理解の道具としての形式論理 1


宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」という「社会学入門講座」の最終回に当たる回はたいへん難しい。この内容は、宮台氏の『権力の予期理論』(勁草書房)という本の内容にも通じるもので、この本がまたとてつもなく難しい内容を持っている。

この難しさは、主としてそこで取り扱っている概念の抽象度の高さにあるのではないかと僕は感じている。あまりにも抽象度が高いので、それを思い描くイメージが頭の中に形成されない。概念が言葉の段階で止まってしまっているのを感じる。概念というのは、言葉で定義されているものを、言葉のままで記憶してもそれが運用できるようにならない。それに具体的なイメージが張り付いて、そのイメージの方がある種の変化をして、それを追いかけることによって思考が展開される。

この高度に抽象化された概念を理解するために形式論理が役立てられないかということを考えている。それはかつて大学生だった頃に、数学が語る抽象の世界のイメージをつかむのに記号論理と呼ばれる形式論理がうまく利用できたことから、数学以外の分野でも抽象度の高い理論の理解に形式論理が利用できないかと期待したいものがあるからだ。

文章で書かれたことを理解するときに、そこに書かれている事柄の知識が足りなくて分からないのか、それとも論理的な構造をうまく把握できないために分からないのかを区別することは、理解を考える上で重要ではないかと思う。実際には、この両者が複雑に絡み合っている場合が多いだろうが、この絡み合っているものを解きほぐして、何を知れば理解を一歩進められるかの指針を与えてくれるものとして形式論理の利用を考えようかと思う。

さて、宮台氏の文章の中から論理的な構造を読み取れる部分を取り出して、その論理の飛躍を理解可能なまでに縮めて、論理の鎖を出来るだけ完全な形で表現してみようと思う。まずはパーソンズの定義として語られている「政治」について考えると、そこには論理的には次のような等号関係があると見られる。


「政治」=「集合的決定」=「社会成員全体を拘束する決定」


この等号は、その言葉が意味するものが重なる・同じであるということを表す。これは定義として捉えられているので、集合としての包含関係ではなく、等号関係として捉えた方がいいだろう。「集合的決定」という言葉は、日常的な意味では必ずしも「政治」だけを指さずに、まさに現象として複数の人間がその決定に責任を持つような場合はそう呼ばれるだろう。だが、宮台氏のここでの考察では、そのような日常的なこの言葉の使い方を離れて、この等号関係で結ばれているものとして定義し直されているのだと受け取った方がいいだろう。

逆に言えば、「集合的決定」の中で「政治」とは見なされていなかったような現象(実際に政治家が一人も関わっていない場合は、日常言語的には「政治」といわないだろう)にも、それを「政治」だと捉える視点を持って考察するのだと宣言するのがこの定義だとも言える。また、「社会」という言葉の定義も実際には問題になる。これは「選択肢を選ぶ自由がある」という点で「自由意志」を持っていると思える人間が集まって構成する集団と捉えられるだろう。そのような集団は、小さくても大きくても「社会」であり、その「社会」において「集合的決定」を「政治」と呼ぶのだと理解したい。そしてその決定は、その「社会」成員の全体を拘束する。

宮台氏がこの講座で解明したいと思っているのは、この「拘束」がどのようなメカニズムで成立しているか、つまり秩序を持っているかという面のように思う。「自由意志」を持った人間が、自己の責任において選択した結果としての決定であるから、ある意味ではそれに拘束されるのは必然ではないかとも感じる。もし抽象的なモデルの世界に生きている自己決定的な人間というものを想像すれば、そのような前提からその拘束は演繹的に結論される。抽象論としてはそれで終わりだ。問題は、現実においてもこの決定は「拘束」という面を持っているように感じることだ。その現実における面が、この抽象的思考の結果としての論理展開とどのように整合的に結びつくかということだ。

このメカニズムの解明は、理論の理解の最後にもたらされるものだと思うので、宮台氏の説明の展開に従って一歩ずつ理解を図っていこうと思う。宮台氏は、次に「拘束「を」可能にするもの」と「拘束「が」可能にするもの」を問題にして、

  • 拘束「を」可能にするもの……「権力」「正統性」


という図式を提出している。ここでいう「権力」と「正統性」については、次のように捉えている(定義しているといっていいだろうか)。

  • 権力……相手の抵抗を排して意思を貫徹する能力によって定義されている
  • 正統性…決定への自発的服従契機の存在として捉えられている


集合的決定を拘束するものとして、この二つが見られるというのが論理の展開になっているのではないだろうか。「権力」による拘束では、自由意志で拘束から逃れようとしても、ある種の力によってその抵抗をくじくというメカニズムになっているように思う。また、「正統性」による拘束は、拘束される方がその拘束を正当なものと受け止めて自発的に従うという現象が見られる。それが拘束のメカニズムになるという考え方だ。

「権力」を媒介にしたメカニズムは、その因果関係を納得することが容易だ。力を恐れてそれに従うということは論理的に導かれるものだと思われる。「正統性」の場合は、そのメカニズムは「権力」の場合ほどすっきりとは腑に落ちない。そのような思い込みだけで多くの人が従うものだろうかという疑いが生じる。特に自分があまり権威に従いたくないという性質を持っているような人間だと、権威に従うという気分が社会全体を支配しているという想像がなかなか難しい。だが、ドイツにおけるナチスの支配などを見ると、多くの人が権威が語ることを信じるという現象が確かにあるのも感じる。

この「正統性」の理解に関しては、それを「正統性」の概念から導こうというのではなく、宮台氏の言い方では「外延的」に捉える視点として次のようなものをあげている。

  • カリスマがあるから  自発的に従う
  • 伝統だから      自発的に従う
  • 合法手続経由だから  自発的に従う


「権力」の場合は、その定義に「相手の抵抗を排して意思を貫徹する能力」というものが語られていた。つまり、「権力」は、現実の権力現象を観察して、そこから権力が人々を支配する現象を確かめてからその拘束を語る前に、すでに定義の中に拘束をするということが前提になって「権力」の概念が形成されている。「権力」の場合は、拘束することがほとんど自明なことのように論理的に導かれる関係になっている。

それに対して「正統性」の場合は、現実を観察して「カリスマ」「伝統」「合法手続き」というような現実の存在からもたらされるものとして、現実のシステムの属性のようなものとして捉えられる。「権力」による説明よりも、より現実に即した、現実が論理の展開に入り込んでいる考察になっているだろう。「権力」が人々を拘束するという言い方は、ある種の抽象論として、抽象的な世界では論理的必然性として成り立つ主張になるだろうが、それがそのまま現実に当てはまるかどうかは分からないというモデル理論になるだろう。だが、「正統性」の方は、抽象的なモデルではなく、あくまでも現実の対象から引き出される概念のように感じる。

宮台氏の「権力の予期理論」というのは、その名前から類推すると、「権力」というものを実際の物理的な力として規定するのではなく、人間の「予期」という現象から引き出そうとするもののように見える。人間が「権力」に従うのは、実際の強大な力で危害を加えられるという恐れがあるのも確かだが、むしろそれよりは、未来への予期として自分が何とか避けたい事柄を生じさせるようなものとして「予期」の中に権力の作用を見ているもののように思う。その「予期」としての権力は、「正統性」というものと通じるところがあるような気もする。

「予期」と「正統性」が結びつくと、これは現実の観察でどうかという判断にとどまらずに、「正統性」の根拠となる「予期」というものを抽象的に定義できれば、この抽象的に定義したものから演繹的に論理を展開して、「正統性」が従うべき法則性が結論できるかもしれない。このようにして抽象的な論理展開として求められた「正統性」に関する帰結は、拘束のメカニズムとして「正統性」が存在することが人々を拘束していると理解できるのではないだろうか。

「権力」というのは、目で見ることが出来るのでその存在を理解するのがたやすい。しかし、それは「正統性」のメカニズムの一つの現れであって、より本質的には「正統性」の方が人々の拘束の根拠としては大きいのではないかという感じがする。むしろ、「権力」が前面に出てきて人々を拘束してしまったら、それは「社会」と呼ぶにはためらいが出てくるような感じもする。「社会」であるなら、力による支配ではなく、人々の自発的な秩序形成によって「社会」が構成されていなくてはならないのではないかという感じが、「社会」の概念から要請されているのではないかとも感じる。

そういう目で宮台氏の「権力」概念を見直してみると、これが単純に物理的な力として定義されていないことが見えてくる。なぜそのような定義が見出されるかといえば、それは権力というものを、「正統性」を支える何物かとして捉えているのではないかと思うからだ。そのようなとらえ方をすると、権力というのは、単に民衆を弾圧するだけの悪ではなくて、秩序のメカニズムの「正統性」という基礎を支える必要不可欠なものという認識も生まれてくるのではないかと思う。これは、現実の「権力」がそのように理想的なものだというのではなく、抽象的に設定されたモデル的な世界では、そのようにして権力が支えることによって「正統性」が確立され、そのことによって秩序が確立されると理解することが出来るのではないかと思う。

「拘束「が」可能にするもの」については、宮台氏は直接書いていないが、単に人々を弾圧するいやなものではなく、むしろ秩序を確立するためのルールの成立というものが予想されているのではないだろうか。

ここまでの議論は、特に意味が分からなくて困ったという学術用語はなかったように思う。むしろ日常言語的な意味ではない、限定された意味として受け取ることに注意を傾けなければならない感じだ。それは、数学であれば議論の最初にすべて定義してスタートすることになるが、現実を対象にする学問では、そこで登場する言葉をすべて定義するわけにも行かないので、重要なものだけを定義をはっきりさせて議論を進めるようになるだろう。数学はすべての言葉の定義をし直すので、ある意味では論理だけを追いかけていればいいことになる。もっとも言葉の定義はややこしくて注意しないと分からなくなるが。数学以外の学問の理解のためには、定義されていない言葉の意味を間違って受け取っていないかに気をつけなければならないだろう。そのような意識を持って、宮台氏の最後の講座の理解を図ってみようと思う。