敵対的矛盾と非敵対的矛盾の形式論理による理解


弁証法的な矛盾というのは、三浦つとむさんの『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)によれば「対立を背負っている」ということが本質的な特徴として語られている。弁証法的な矛盾は、現実に存在する対象をさして矛盾と呼んでいるので、これも、現実の対象が「対立を背負っている」という現象をさして、その現象に対して矛盾という言葉を適用している。

矛盾という言葉の元になった中国の話に出てくる現象は、想像上のもので現実のものではない。そしてそれは決して現実のものにならないという点で弁証法的な矛盾ではない。形式論理的な矛盾と呼んでいいものだろう。それは人間の判断の中にだけ存在する観念的な対象だ。

矛盾の元になった話では、

  • どんな盾でも突き破ってしまう矛
  • どんな矛にも破られない盾

という二つのものが出てくる。この矛と盾に対して、「その矛でその楯を突いたらどうなるか」、という質問をしたときに、答えに困ってしまったというのが「矛盾」という言葉の始まりとされている。その矛は、どんな楯でも破ってしまうのだから、当然その楯を破るはずだと考えたいのだが、しかしその楯はどんな矛にも破られないのだから、破られてはいけないということになる。あちらを立てればこちらが立たないという困った状態になる。

その矛は盾を「破る」という肯定判断と、盾を「破れない」という否定判断の両方が成立してしまう。これを形式論理では「矛盾」と呼んでいる。だが、この矛盾は頭の中にある判断に対して起こっているので、その判断が間違っていると理解すれば解決する。形式論理的な矛盾は、その判断をもたらした思考の展開が間違いだということを理解すれば解決する。

この場合は、上のような性質を持った矛と盾が両方とも存在すると考えると矛盾するので、そんなものは存在しないと結論すればいいことになる。この場合は、両方が同時には存在しないと考えるので、どちらか一方だけが存在するのなら矛盾は生じない。しかし、これが現実の存在としてとらえられると、その判断(どんな盾でも突き破ってしまう矛)というものが正しいのかどうかということは論理が決定することではなく、現実が決定することになる。現実に、どんな盾でも突き破ってしまうということを確かめることが出来れば、そのような矛が存在することは正しくなるし、一つでも突き破れない盾に出会えばその判断は間違っていると判断される。

形式論理の場合の矛盾は、その矛盾が生じた判断の中のどこかに誤りがあるという了解で矛盾が解決される。弁証法的な矛盾の場合は、その解決方法として矛盾を二つの種類に分けてそれぞれの場合に応じて考えている。二つの矛盾は、「敵対的矛盾」と「非敵対的矛盾」と呼ばれる。

実際に対立を背負っている存在を、どのようにしてこの二つの矛盾のどちらであるかという判断をするかを考えてみよう。そして、実際の解決方法を見ることで、弁証法的な矛盾の解決を考えてみようと思う。

三浦さんの本では、生命という現象を「生」と「死」という対立を背負った矛盾としてとらえている。たとえば、人間は個体として全体を見れば、生きていると同時に死んでいる人間はいない。同じ視点で人間を見れば、「生きている」と「生きていない」という肯定判断と否定判断が同時に成立することはない。形式論理的な矛盾は現実にはない。だが、この視点を変えて、全体性としての人間ではなく、部分の細胞を見るという視点で「生」と「死」を考えると、この細胞には「生きている」細胞と「死んでいる」細胞が見られる。

細胞自体も、同じ細胞を見るという同じ視点で見れば、生きていると同時に死んでいる細胞はない。だが、数ある細胞を別々に眺めれば、生まれつつある細胞や、死につつある細胞、今生きている細胞、死んで排泄される細胞などが見つかる。これらを結果としての判断だけで眺めれば、「生きている」と「生きていない」という二つの判断が両方とも同時に提出されているように見える。これは時間的に同時なだけで、その前提を含んで、論理的に同じではないのだが、正反対の真偽が対立する判断が提出されていると受け取ると、ここに矛盾が見つかったと(比喩的な言い方で)言える。

さて、生命体はこのような生と死の弁証法的な矛盾を背負っているが、この「矛盾は」それを解消してなくしてしまうと、生命体の活動そのもの、つまり全体の生も失われてしまう。死んだ細胞の代わりに生まれてくる細胞がなければもちろん全体は死んでしまう。その反対に、死につつある細胞が無くなり勝手に増殖するようになれば、それは癌という病気と呼ばれるようになるだろう。この生命体の「矛盾」は、消えてしまえば生命という貴重な利益が失われる。この「矛盾」は調和的に維持することがその解決になる。このような「矛盾」を三浦さんは「非敵対的矛盾」と呼んだ。よく考えると、現実に発見できる弁証法的矛盾はほとんどが「非敵対的矛盾」ではないかと思う。それが現実に存在しているということから、実は存在することの合理性が求められ、合理的であればそれを合理性に従って維持することこそが正しくなるのではないかと思う。

この「非敵対的矛盾」は、形式論理的な観点で見れば、全く矛盾とは呼べないものになる。それは違う視点から見た主張を、単にその視点を外して表現すれば肯定と否定の表現のようになるというだけのことで、視点を一緒にして表現すれば、何ら形式論理的には矛盾した表現にはならない。ある細胞は死んでいるが、ある細胞は生きている、という判断を語っているだけのことだ。

「敵対的矛盾」の方はその理解がちょっと難しいように感じる。適当な例が見つからないのだ。「非敵対的矛盾」が、それを維持し調和させることが解決だったのに比べて、「敵対的矛盾」の解決は、それを解消させてなくすことが解決となる。だが、それは本当に解決になっているのだろうかという疑問がわいてくる。

たとえば何らかの利害が対立している二つの会社AとBがあったとき、その利害の対立は「敵対的矛盾」と言えるだろうか。Aのもうけは、必ずBの損になるだろうか。もし「もうけである」と「もうけでない」という矛盾がそこに存在して、Bの存在を消してしまえば、すべてがAのもうけになるという形になることが、「敵対的矛盾」の解決だとしたら、これは本当にいい方向(利益となる方向)へ向かっているのだろうか。

短期的には、確かにBがもうけていた分がAの方に来て、もうかっているように見える。矛盾の解決のような気もする。しかし、これが矛盾の解決であるなら、他のライバルの会社をすべて淘汰してA社だけがもうけを独占することが矛盾の究極的な解決になるとしなければならないだろう。だが、このようにすれば、それは利益になるどころか取り返しのつかない弊害をもたらすようになるだろう。

新製品を作ったり、品質の向上に努力したりするという企業としてのモチベーションは下がるだろう。企業倫理が低下してもライバルがいないのだからもうけは変わらない。進歩はなくなり、退廃と堕落だけがもたらされるのではないだろうか。社会主義国家の企業は例外なくそういう運命をたどったように思う。

形式論理的な矛盾は、間違いを訂正することで、矛盾を解消する方向で解決された。これは「敵対的矛盾」の解決方法とよく似ている。「敵対的矛盾」の解決も、矛盾の解消が解決になっていた。だが、これは長い目で見れば、どちらか一方を消してしまうことがかえってもっと大きな問題を引き起こしているようにも感じる。

「敵対的矛盾」が示す矛盾のとらえ方は、それは形式論理の矛盾と同じものではないかと思われる。それは、A社の利益が、そのままの視点でB社の損害として映るという形になっているのではないかと思う。この利益と損害の矛盾は両立しない。だが両立しないのは、実は「A社の利益である」という命題と「A社の利益でない」という二つの肯定と否定の命題なのだ。この二つが同時に成立すれば、それは形式論理的な矛盾になるので、そういうことは現実には決してあり得ない。

A社の利益がそのままでは、B社の利益は増えない。A社の損害が結果的にB社の利益になるというとらえ方をしなければ、この弁証法的な「敵対的矛盾」は見えてこない。だが、A社が利益を上げたままで同時に損害を生むことはない。この場合に、矛盾を解消して解決する内容というのは、A社の利益を解消してなくしてしまうことによって結果的に損害にするという、形式論理的な矛盾を消して現実に存在可能な形のものするということになるだろう。

「敵対的矛盾」というのは、現実にそれを見つけることが出来ないのではないか。A社は今もうけているが、このもうけが無くなって、それがB社の方にこないかなあという想像をしたとき、頭の中の判断として生じるのが「敵対的矛盾」ではないのか。それは形式論理的な矛盾であるが故に、現実には存在できないのではないかと思う。

実際に「敵対的矛盾」のように見えて、相手の存在に消えてもらいたいと思っているときでも、それは単に相手の存在によって困ったことがあるという現実があると解釈した方がいいのではないだろうか。これを、「敵対的矛盾」だと思い込むと、相手を消さない限り解決しない矛盾になってしまうから、悲惨な戦いが生まれてしまうのではないだろうか。「敵対的矛盾」という概念は、非常に危険で困った概念ではないかと思う。

国家と国民の関係においても、時として「敵対的矛盾」に見えるようなことがある。特に、国家権力が国民を守るどころか弾圧しているように見えるときは、その「敵対的矛盾」を解消すべきだという考えが生まれてくる可能性がある。このような考えから、国家権力を否定するアナーキズムのような考え方も生まれるのではないかと思う。だが、国家権力を否定するだけでは、それが存在することによって保たれていた調和の方も失われてしまう。敵対的に見える国家権力と国民の関係も、それが現実に存在して秩序を保っているということから、実は「非敵対的矛盾」としてとらえた方がいいのではないかと今は思っている。問題は、どのように調和を実現していくかだ。敵対的になる部分ではなく、非敵対的になる部分がどのようなメカニズムで動いていくかを知らなければならない。宮台氏が語る社会学にはそのあたりのことが説明されているのではないかと思う。

現実に存在している弁証法的な「矛盾」というのは、存在している以上必ず「非敵対的矛盾」として解釈できるのではないだろうか。そして、「敵対的矛盾」は、それが示しているものが形式論理的な矛盾である以上、実際には矛盾として現実に存在することは出来ないのではないか。実際の「敵対的矛盾」は、実は何らかの存在が何か困ったことになっている、つまり調和的な「非敵対的矛盾」のメカニズムから外れてしまっていることを示しているのではないだろうか。そうであれば、理解すべきは、敵対者を消すことではなく、ちょっと狂ったメカニズムを正常化することではないだろうか。

僕は、グリーンピースの事件に、警察と司法の制度のちょっとしたメカニズムの狂いを感じる。本来は、我々国民の生活を守り違法性を正すことで秩序を保つ機能を持っているはずなのに、一部の権力に近い側の利益のために働いているように見える。ちょっと困った状況が、敵対的な様相を帯びて出てきている。このメカニズムの狂いを修正し、間違った命題を正すにはどうすればいいだろうか。そのようなことを考えるために論理学を利用し、宮台氏が語る社会学をヒントにしたいものだと思う。