抽象と数学・論理との関係


小室直樹氏は『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)という本の中で、幾何学ニュートン力学・経済学などが、その対象を抽象することに成功したことで論理的表現が出来るようになったことを語っている。

幾何学はそれまでは実際の役に立てる実用的な技術として存在していた。面積を測ったり、角度を測ったり、具体的な問題の解答を得るための計算をしたりというようなことが幾何学の主な仕事だった。それを公理的な論理体系としてまとめたのがギリシア人であり、ユークリッド幾何学と呼ばれるものだった。これが論理体系としてまとめられた理由の一番のものに、小室氏は、「幅を持たない直線」や「位置情報のみで大きさを持たない点」などの抽象的な概念の成立をあげている。

これらのものは現実には存在しない。抽象的なものとして頭の中でのみそれを見ることが出来る。これらの対象は論理に革命をもたらした。現実の存在であれば、よく観察すればするほど多様な性質が見えてくる。しかし抽象的な存在は、その側面だけを見て他を無視するという「捨象」を行うので、多様な他の面は考える必要が無くなる。そうすると完全に論理のルールに従う対象としてそれを見ることが出来るようになる。抽象という行為は、論理だけに従う対象を見出し、現実を全く考えずとも、論理の世界だけで真理を求めることを可能にした。

このところ僕は論理学の本をいくつか読んでいるのだが、その本のどれも論理というものを言葉の使い方の約束(ルール)を分析するものとして定義している。それは現実世界を対象としているのではなく、我々の言葉の使い方を見るものになっている。だから、現実世界の多様性は捨象されているといっていい。このような発想に対して若い頃の僕は疑問を抱いていたが、今はそれの方が正しいのではないかと思っている。論理というのは、現実と無関係に成立して真理を求められるからこそそのすばらしさがあるのだと感じている。現実の様々な雑音に悩まされることが無くなるからだ。

若い頃の僕は唯物論というものにこだわっていたので、論理も唯物論的に理解しなければならないと思っていた。これは三浦つとむさんのマルクス主義に影響されていたので、すべての理論活動の基礎には唯物論がなければならないと思っていたのだ。その唯物論的な解釈をすると、論理というものも、現実世界がある種の合理性を持っているので、その合理性が人間の脳に反映して論理として認識されるのだというものになる。論理の正しさは、現実世界の合理性にあり、それを正しく反映したルールとして論理の法則があるのだと考えていた。

しかしこの考えは、数学や論理の場合にはどうもうまくいかないような気もしていた。その正しさがいつまでも現実からの反映という性質を抜け出せないと、それは今までの経験からは正しいと言えるが、その経験を覆すような現象に出会ったときにその真理性が揺らいでしまうからだ。数学や論理は100%信頼できる真理のように見えるが、それが現実に基礎を持つ限りでは100%を主張できなくなる。この問題をどう解決すればいいだろうかということが唯物論を信頼しながらも心に引っかかるものだった。

自然科学においては唯物論を基礎にするのは当然すぎるほど当然だと思っていた。板倉聖宣さんも、今更唯物論を主張するのも気恥ずかしく感じられるほどそれは自然科学にとっては当たり前の前提だったと語っていた。自然科学というのは、その真理性が、現実の物質的存在に基礎を置いていなければ単なる空想であり妄想になってしまう。それが真理であるためには現実にそのような現象があるということを確かめた後でなければならない。

数学や論理も、若い頃はそういうものではないかと思っていた。しかし、それでは完全な真理であるということを主張できない。いつでも現実と対応させなければ真理であることが決定できなくなる。個々の具体的な命題に関してはそうなるだろうが、内容を捨象した論理学の対象としての任意性を持った命題に関しては、それはもはや現実とのつながりを持たないものであり、論理の世界だけで100%の真理が確定するものと考えなければならないものだと思っていた。

この疑問を埋める鍵が、板倉さんの科学の概念だった。自然科学も現実を基礎にしている以上、現実の多様性を反映しているだけなら、その真理性は100%だとは言い切れない。だが板倉さんは、科学として認識されたものは100%真理だと言い切ってしまう。その根拠となるものが「仮説実験の論理」だった。そのポイントになるのは、実験の対象として「未知なるもの」を選ぶことだった。この「未知なるもの」は、論理における「任意性」を持つものとして抽象的に設定されている。

化学の実験において板倉さんが選ぶ「未知なるもの」は、ある仮説が正しいかどうかを検証する対象になる。それは現実存在としては様々な多様性を持っているが、仮説を検証したい対象として設定している限りでは、その仮説に関係ある部分にしか注目していない。他は捨象された存在として、現実のものではあるが観点は抽象的なものとして考えられている。そこから「任意性」という論理の飛躍も許されるものとして考えるのが「仮説実験の論理」だ。それは決して抽象的な存在ではないのだが、あたかも抽象的な存在として扱うことで、現実のままでは決して持てない「任意性」という性質を想定しても良いということになる。

数学や論理における真理性もこのような抽象を元にして考えると100%の信頼が得られるのではないだろうか。数学や論理に注目するきっかけは現実の存在からであり、それは唯物論的に受け取った方が正しいだろう。現実の存在が数学や論理の法則を予想させる姿をしていたから、それがまず反映して実際の役に立てる実用的なものとして数学や論理が登場したと考えていいのではないかと思う。だがあるときに、これが逆転する論理の飛躍が起こったのではないかと思う。

現実からの反映だった数学や論理で、そこで使われていた概念があるときに抽象的なものとして成立して、それが逆に現実世界に投影されて、現実を抽象的な観点で切り取るような見方が見つけられたのではないだろうか。現実の線や点をいくら観察しても、それを幅のないものと見たり、大きさのないものと見たりすることは出来ない。だが、幅を考えないで思考を進めても全く問題はないということが発見されると、幅がない線という概念で、現実を抽象化した世界を見たらどうなるだろうかという発想が生まれるのではないだろうか。このとき、幾何学は、現実の観察をする学問から、現実を離れて自由に思考できる学問に移行したのではないかと思う。

唯物論的に考えると、抽象概念というのは、多くの現実に存在する対象から同じ側面を取り出すことによって成立するものと考えられる。だが、どれほどたくさんのものから同じ側面を観察しようとも、それが有限の範囲のものであれば、その抽象は正しい意味での抽象にならない。いつまでも仮説のままの知識になるだろう。それを抽象概念として設定するのは、現実を無視するという論理の飛躍がなければならない。人間は、この論理の飛躍という冒険をおかして思考の展開の発展をもたらしたのではないだろうか。

多くの経験の中から、想像力豊かな人間が、あるとき抽象概念というものを作り出し、その抽象概念で世界を見直してみると、雑多な思考を邪魔していた雑音としての知識がすっきりと消えて、世界に対する見通しが良くなったのではないだろうか。これは、自分の学習の経験から想像したものだが、自分の学習においてもある抽象概念がつかめたと思えた瞬間から、その理論体系での主張がはっきりと見えてくるという、思考の見通しの良さを経験することがあった。

このように考えると、抽象という概念は、その概念がまず生まれてそれで世界を切り取って整理することで、もやもやとした星雲のような対象がはっきりと見えてくると考えられるのではないかと思う。ソシュールが主張することの正しさが、抽象的思考というものに見られるのではないかと思う。また、概念をつかむために重要なものとして言語の存在というものもとらえられる。そして、この思考の展開の理解のための言語とは、我々が日常的に使う言語ではなく、抽象的概念を生み出すような言語の性質だ。これをソシュールがラングと呼んだのなら、ソシュールが解明したかったのは、言語が持つ思考に対する影響としての側面だったのではないかと考えられる。ソシュール言語学というのは、人間にとっての思考の中での言語の位置を解明するものではないかと思う。言語の表出である言語現象よりも、頭の中の認識であるラングの方を重視するという合理性をここには感じる。

論理の世界が抽象された対象で現実を切り分けたものだととらえれば、論理的表現が必ずしも日常言語で語る論理的な表現をすべて代表しているものではないことも、ある意味では当然のものとして受け取れる。論理学では「ならば」で語られる論理現象が、日常的な「ならば」の使い方と重ならない部分が非常に多いので、論理を勉強し始めた最初から気になっていたのだが、それは抽象性の故だということであれば納得できる。

抽象するということは、一度は現実を無視して抽象的な世界の中だけで思考を展開するということを意味する。それは小室氏が語るモデル理論のようなものとして理解した方がいいだろう。この一度の否定は、そのままではいつまでも現実を無視した妄想として展開する。これをもう一度現実に引き戻して、弁証法でいう否定の否定を実現したとき、そのモデル理論は現実に適用される妥当性を獲得する。この抽象を現実に引き戻すもう一回の否定は、現実をきっかけに引き出された抽象を、その視点で現実を切り分けることによって、現実の中に抽象的なモデルにふさわしい対象を見出すことで行われる。このモデルにふさわしい対象を見つけて、抽象理論を解釈することが出来なければ、その理論は妄想として捨てられるだろう。

抽象的に設定された幾何学ユークリッド幾何学として現実世界との結びつきを持ち、現実には幅も大きさもある線や点が、それがないものとして見られて思考が展開されることで理論が発展する。そして、現実の線や点がそのような抽象を適用するにふさわしい存在としてあることで、ユークリッド幾何学は妄想ではなく現実に有効な理論となる。

ユークリッド幾何学に対して、全く抽象の産物として非ユークリッド幾何学というものが生まれた。リーマンの幾何学などは球面で成立する幾何学としてその現実的な解釈が提出され、抽象がうまく適用できる対象を発見した。モデルとして有効であることが確かめられている。この抽象でなら、現実を切り分けることによって、さらに現実を深く認識できるということになる。

ニュートン力学では質点と呼ばれる、大きさはないのだが質量が集まっている点という抽象的対象が、その理論を数学や論理が適用できる形にした、と小室氏は語る。確かにそうだと思う。そして、この質点というものが、現実の存在では重心というもので抽象物に対応する解釈として発見できる。抽象的な理論としては、現実と関係なく数学と論理だけで構築できる力学という体系が出来る。そしてそれは現実に重心という抽象と対応する存在を発見できると、現実に対する有効性も獲得する。

現代経済学はもはや数学の一部だともいわれている。多くの数学者が実際に経済学の研究に携わってもいる。ただ、経済学に対しては、まだそれが空想的な妄想ではないかという疑いもあるようだ。それは、抽象にふさわしい現実の対象というものが、経済学の場合には発見することが難しいからだろう。人間の意志が関わらない力学と違って、利益を求めて行動する人間というのは、時に利益を無視して他の動機で動いたりするから、常に利益を求めて行動するという抽象が難しくなる。だが、このあたりの抽象概念の適用が克服されれば、数学や論理を使った理論体系は多くの有効な知見をもたらすだろう。抽象概念で現実世界切り開くという発想は、人間の思考の展開に大きな進歩をもたらすと思えるからだ。難しい抽象概念を正しく理解したいものだ。