の相手の横領に関しては不問にされたというのは、法の下の平等というルールからすれば明らかに片手落ちと見られるような結論だった。形式論理の結論としては明らかにおかしかった。しかし、世間は、グリーンピースは泥棒という犯罪を犯したのだから裁かれるのは仕方がないという見方が支配していたように感じる。

世間がこのような判断をするのは、それが論理的な判断であって、非論理的なものではないからだ。世間の判断は、前提が違うのである。「法の下の平等」という大前提は、世間の判断においては全く見られなかった。この前提を欠いてしまえば、グリーンピースだけが裁かれるのはおかしいという結論が出てこない。どちらも平等に扱わなければならないということを前提にすれば、横領の疑いがある調査捕鯨の関係者に対しても捜査がされなければならないという論理的な帰結が出てくるのだが、この前提がなければそのような結論は論理の流れとしては出てこない。

もし前提が、グリーンピースの行為が、「自分の所有物でないものを、その所有者の許可なく勝手に持ってきてしまった」という面だけを見るようなものであれば、この前提からはグリーンピースの行為は「盗難」であるという結論しか出てこない。そして、この結論からは、グリーンピースは裁かれて当然だという結論しか出てこないだろう。これは論理的な帰結であるから、その正しさに自信すら持っている人がいるだろう。しかし、この「推論」は正しくても、前提としてそれしか持ってこないということはどこにも妥当性を語る根拠はない。それは恣意的に前提を選んだに過ぎないのだが、その恣意性を意識する人は少なかった。

行為というのは、宮台氏の指摘にもあったが意味というものを持つ。外見的には同じように見えるものでもその意味が違えば、「犯罪である」か「犯罪でない」かという判断は全く別になる。行動としては同じでも、行為の判断としては逆になることがあり得る。それは、一つの行動が矛盾した二つの判断を持つということではない。行動は同じでも、意味を見るという視点からは別の判断になるということであって、これは肯定と否定が同時に成り立つということではない。形式論理的な矛盾ではなく、弁証法的な視点の違いによって発生する矛盾になる。

グリーンピースのケースよりももっと単純で分かりやすい例を考えよう。自分の知っている人間が麻薬を持っていたとする。麻薬はそれを所持するだけで犯罪になるものだ。そこで、この麻薬所持を告発するために、その人物が持っている麻薬を警察に持って行こうと考える。このとき、その人物に相談して麻薬を持って行くことが出来るだろうか。麻薬所持者が自首するつもりがあればそれも出来ない相談ではないが、たいていの場合は相談などしたら、自分に危害が及ぶか、その人物に逃げられるかどちらかだ。このような場合は、その人物に相談することなく、その人物が所有している麻薬を持ち出すことを考えるだろう。

さて、この麻薬の持ち出しは盗難という犯罪に当たるだろうか。警察としては、麻薬捜査の協力に感謝こそすれ、この行為を犯罪として裁くことはないだろう。そんなことをすれば、今後誰も麻薬捜査に協力しようなどという人間は出てこないからだ。

グリーンピースの行為が、この麻薬の持ち出しと同じものかどうかはもっと事実を調べなければならないだろうが、単純に「持ち出し」という面だけを見て犯罪と断じるのは、その見方があまりにも単純すぎるということには同意してもらえるのではないかと思う。この行為は、もっと多様で複雑な解釈を必要としていると思う。

麻薬捜査の協力者に対して、その行為を単純に犯罪として扱えば、誰も麻薬捜査に協力しようなどと思わないのと同じように、グリーンピースの行為を単純な犯罪として断罪してしまえば、国家権力が行っている不正を告発しようとする人間は誰もいなくなるかもしれない。これは、国家権力の現統治者にとっては都合がいいだろうが、国民全体にとってはどうなのかよく考えなければならないだろう。

このグリーンピースの行為に対して、グリーンピースが告発しようとしていた調査捕鯨の関係者の行為に関しては、「お土産として余った鯨肉を持ち帰るのは習慣化していた」という理由を元に、それは不起訴になり不問に付された。これは

  調査捕鯨で鯨肉が余った <ならば> それはお土産として持ち帰る

という仮言命題が正しいものとして論理が展開されていることを意味する。つまり、その所有者として誰が正当かという判断に関して、「習慣だった」ということからその正当性を引き出している仮言命題だとこれは考えられる。それは本当に正当な判断だと言えるだろうか。調査捕鯨で捕った鯨肉は、その正当な所有者というのはいったい誰になるのだろうか。調査であるからには、それは公的な誰かが所有者にならなければならないだろう。そして、その処分に対しても、公的に妥当な方法でされなければならないのではないか。私的に処分されれば、それだけで公正さが疑われるのではないだろうか。

それが「習慣だった」から許されるのであれば、ベトナムでの公共事業に対して賄賂が送られていたという問題も、実際にはそれがベトナムでの「習慣だった」のだから不問に付されてしまうのが、論理としての公平性というものではないだろうか。実際には、賄賂という行為には、それが「習慣」であろうがなかろうが、行為そのものに犯罪性があるのだから、「習慣」ということだけでは犯罪ではないということは言えない。調査捕鯨における「お土産」という行為については、賄賂ほどの明確な犯罪性はないから、そこに犯罪性があるかどうかを調査しなければならないだろう。調査する前に犯罪ではないという判断をすることに、公平・公正という面での問題を感じる。

グリーンピースを起訴したこと自体に論理的な間違いはない。調査捕鯨の関係者を起訴しなかったことも、論理的判断としての推論には間違いはない。しかし、どちらもその前提となることが恣意的で公平さを欠く。宮台氏が指摘したようにまさに「片手落ち」だ。片方だけに厳しい判断をして、片方だけに甘くしている。まさに「手落ち」が片方だけに偏っている。

この判断の間違いは、論理的な展開によってもたらされているのではなく、その前提に置いた命題がおかしいのである。どうしてそのようなおかしさが生まれるかといえば、これは論理の問題ではなく感情の問題であると僕には感じられる。世間はグリーンピースを嫌っていたのではないか。嫌いなグリーンピースが厳しく扱われるのは、感情的には溜飲を下げるものにはなっても、そこに不正のにおいを感じるというセンスは生まれてこなかったのではないだろうか。

グリーンピースを嫌う感情は、捕鯨に関して日本が世界中から非難されているという被害感情から生まれてくるものかもしれない。この非難は、正当な指摘ではなく感情的なものばかりだというマスコミの宣伝も、世間の反発に一役買っているようだ。相手が感情的に指摘することに対しては、やはり感情で対応したくなってくるからだ。

前提となる事柄を偏った視点からしか見ることが出来ないのは、感情によって他の多様な視点が見えないように、目が曇らされていることに原因があると思う。現代社会というのは、物事を単純にとらえることが出来ない。推論そのものが正しいとしても、多様な前提をすべて洗い出して、そのすべての場合について考えなければならない。宮台氏が語るフィージビリティスタディが必要だ。感情による偏見こそが現代社会で論理的な結論をおかしくさせる最たるものではないだろうか。グリーンピースの事件で僕はそれを強く感じた。