理解の道具としての形式論理 4


宮台真司氏の「連載第二三回:政治システムとは何か(下)」で次に論じられている「権力の人称性」ということの意味を考えてみようと思う。これは「最も重要な了解操縦」と書かれている。

宮台氏の権力論では、直接の物質的な力そのものを「権力」と呼んでいるのではなく、服従者が理想状況と考える選択を選ぶことが出来ずに、現状の条件での次善策を選ばざるを得ないときにそこに権力現象を見て、それを可能にする何かを「権力」と呼んでいた。そして、その何かは「選好構造」と「予期構造」によって表現されていた。この何かは、実体として提出できるものではなく、そのような「回避選択」をもたらすような装置として機能的に捉えられているように思う。

この装置をうまく働かせる、つまり権力者の意図を実現させるように服従者の「選好構造」と「予期構造」を操縦することが「了解操縦」と表現されている。これは、「選好構造」と「予期構造」を確定すれば、そこから必然的に「回避選択」が出てくるように構造を作り上げるということだ。この構造の構築が「了解操縦」といわれている。

了解操縦についてはすでに一つあげられていて、選択肢を二項対立的なものだけにして、それ以外にないと服従者に思わせることだった。選択肢がなければ、一方を選べないと思わせたら必然的にもう一方を選ばざるを得ないと結論されるだろう。権力者が行う、この了解操縦は、権力現象の実現を安定させるのに役立つ。選択肢が他にあれば、権力者が意図したように権力現象が展開せずに、そこに「抵抗」という現象も生まれてくる。それは権力が弱まったことを示す。抵抗というものに対して権力者が示す反応がなぜ激烈なものになるかといえば、それは権力の意志貫徹を阻害し、結果的に権力を弱めるということをもたらすからだと理解すると、その必然性を感じることが出来る。

さて「権力の人称性」というものも、この抵抗というものを封じて権力の意志貫徹を安定化させることに役立つものとして、「最も重要な了解操縦」として提出されている。この考察では、権力に「人称性」があるか・無いかということでその区別をするということを考える。人称性のある権力は、その誰かという個人に帰属させることが出来る権力ということになる。この人称性のある権力は、抵抗の対象が特定されるので、選択肢が他にもあると気づいたときに容易に抵抗へと流れていくことが予想される。また、ある種の力を権力のよりどころとしていても、それが個人の個別的な力である場合は、それを上回る力を持つ可能性もあるし、何とか出し抜いて相手の力を発揮させる前に相手を撃退する可能性もある。いずれにしても権力を持続させることが難しくなる。

それに対して、権力の人称性が失われると、抵抗の宛先を見つけるのが難しくなる。また抵抗の宛先が、個人を越えた巨大なものになれば、抵抗そのものの可能性がきわめて小さくなり抵抗の意志をくじくという効果も持つ。日本社会における「いじめ」の問題なども、誰かある特定の個人がいじめているのであれば、その個人に抵抗したり、その個人がいないところに逃げたりすることで解決する。だが、誰か特定の個人ではなく、集団の「みんな」がいじめているという状況になると、いじめられている人間は抵抗の意志を持てなくなるかもしれない。このような権力状況では、その権力関係がいつまでも維持されるということが起こることが論理的に帰結されるのではないかと思う。

人称性を失った権力の一つは「奪人称的権力」と呼ばれ、もう一つは「汎人称的権力」と呼ばれている。「奪人称的権力」は、制度のようなルールが定められていて、誰もがそれに従う状況にあるため、自分に対して支配している権力を誰にも帰属できないということで、抵抗の相手が見つからない権力だ。それは、その制度自体を変えなければ権力状況が変わらないが、個人が制度を変えるなどという可能性は想像しにくい。従って、この権力に個人で相対している限りでは、その権力はいつまでも安定して存在し続けるものになるだろう。この制度的権力に抵抗するには、それに対抗しうるだけの力(民主主義社会では連帯して集団で抵抗するということになるだろうか)を持たなければならないだろう。

「汎人称的権力」は、社会成員の誰もがそう思っているという社会習慣によってルールが支配されているような権力になる。これは制度のように明確なものではないが、その社会に生きている人間には抵抗しがたい圧力を感じるようなルールだ。日本社会でいえば、「空気を読む」などという習慣がそれに当たるだろうか。空気を読まずに率直に自分の思っていることや希望を語るということは日本社会では圧力を感じる。そこには「汎人称的権力」があるだろう。この権力に対しては、連帯による抵抗も難しいのではないかというのを感じる。そもそもそのような暗黙の了解に対して抵抗したいと思っている人がどれくらいいるものか。また、そういう連帯する相手をどうやって見つけるかということが難しく思われるからだ。制度ならまだ論理的な対象として見ることが出来れば、その不備を突くことも出来るだろうが、暗黙のルールは、決して合理性の故に守られているわけではないので、その不合理をいくら指摘してもそれが消えるようにならない。

習慣として存在している不合理は、ある種の不当な差別などにそれを見ることが出来るが、差別への抵抗はどうもあまり連帯感を築いていないようにも見える。それがウィトゲンシュタイン的な言語ゲームとして存在し、それが存在していることがある種の根拠となって人々を支配しているルールは、どのようにすればその権力的な支配を逃れることが出来るか。これは「奪人称的権力」である制度への抵抗以上に困難な抵抗かもしれない。僕は、学校現場での「パターナリズム」(相手の利益のためには、本人の意向にかかわりなく、生活や行動に干渉し制限を加えるべきであるとする考え方。親と子、上司と部下、医者と患者との関係などに見られる。)の持つ支配力というのを圧力として感じている。これは「汎人称的権力」だと思う。だが、これがあまりにも強く働きすぎることが日本の学校の問題ではないかと思っている。この「汎人称的権力」への抵抗は、個人的には深刻な問題だ。

宮台氏は、「奪人称的権力は抵抗の宛先を「消去する」ことで、汎人称的権力は抵抗の宛先を「分厚くする」ことで、権力の服従蓋然性を高めます」と語っている。この権力の支配を嫌々ながら従うものとして感じていると、何とか抵抗できないかという発想になるが、これに進んで従うという気分も見逃してはならない。そのような気分は「服従蓋然性を高める」だろう。

進んで従う気分というのは、「制度だから信頼する」という気分や、「みんながそう思うんだからそれが正しい」という気分から生まれる。本来の論理的態度であれば、その制度や習慣に合理性があり、論理的に正当性があったときに信頼するという態度でなければならないだろう。しかし、人間は自分の周りにあるすべてのものに対してそのような態度を取ることは難しいし、正当性を考えていると解答が得られないルールもあったりする。

「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対して、これに論理的な解答はないということを宮台氏がどこかで書いていた。我々は、「人を殺してはいけない」というルールのある社会で生きているから人を殺せなく育っているだけだというのが解答だっただろうか。このルールなどは、それに論理的正当性はないのだから、それを制限する「汎人称的権力」に抵抗して、「殺したいと思ったときに殺してもいいのだ」などと考えたら、社会は凄惨な無秩序な社会になってしまうだろう。これは論理的正当性がないとしても、「汎人称的権力」として残しておかなければならない圧力ではないかと思う。

宮台氏の権力論では、権力というものが人を押さえつける悪いものだという一面的な見方ではなく、このように重要な社会秩序の安定を担うものとして概念化されている。これは宮台氏の定義だからこそこのような側面を見ることが出来るのであって、違う定義によって権力を捉えている人は、権力が持つ社会への安定化という機能を見過ごすのではないかと思う。

宮台氏は、文章の中で「ウェーバーが自発的服従契機の存在として定義した「正統性」は、宮台理論では、権力の人称性を巡る了解操縦だと記述されます」と書いている。これは、ウェーバーの言う「正統性」という言葉を、その中身を具体的に記述して論理的な正当性を明らかにしたと言えるのではないかと思う。人々が権力に従ってある種の服従をするのはなぜかということの説明に「正統性」という言葉を使うのは、ある意味では同語反復になる。

「正統性」という言葉が、そもそも「その時代、その社会で最も妥当とされる思想や立場」という意味を持っている。だから人々が従うルールがなぜ正しいのかと問われたとき、「正統性がある」と答えるのは、「それが正しいから正しいのだ」と言っているのと同じになる。だがある種のルールはそういう以外に言えないものも存在する。この「正しいから正しい」ということを説明するのに、「汎人称的権力」というものがその内容を具体的に語っていると受け取れるだろう。そこに「汎人称的権力」を確認することが出来るので、その正しさが人々に受け入れられているのだと。

宮台氏は、「合法的正統性(法だから従う)は権力の奪人称化の装置と見做せます。また伝統的正統性(皆がそう振舞うから従う)は汎人称化の装置と見做せます」と語り、それぞれの権力が装置というシステムで捉えられるということを指摘している。権力は実体ではなく、このようにシステムで捉えたときに、その働きを最もよく解明できるということだろうと思う。「カリスマ的正統性」に関しては、それが「心酔がある場合」は権力ではないと判断し、「心酔がない場合」は「伝統的正統性(皆がそう振舞うから従う)と同じ汎人称化の装置」という権力だと判断している。

カリスマに「心酔がない場合」があるというのは想像しにくいのだが、たいていの場合は「心酔があって」、カリスマの言うことには何でも従うという現象が見られるだろう。この場合は、外から見るとカリスマが権力をふるっているように見えるが、宮台氏の定義ではこれは「権力ではない」と判断される。

これは「選好構造」と「予期構造」のずれがないと判断されるからだろうと思う。カリスマが言うことはすべて理想状況と一致してしまうのだ。そこには回避選択というものがない。理想状況を選びたいのだが、現実はそれを許さないから次善の選択に「甘んじる」ということはない。そのようなときは宮台氏的な権力は存在しない。これはよく考えると、権力というのは個人的に自分の意志で決定することが出来る人間でなければそれを感じることが出来ないということではないかと思う。自由意志がある人間、自己決定できる人間でなければ権力によって支配することが出来ないということでもあるのかと思う。

カリスマだと思われている人間を、カリスマだと思えない少数の人間は、カリスマ支配が行われている社会では権力の圧力を感じる。これが宮台氏のいう「心酔がない場合」に当たるのではないかと思う。最後の引用は以上のまとめになっているのだが、考察する余裕がないので次回にまた考えてみようと思う。

「以上の復習を纏めると、権力を可能にする了解操縦とは、相手の了解において「権力主題を与えて回避的状態を構成する」ことだと言えます。人称性の操縦による「抵抗の宛先の不在」も「抵抗の宛先の分厚さ」も、回避的状態への否定的選好を強める働きをします。」