言葉の約束である論理がなぜ現実の合理的な理解をもたらすのか


かつては、論理は現実世界の反映であり、論理の正しさといえども現実にその基礎を持っているのではないかと僕は考えていた。ウィトゲンシュタイン的な、写像による現実世界の像としての論理空間というイメージを抱いていた。今ではそのような理解をやや修正している。論理の法則の発見のきっかけは、現実世界との対応だったのではないかと思うが、いったん論理の法則が理解されると、それの考察はもはや現実世界と関係なく行われる。それは言葉を対象にして考察することによって理解されるようになる。

論理というのは、現実の法則ではなく、言葉の法則であるという理解の方が今では自分のものになっている。論理の正しさも、言葉の使い方のルールとして合理的だからだと思える。だが、この合理性は論理によってそう言えることなので、論理の正しさを論理によって理解するというところにやや危うさも感じている。循環論法的な雰囲気を感じるからだ。

いずれにしても、言葉の法則だと思われる論理が、何故に現実世界の理解においても有効なのかということは単純には納得できないように思われる。現実を無視して抽象されている論理という言葉の世界が、どのようなつながりで現実を正しく反映することが出来るのだろうか。論理に従わなければ我々は合理的な思考を行うことが出来ない。目の前の事実を見たままに記述するだけでは、その今の見えている側面のことだけしか語れない。今見えていないことは思考の中に入ってこないし、過去や未来のように、今見ていないことも思考の中に入ってこられない。

肉体の目で見えないものを、頭の中のノーミソの目で見て、過去の出来事を記憶の中にためて、これも思い出すことによってノーミソの目で見て、未来の出来事は想像という頭の働きでノーミソの目で見る。これが出来て、しかもその見たものの間に関連をつけて、世界を秩序のある全体として構造づける働きが「合理的」な思考というものだ。これは論理という整合的な構造を持った目で対象を見なければ出来ない。

そのようなことは結論づけられるのだが、「ではなぜ論理を使えば合理的なのか?」という問いには答えることが出来ない。それは、「合理的だから合理的なのだ」としか答えられないのを感じる。むしろ、論理的に考えるということを我々は「合理的」だと理解しているようにも思う。

我々が定義することが、定義しただけで現実に存在するとは限らない。たとえば幽霊などは言葉の上で定義することが可能だが、定義したからといって幽霊が存在するとは主張できない。だから、「合理性」というものが、論理法則に従うことだと定義しても、それで「合理性」という現象が存在していることの保証にはならない。単に我々が思い込んでいるだけかもしれない。しかし、この思い込みは、幽霊の場合と違って我々に多くの利益をもたらした。

利益をもたらしたから存在していると即決するのは功利主義的でちょっと短絡的すぎるだろう。このあたりのことを「腑に落ちる」ように納得するにはどう説明したらいいだろうか。この一つの説明を、存在という認識をソシュール的に解釈することで説明づけられないかと最近は思うようになった。

存在というのは、何か分からないが我々の認識の対象になるものがそこに「存在する」というのは、様々な経験から分かる。それがたとえ勘違いだったとしても、勘違いをさせた何かがそこに「存在する」ということまでは我々は疑わない。認識としての結論が間違っていたとしても、何も存在していない無の状況に何かが存在したという勘違いはないだろうと思っている。

幽霊を見たと思っている人も、そこに何もない空間が広がっていたところに、突然幽霊が出現したと語る人はいない。幽霊は木の陰から現れたり、何か物陰にいたりするものだ。つまり、何かが存在していることは確かで、その存在しているものを間違って受け取るということから、認識の中の間違いとして幽霊というものが出現する可能性がある。

概念というのは、存在の持っている共通部分から抽象されてできあがると考えられている。「犬」という概念は、現実に存在する動物の中の、「犬」の特徴を持っている対象から抽象されてできあがったと考えられている。概念の基礎にはいつも存在があり、存在に名前をつけることで概念が生まれたという発想だ。しかしこの発想を否定したのがソシュールだったと内田樹さんは伝えていた。

ソシュール的な発想では、概念というのが生まれる前は、まだ対象に対してはっきりした像を人間は持つことが出来なかったと想像している。混沌とした星雲のようなものという表現だっただろうか。それが言葉を持つことで、その言葉に従って現実を切り分けていき、現実の中に秩序を持ち込んだという発想がソシュールのものだ。はじめから現実の方に秩序があったのではなく、混沌としていた現実世界を、ある種の整理の仕方を言葉で提出して、言葉の入れ物の中に現実の対象を入れることで整理して秩序づけていったのが、人間の言葉の働きだと、僕はこのことを理解した。

ソシュールのこの発想を使うと、次のように考えられるだろうか。人間にとって現実の世界というのは、混沌としてはいるがその間に何かの「違い」を見るという経験はあっただろう。動物はいろいろとたくさんいるだろうが、その形に違いがあったり、鳴き声や、生活の習慣(肉食だとか草食だとか)などの違いを見ることは出来たのではないだろうか。この違いをどう認識するかという問題で、人間は言葉の持つ音声の違いを利用したというのがソシュールの発想のように思う。

音声が違う言葉を、対象の違いに対応させるということで、初めて対象を分類できたとソシュールは想像したのではないだろうか。言葉で現実を切り分ける以前は、その違いを頭の中に記憶としてとどめておくことが出来なかったのではないだろうか。言葉があふれている現在の我々には、それほど言葉がなく、現実の世界への理解が浅かった時代を想像するのは難しいが、言葉で指させるものは分類できるが、言葉で言えないものは、それは単にそこに「存在する」ということがぼんやりと分かるだけで、それ以上のことは何も言えなかったのではないだろうか。

その最初の言葉がいったい何を指していたかというのは全く分からない。どうしてそのものを指すようになったかということも分からない。一部の擬音語や擬態語は想像は出来るが、大部分の言葉は、なぜその対象をその言葉で指すのか、犬をなぜ「犬」という言葉で指すのかは分からないだろう。だが、言葉が生まれる初期には、そのようにして言葉とともに概念も生まれてきたと考えるのは何か納得できる面がある。

この場合は、その概念は最初はあまりはっきりしていないだろうが、その言葉を使ううちにだんだんとはっきりしていくように思われる。これは我々が言葉を学習する過程を反省するとそのように思える。子供が現実の犬を見て「犬」という言葉を覚えたとき、最初はもしかしたら猫との区別もついていなかったかもしれない。しかし、「犬」という言葉を使う中でその概念は徐々に修正されていく。その言葉が子供の世界を正しく切り分けて分類していくからではないかと思う。

論理という概念もそのように発展してきたと解釈すると、論理的に考えることこそが「合理的」だという理解も生まれてきそうに思う。論理をはっきり意識したのは古代ギリシア人からだといわれている。それ以前の人々は、論理的に思考していたと結果的には思えても、意識の中に論理に従って思考を進めるというものはなかったのではないかと思う。その大部分は結果を見て正しいか正しくないかを判断していたのではないだろうか。

数学でいえば、ある種の問題に答える実践は、その答えが現実の要請に対して適切な答えであったときに正しかったと判断されていたのではないだろうか。面積を計算したり、ある種の方程式を解く計算などは、現実の問題に即して具体的に考えられ、それに具体的に適切に答えたとき、正しく解決されたといわれていたのではないだろうか。ここには、現実の混沌とした世界の把握があるだけで、過去の記憶の蓄積や、未来に対する想像はなかったのではないだろうか。

古代ギリシアタレスは最初の哲学者と呼ばれているが、日食を予言したことでも知られている。日食の予言というのは、過去のデータの蓄積から法則性を認識し、それを未来の出来事の予測に使うという思考の働きがあって初めて出来る。「合理的」な思考がない限り出来ないことだ。

古代ギリシア人が論理的な思考をするようになったというのは、古代哲学史を見れば、その民主主義的な政治形態や、他者を説得する習慣があったことなど、いろいろ原因が考えられるが、彼らが初めて論理的な思考を確立したということは、彼らが論理というものの概念を初めて持ったと解釈してもいいのではないかと思う。この概念を持って、人間の思考という現実世界を切り分けていったら、そこに「合理的な」思考という分類が出来る一群の対象が見つかったと解釈できるのではないだろうか。

「合理的」という言葉は、「合理的だから合理的だ」としか言えない面を持っているが、これは「合理的」という言葉で世界を切り分けると、その「合理的」という性質を持った対象を見つけることが出来、その対象を「合理的」だと呼んだから、結果的に「合理的だから合理的だ」としか言えなくなっているのではないだろうか。これは「犬」の概念などもそうではないかと思う。それがなぜ犬なのだ、と聞かれたら、究極的には「犬だから犬なのだ」としか言えないのではないだろうか。

もちろん、犬の持っている性質から、その存在を犬だと証明することが出来るかもしれない。ほ乳類であることや、4本足で生活すること、人間のペットになることなどから犬であることを推論することが出来るかもしれない。しかし、その諸性質も、まず「犬」という言葉があって、その概念が確立されていたから求められたものだ。つまり、「犬であればこうなっている」ということが基礎にあったから、犬の概念がすでにあったからそう言えるのではないだろうか。その性質を求める以前に、なぜそれを「犬」だと言ったのか、と問われれば、やはり「犬だから犬なのだ」としか答えようがないのではないかと思う。

ソシュールが語ったように、まず言葉があって、それによって世界切り分けることによって人間の認識が発達してきたと言うことは正しいような気がする。少なくとも、論理の合理性に関しては、それが言葉の上での規則だということになれば、言葉はそのように世界を秩序づけることが出来るからこそ、言葉の規則である論理は世界の秩序である「合理性」を基礎づけることが出来るのだと理解するしかないような気がする。ウィトゲンシュタインが語った論理のア・プリオリ性も、言語が世界を理解する以前に、対象である世界を切り分けるからこそ、理解の前に前提されているものとしてア・プリオリ性が出てくるのではないだろうか。

このように考えると、ものの存在というのはかなり微妙なものになる。概念を持たない、「存在する」としかとらえられない対象は、カント的な物自体としてしか捉えられないのではないかという感じがする。その物自体に概念を与えることによって、それは初めて、人間に対する物になるのではないだろうか。戸田山和久さんの『科学哲学の冒険』(NHKブックス)に、科学が提唱する原子や電子の存在が本当に主張できるかという問題が語られていた。これなども、それがまず存在して、それから人間に認識されたのだと考えると、その実在を主張するのはとても難しいのではないかと思う。それは、人間が原子や電子という言葉で呼ぶまでは、何か分からないが存在しているとしか言えなかった物が、原子や電子と名付けることでそのもやもやしていた物がはっきりと見えるようになったと理解した方がいいのではないだろうかと感じた物である。同じように、「合理性」も論理の発見とともに人間には理解されたのだと思う。