グリーンピースへの扱いのどこが不公平なのか


さえきさんという方から「現代社会で論理に対立するのは非論理ではなく感情だ」というエントリーのコメント欄に、「「その前提となることが恣意的で公平さを欠く」という根拠が、いまひとつわかりませんでした」という疑問を呈するコメントをもらった。「公平さを欠く」という判断は、僕の中では論理的に求められた結論として確固としていたのだが、説明があまりうまくいっていなかったようでわかりにくくなっていたようだ。もう一度「不公平」という観点がクローズアップされる形でこの問題を考えてみようと思う。

僕が「不公平」を感じた一番の理由は、グリーンピースへの扱いと、横領を告発されていた調査捕鯨の関係者への扱いの違いがあることだ。公平ならば同じ扱いがされなければならないだろうというのが僕の判断だった。それは、両者とも起訴を前提とした捜査の対象とするのか、あるいは、両者とも犯罪としての立件が難しいので今回は捜査の対象としないという扱いだ。現実には両者の扱いが全く違うものになったが、この違うものになったという判断が、僕には論理的に納得できないので、ここに「不公平」を感じるのだ。

法の下の平等」という原則的なルールがある。これは、行為として同じだと考えられるものに対しては、その同じだという判断から、同じ法的な処置をすべきだという原則的ルールだ。この原則に違反する例外も時にあるが、そのときはそれが例外であること、「法の下の平等」よりももっと重い他のルールで原則が破られるということが整合的に説明できなければならない。

たとえば「責任能力がない」と判断された人間に対しては、そもそも法的責任を問うような裁きが出来ないので、たとえ同じ行為をしたと判断されてもその行為を法的に裁くことが出来ない。「法の下の平等」原則は、この場合は適用されない。「責任能力がない」人は特別な人間として原則から外される。

グリーンピースの行為と、調査捕鯨船の関係者の行為の重なるところは、それが、「本来の所有者でないものがある物件を恣意的に処理した」というところだ。グリーンピースは、自分のものではない鯨肉の小包を勝手に持ち出した。調査捕鯨船の関係者は、本来は調査捕鯨の対象である、公共のものであるはずの鯨肉を、余ったからという理由で私的に処理してお土産にした。行為のこの側面を重視して判断すれば、グリーンピースの行為は「盗難」に当たり、調査捕鯨船の関係者の行為は「横領」に当たるだろう。一方(グリーンピース)を起訴を前提にして捜査するなら、もう一方(調査補減船の関係者)もそうしなければならないだろう。だが、実際には「お土産」の方は捜査を開始するということもなく、それは不問に付された。

この扱いは、「法の下の平等」の原則に違反する。だが、ここに例外的な特性があることが整合的に指摘されるなら、それは同じように見えるが違う視点から見れば、違うものとして見えてくるという意味の違いによる弁証法性で合理的に説明することが出来る。果たして、この違いに合理的な理由がつけられるだろうか。

この違いを説明する理由として報道されたものは、お土産として持ち帰るということが「習慣」になっていたということから、グリーンピースの行為とは違うということが説明されていた。これ以外の理由の報道は見なかったので、おそらくなかったと思う。これは、果たして例外を生じさせるほどの重い理由になるだろうか。

さえきさんは、「本当に「お土産として余った鯨肉を持ち帰るのは習慣化していた」ということだけが理由なのでしょうか?」という疑問を提出して、他にもまだ理由があったのではないかということを考えているが、もし本当に他に理由があるのなら、検察側にはそれを説明する義務があるだろうと思う。また、本当に理由があるのなら、検察は積極的に説明した方が自分にとって有利になるはずなので、「あるならば説明する」と受け止めた方が正しいだろう。それを何も知らさないのであれば、「説明しないならば、ないのだ」と判断されても仕方がない。

実際に想像を巡らせても、この扱いの違いを正当化する理由は発見できない。だから、「習慣」だという理由は、かなり苦し紛れに捻出した理由ではないかと感じる。だが、この理由がもしも例外として原則を破るほどの理由になるなら、それは他のものにもルールとして適用されなければならない。「法の下の平等」の原則に優越する「責任能力がない」という判断は、あらゆる法の適用に優越して普遍的に適用されるからこそ「法の下の平等」よりも重いルールになる。だが「習慣」だったという理由がこのような重さを持っていると考える人はいないだろう。「習慣」で許されるなら、かなりの犯罪は許されてしまうからだ。

この「習慣」という理由に比べれば、グリーンピースが主張するような、「横領という犯罪があると思われるので、その調査のためにやむを得なく証拠物件として持ち出した」という理由の方が、それが「盗難」ではないということの理由としてまだ整合性がある。だから「習慣」などという理由にならないようなずさんな理由が認められるなら、グリーンピースが主張する「犯罪ではない」ということも当然認められなければそれは「不公平」だ。

グリーンピースの行為を「犯罪」だと判断するなら、鯨肉を持ち帰る「お土産」にも横領という犯罪性がないかを捜査するという方向が公平な扱いだろう。「お土産」という習慣だからそれを不問に付すというなら、「犯罪立件のための証拠をつかむための持ち出し」という理由も、それと劣らず、むしろそれ以上に正当な理由となりうるのだから不問に付すのが当然ではないだろうか。

グリーンピースにとって不幸なことに、日本では、権力の犯罪に対して告発するという行為が「習慣」になっていなかったので、国民の多くがその違法性の部分のみに注目してしまった。明らかな犯罪であっても「習慣」であれば見逃されてしまう日本社会の後進性が、このようなおかしな判断を提出しても、国民的な非難を浴びることがないということにつながっているのではないかと思う。習慣化している明らかな犯罪というのは、大分の教員採用試験の際の不祥事や、ベトナムでの賄賂事件などを見るとよく分かる。それは習慣化していたので、あれだけ大きな事件になるまで露呈せずに、誰もが知っているにもかかわらず告発されなかった。

さえきさんは、「お土産」という理由だけしかないのなら「告発を受理して、告発された側の言い分のみを受け入れて不起訴にするという体制があれば、大問題だということです」ということも語っているが、これは憶測としては十分あり得ることだということを神保哲生氏が語っていた。検察は捜査をすることもなく「お土産」という単純な理由を発表しただけで終わらせてしまった。これは、理由を深く考えもせずに行っている感じが強い。そのようなことがなぜ行われるかを想像すれば、それは誰か権力の側に口利きができる有力者が、電話一本かけて、「こういうことにしておいてくれ」と言われたからそれだけしか理由が出てこないということがあり得る。ただ、これは想像にしか過ぎないので確証はない。だが十分あり得る想像だろうと思う。

前提の違いというのは、まずこの両者の措置の違いに違和感を感じた大前提としての「法の下の平等」という前提が、どうも検察側というか権力の側にないというのをまず感じた。だから、グリーンピースを起訴できる前提の方は、そこに深い意味を考えて他の前提を捜す努力をしていないのを感じる。それに対して、「お土産」の方は、犯罪につながる可能性を前提としてすべて無視しているように感じる。いずれの場合も、すべての可能性を前提として洗い出す必要があるのに、特定の前提にのみ依拠して判断しているのを感じる。そうでなければ両者の違いを説明できない。この指摘が「前提の違い」というものだ。

もう少し深読みすると、「お土産」の違法性を追求することは、日本が行っている調査捕鯨の「調査」という面に疑いが生じることにつながることを恐れてそのような方向に踏み出せないのではないかと思う。日本では、捕鯨そのものが非難を浴びて、動物愛護の精神か何かで感情的に捕鯨に反対されているのだというイメージが強いのではないだろうか。しかし、世界の日本に対する批判というのは、まともな批判は調査捕鯨のあり方に向けられている。それは「調査」と称していながら、調査に隠れた商業捕鯨を展開しているだけだという批判だ。

感情的な非難だったら、その感情に反発してもあまり問題はない。しかし、まともな批判に対してまともに論理的に答えられなかったら、世界の目は日本を近代国家として認めないのではないかと思う。「お土産」がどうして調査捕鯨への疑問につながるかを考えなければならない。

だいたい「お土産」にするほど鯨肉が余るというのはどういう状況だと考えればいいだろうか。それは、調査捕鯨と称する捕鯨が、鯨を捕りすぎていると考えるしかないだろう。調査捕鯨で捕獲した鯨は、加工されて流通に乗って売りさばかれるという。このあたりは商業捕鯨と同じだが、商業捕鯨との違いは、その利益が調査捕鯨の資金として使われるというところだ。商業捕鯨のようにもうけが出るような行為としてはいけないわけだ。しかし、「お土産」にするほど捕りすぎている鯨だったら、公的な部分に使われている以上に収入があるのではないかという疑いも生じてくる。

「お土産」に犯罪性があるということが露呈してしまえば、それは調査捕鯨にもごまかしがあるのだという論理の展開にもつながってしまう。国家権力としては、このような方向に民衆の目が向くのを防ぎたいと思うだろう。そのためには、グリーンピースの方が絶対に悪いというイメージを作ることが必要だ。そのためのマスコミの宣伝は、非常に偏ったものになっていたと僕は感じる。だが、権力の側にこのような意図があれば、それは意図に沿った合理的な行動というふうにも受け取れるだろう。

グリーンピースが重大な犯罪をやった悪い奴らで、調査捕鯨の方は悪いことをしていないというイメージを作るには、このような不公平な扱いをしてでもグリーンピースのイメージを落とすことが効果的だろう。「片方だけに厳しくする」ということも、目的としてそういうものがあったと解釈することも出来る。そうすれば、その判断の合理性も納得できるだろう。

だがそのような意図は必ずしも成功してはいないだろう。それは、論理をごまかして無理をしてつじつまを合わせていることになるからだ。「無理が通れば道理が引っ込む」ということわざにあるように、よく考えるとこのような「無理」はどこかに不合理な面を気づかせるものを発見させることになる。この「無理」に気づく人が多くなれば、このごまかしは失敗するだろう。それを期待したいが、どうも国家を批判する人が日本では冷たく扱われる伝統が気になる。国家にすり寄りたい人が多いせいなのだろうか。グリーンピースが嫌われる状況に、そのような国民感情を感じる。宮台氏が語っていたように、「個人の暴走は怖くないが、国家の暴走は怖い」という感覚が日本でも確立されなければならないと思う。個人の暴走は、国家権力が押さえれば被害は食い止められる。だが国家の暴走はそれを押さえるものがない。かつての戦争の歴史がそれを教えている。戦争の歴史が忘れられるとともに、国家の怖さも日本人から忘れられているのではないかと思う。グリーンピースを好きにならなくてもいいが、せめて平等に扱うということが正しいという感覚は当たり前のものにしたいものだ。