理解の道具としての形式論理 3


宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」に書かれていることで、今回は「宮台理論の特徴は、権力が服従者の了解(選好と予期)に即して定義されることです。了解の正しさは問われません」ということの意味を考えてみよう。

宮台氏の「権力の予期理論」では、「選好」と「予期」とはいくつかの選択肢で与えられる。最も単純なものでは、肯定と否定との選択肢が与えられ、それのいずれかを選ぶかということで「権力」の体験が語られていた。最も望ましいと思える選択肢が選べず、現実の条件ではそれが最も不利益にならないというものが選ばれる。選好の最適なもの(理想状態)と、現実に圧力を受けて予期から選択される次善的なものとがずれる。このずれに「権力」の体験を見ようというのが宮台氏の理論だ。

強盗に襲われたときに、ピストルで撃つと脅され、金を出せといわれる体験をしたとする。このとき、撃たれずに金も出さないということが理想の選択だが、これは現実ではあり得ないだろうと予期する。現実に最もありそうなものは、金を出さなければ撃たれるというものだ。その状態は大きな不利益になるので、せめてそれを避けるためにでも金を出すという選択を取らざるを得ない。こう判断するのが「権力」の体験だと考える。自分の利益になる方を選びたいという意志に反した行動を取らざるを得ないという圧力が「権力」として感じられる。

このときの了解、つまり選好構造と予期構造の理解において、その理解した命題が必ずしも正しくなくても、選好と予期とのずれから行動が選ばれるなら「権力」の体験がされたと定義される。宮台氏は、ピストルがおもちゃであった場合でも、本物の場合と同じように服従者が振る舞うなら、予期の判断においては間違いであっても「権力」の存在が主張できる定義になっているという。

これは論理的にどのような意味を持っているかといえば、宮台氏の定義においては、選好や予期においてその命題の真偽が捨象されているといっていいだろうと思う。宮台氏の定義においては、服従者が選好や予期としてある命題を立てることが重要で、その命題の真偽は「権力」の考察においては無関係になっている。これは抽象としては論理の構築が非常に単純化されてすっきりするだろうと思う。そこで考察する事柄が複雑さを持っていると、その複雑さに応じて場合分けをして論理を展開することが必要になるが、属性が捨象されて考察する部分が単純化されれば、論理は見やすくなる。

宮台氏は、定義に関する上の考察の次に「服従者の了解に定位すると、他にも様々な了解操縦を問題にできます」と語っている。これは、宮台氏の定義によって命題の正しさが捨象された選好と予期の了解から何が演繹されるかという問題を語っているように思う。このように抽象された対象からは、論理的に何が導かれるかということを問題にしているように思う。

「「権力主題」(服従者に与えられた行為選択肢群)の操縦」というものの考察では、単純化された二項対立的な選択肢(肯定か否定かというもの)が正しいと思わせることが「権力」の成立にとって重要であることが指摘されている。選択肢が二つしかなければ、一方が選べないと思ったら、当然のことながら他方を選ぶしかなくなる。このときに選択肢がもっとたくさんある可能性があれば、「権力」を体験せずに、権力者の意図する行動を取らずにすむ可能性も出てくる。だが選択肢が二つしかなければ、権力者がそれを操縦して自らの意図の通りに服従者に行動をさせることが出来るだろう。

宮台氏は、服従者として生徒を、権力者として教師を例に挙げて、<勉強する/しない>という選好と<合格させる/させない>という教師の行動の予期とを、この例の権力構造として考えていた。この選択肢が二つだけであるなら、教師がどのように行動するかということで生徒の方は<勉強する>という選択肢を選ばざるを得なくなるように圧力をかけることが出来る。<合格させない>つまり<落第させる>ということを避けるために<勉強する>ということをせざるを得なくさせる権力体験をするということだ。

このとき、二つの選択肢以外に、<学校をやめる>とか<教師の評価の不当性を主張する>とか、選好の選択肢が他にあると、<合格させる/させない>という予期の圧力があっても、必ずしも<勉強する>という選択肢を選ばなくても良くなる。ということは、「権力」体験を確実にさせるには、教師の側は生徒に対して二つの選択肢しかないのだと思わせることが、その了解の正しさに関係なく「権力」体験を起こさせるためには最良の戦略になる。これは宮台氏の定義から論理的に導かれることになるだろう。どのような選好構造と予期構造でもそれが言えるからだ。例のように生徒と教師の場合だけでなく、どのような服従者と権力者の関係でもこのことは同じように言える。それは了解において命題の真偽が捨象されているからだ。内容に関わっていないのだ。

なお他の問題ではあるが気になる人がいるかもしれないので付け加えておけば、生徒と教師の関係を権力関係として記述することに違和感や嫌悪感を感じる人がいるかもしれない。それは本来は信頼関係であるべきで、圧力をかけて選好に影響を与えるような非人間的関係にしてはいけないと思う人がいるかもしれない。しかし、生徒と教師の関係は、宮台氏の定義する「権力」という抽象的な命題を認めるなら、その定義に従った限りでは「権力」が見つけられる関係になる。そこには権力があることを、宮台氏の定義する限りでは誰もが認めなければならない。これが論理的強制というものだ。思考の展開は論理に支配される。

なお現実にも、生徒と教師の関係の多くは権力関係になっているものと思われる。そしてそれは必ずしも批判されるものばかりではないと僕は思う。むしろ権力関係が全くなくなってしまえば、動機付けという意味での教育が成立しなくなる恐れがあると思っている。そこには権力が有効に働く秩序の維持がなくなるからだ。教師の権威が無くなり、その結果として権力が失われれば、その権力によって支えられていた秩序はなくなる。学校現場の混乱の原因に権力の崩壊というものがあるような気がする。それは、権力というものを悪だと思っているとなかなか認めがたい指摘になるだろう。だが、宮台氏の定義は、そのような価値観も捨象された抽象的なものになっているように感じる。その抽象性から得られる価値観を越えた判断というものも、この定義の有効性になっているように思う。

かつて、ほぼ完全に自由な教育を目指したといわれていた自由の森学園での数学教師の話を聞いたことがあるが、そこでは授業に出るのも出ないのも生徒の自由に任されていたという。それだけであるなら、僕はそれほどの問題にはならないと思うのだが、生徒の気分が、教師の授業を批判的に見るということを前提にしていたことに違和感を感じた。少しでも変なことをいったら文句を言ってやろうというような感じだろうか。これは教師の権威を全く否定するような態度ではないかと思った。ノイローゼになってしまう教師もいたそうだが、常に完璧を求められる仕事をしていたらそうなるだろうと思う。自由の森学園は、評価できるいい実践もしていたと思うが、極端な自由の許容は権力をすべて破壊し、秩序の崩壊を生むのではないかという危惧を感じる。内田さんが師というものを語るとき、その尊敬の念が前提されることをいつも語っていたが、初等教育においてもある種の尊敬の念を権威によって保証するという宮台氏的な「権力」概念を存在させることが重要ではないかと思う。

宮台氏のこれまでの例は、強盗に襲われる被害者や、嫌々ながら勉強する生徒というように、権力の圧力が悪と感じられるようなものばかりだったので、何か権力は悪だというイメージを持ちやすいが、これは権力のイメージが単純化されて分かりやすいからそのような例が取り上げられていると考えた方がいいだろうと思う。むしろ宮台氏の定義では、悪とか善というような概念が捨象されていて、そこでの選好と予期とにずれがあって、選好として理想状況が選べないという現実が「権力」体験として定義されていると理解した方がいいだろう。

この「権力」体験が悪ではないものも想像は出来る。たとえば、自由に任せておいたら、とにかく自分の好きなことだけに明け暮れて他を顧みないという自制心の欠けた生活になってしまうところを、よりよい生活の方向に動機づけることに「権力」が働くというものも想像できる。医者という権威が語ることに従って節制した生活をするというようなものがこれに入るだろうか。「たばこをやめなければ肺がんで死ぬ」といわれたとき、そのような圧力をかける医者を権力者として悪だと見る人はいないだろう。この場合は、むしろ医者を権力者として見る見方の方に違和感を感じるかもしれない。しかし、この医者を権力者として見る見方が宮台氏の定義から得られる。このように価値観から自由になった抽象的な定義は、理論的な展開をするには有効だ。権力者を悪だと見る先入観から離れることによって、この宮台氏の定義を受け入れることが出来るようになるだろう。

宮台氏の定義からの考察で次に展開されるものは権力の「人称性」というものだ。権力者として特定の誰かが指定されるのかどうかという問題だ。この問題は、論理的には予期の構造に関わってくるだろう。選好というのは、どれが選びたいのかということだから、権力者が誰であるかに関係なく、自分の利益になることは何かという基準で判断できる。だが、権力者が誰であるかで予期の構造は変わってくる。

生徒と教師の権力関係において、生徒にとってその教師が親しい人であり、何とか合格させてやろうという思いを感じていれば、予期の構造の段階で多少の甘い期待を抱くことがあるかもしれない。また、そのような教師の圧力であれば、嫌々ながらという気分よりも、その教師をがっかりさせないためにむしろがんばるという気持ちが生まれてくることもあるだろう。その場合でも選好と予期にずれがあって選択肢が選ばれる場合は、宮台氏的には「権力」の存在が主張されるとは思うが。

この、教師に帰属されていた「権力」が、教師ではなくある種の制度に帰属されるときはどうなるだろうか。教師がいくら配慮したくても、制度として合格点が決まっていて、それに反して合格させるわけに行かなければ、生徒の予期構造に雑多な例外的な要素が入り込む余地はなくなる。

権力の人称性が、特定の誰かから離れていくと、それに伴って予期構造は固定化されたものになり、社会的に承認されたものになる。ある種の権威と呼ばれるものはそうなるだろう。個人的な人間関係から生じる権力関係に比べると、この権力関係は安定していて、常に「服従者」にある種の圧力をかけて、その行為を制限する。これは社会の安定について必要不可欠のものとなるだろう。どのような安定をよしとするかという価値観は今は考えないこととして、安定という秩序の現象のみを見る視点からは、そのような権力がない場合社会が安定するという根拠を求めることが出来なくなるのではないかと思う。

内田さんは、「先生」という言葉を「師」という言葉と重ねて、そこに個人的な関係でのリスペクト(尊敬)という権威の関係を見出している。弟子にとって、師は乗り越えられない目標として永遠の権力者として設定されているといっていいだろう。そのように見た人間を「師」と呼ぶのであって、そのような見方が出来ない相手は「師」とは呼べないというニュアンスがあるように思う。

初等教育における「教員」はこのような「師」になることは出来ない。それは偶然に出会う相手であり、自分が求めて選んだ相手ではないからだ。どうしても学びたい事柄を教えてくれる相手ではなく、最低限必要な知識を与えてくれるだけの相手だ。このような相手に個人的な尊敬を抱くことを強制することは出来ない。だから初等教育における「教員」は、ある種のもっと大きな権威によって権力を与えるしかないだろう。これが失われたことが学校現場の混乱につながっているのではないかと、宮台氏の定義を考えてそう思った。