世界の存在とその認識


「世界」という言葉は非常に抽象的でありながら日常的にもよく使われる平凡な言葉だ。だがそれは高度に抽象的なので、それがどのような過程を経て具体的属性が捨象されているかに様々な違いが生じるだろう。ある人が考える「世界」と他の人が考える「世界」が概念において全く一致するということは少ないに違いない。自分が今考えている「世界」というものが、いったいどのようなものであるかを明確にするような表現がどの程度出来るだろうか。自分が考えている「世界」はどうやらこのようなものらしいということを表現してみることで、それに至る思考や論理が見えてくるようにならないだろうかと思う。

野矢茂樹さんのウィトゲンシュタインの解説を読んでいると、論理というものはそれについて直接語ることは出来ず、論理を使って思考したものを述べることによって示すことが出来るだけだという指摘がある。論理の正しさは論理によって説明することが出来ない。それは循環した説明になってしまう。論理的に正しいということは合理的に考えたことだと言える。だが、合理的な思考というのは論理に従った思考のことを指す。我々は論理の正しさをア・プリオリに認めなければならないのではないかとも思える。

かつての僕は、論理の正しさを何らかの現実との結びつきで語ることが出来ないだろうかということを考えていた。現実の存在の反映として、その存在構造が論理として捉えられるのだという考えだ。しかし、存在の多様性は、論理をそれと結びつけてしまうと、存在と無関係に成立するように見える命題論理の正しさが説明しきれない。野矢さんは、論理の正しさは言葉の使い方の正しさの判断だと語っている。しかしそれが何故正しいかは、言葉の使い方の正しさを、言葉で語るという自己言及的な循環したものがまた見えてくる。論理そのものの正しさはやはり語り得ないものになるのだろうか。

「世界」をどう捉えるかということは言葉によって表現できる。そしてそれが正しいかどうかをおそらく判断できるのではないかとも感じる。そうすると、それが正しいと判断できるとき、そこには正しい論理が示されているのではないかと思う。そのような論理を示すような言い方で「世界」について語ることが出来ないかと思う。

まず「世界」と呼ばれるものは、自分の周りの存在の全体像を把握した言い方であるように僕は考える。存在の一部を語ったときはもはや「世界」という言い方をしないのではないかと思う。「世界」とは人間が認識することの総体を語ったものとしてその意味が定義されているのではないかと思う。

そうすると、この「世界」は認識する人間によって違ったものとして現れてくる。すべてのものが見えてくる人間というのはいないからだ。ある存在を見たときに、その存在の属性の中で人間には見えないものが存在する。それは肉体的な限界というものもあるし、内田樹さんが紹介していたソシュールの指摘にもあるように、語彙を持たない・すなわち概念を持たない対象はそれが見えてこないということがある。「devilfish」という語彙を持たない日本人には、その存在が見えてこない。日本人の「世界」にはそのような存在が入ってこない。

そうすると「世界」の認識の一つの特徴は、それが認識する個人の認識能力に関連した「私の世界」としてまず登場するという考え方だ。これは正しいように僕には感じられる。だが、「世界」はこの「私の世界」だけだとする独我論的な判断は、このような単純な現象だけから導くには論理的には弱い感じもする。「私の世界」としてまず登場する「世界」が、どのようにして共通了解の一般化された「世界」へと結びついていくのか。その論理的な展開を考えなければならない。

このとき「私の世界」を集合的に考えることがその一般化の論理展開を助けるのではないかと思う。「世界」を集合として捉えるということは、それが他者の「私の世界」との比較を可能にする。集合として同じかどうかは、その外延(どのような要素が集まって集合を構成しているか)ということで判断できるからだ。有限な存在である個人は、その「世界」という集合も有限集合にとどまるだろう。この集合化された「世界」をすべて寄せ集めてまた集合を構成すれば、その「世界」は、誰かの「私の世界」に属する要素を持ったものの全体として捉えられる。これが個人とは違う、人間一般における「世界」だと定義すれば、「世界」という対象をレベルによって捉えることになるだろう。これは、「世界」は「私の世界」だけだとする独我論的な考えよりも論理的に正しいように見える。

さて、問題は「世界」をこのように定義して捉えたからといって、それが本当に全体像としてつかめるかということが解決できるかどうかを見ることだ。それが出来なければ「世界」という言葉は空虚な抽象であって、結局は周りにある具体的な何かを指しているだけとしか言えないかもしれない。「世界」は全体像として抽象できるだろうか。

このとき、ウィトゲンシュタイン的な「世界」の要素として「事実」という命題の集合を考えるということが役に立つような気がする。ウィトゲンシュタインの「世界」は、物という物質的存在を要素に持つものではなく、「事実」という命題を要素に持つ集合になる。命題が要素であるということは、それは表現の集合であり、具体的には言語の集まりだという考えになる。

これは論理的には、このような考えしかないという決定的なものではないと思う。「世界」を物の集まりとして捉える考え方もあってもいいだろう。私に見えている物こそが「世界」だという考え方もあるかもしれない。しかし、そのような「世界」は、思考の内容として論理の展開に関しては発展的な考え方をもたらしてくれない。静止した今という瞬間の内容を語ることが出来るだけだ。物の存在だけでは、過去から未来への時間の流れを捉えることが出来ない。また、そのものがどのような関係にあるかということは存在しているだけでは表現できない。構造は物質の陰に隠れているものであって、直接目で見ることが出来ない。

それに対し、「世界」を命題として捉えるウィトゲンシュタインの考えは、「世界」を論理的に捉えるということを可能にする。命題として捉えられた「世界」は、その命題をさらに結合することによって新たな「世界」の広がりを思考によって展開できる。それは、今直接目には見えていないけれども、可能性として「見えるかもしれない」という思考の展開をさせてくれる。

さらに、命題として捉えられた「世界」は、その命題を部分に解体して「対象」という命題の構成要素を取り出すことが出来る。そして、その対象がさらに組み合わされて新たな命題としての可能性を開く。命題こそが「世界」だというとらえ方は、思考の展開という方向での「世界」の解釈をもたらす。思考の限界を考察しようとしたウィトゲンシュタインにふさわしい「世界」の定義になるだろう。

僕も自分が見ている「私の世界」をどのくらい正しく評価できるかということに関心が強い。だから、僕の「世界」もやはり命題の集まりとして定義することがこの目的にかなうだろうと思う。自分の「世界」の命題の集まりが、果たして矛盾を引き起こすようなものが入り込んでいないだろうか。もし矛盾を引き起こすような判断があったら、それを解釈し直すことで矛盾を回避できるだろうかというようなことに関心が強い。

このように考えた一般論としての抽象的な「世界」は、実際の具体的な日常では、そこに現れる様々な「事実」をどう解釈して評価するかという点でどのような影響を与えるだろうか。日々新たなことを発見し、学ぶことで「私の世界」はその命題を増やしていく。その命題が、もしもかつての命題と矛盾を起こしそうなときは、「私の世界」を安定させるために、その整合性を図るようになるだろう。

たとえば、かつての僕はどちらかというと権力に対しては、それが民衆一般を弾圧するものであるという先入観を表現する命題が「世界」の中にあったようだ。しかし、年をとったせいもあるが、かつて不自由を感じたいろいろな規制に関して、それが何故必要なのかという理由を説明する命題も自分の「世界」の中には増えてきた。権力というのは、すべてが悪なのではなく、社会の秩序を安定させ、社会を守るために働く部分があることが命題として認識の中に入ってきている。かつての「権力は悪だ」という単純な命題は「世界」の中から消えたと言ってもいいだろう。これからは、どのような条件の時に権力は弾圧の力として働くかという、より対象に切り込んだ命題を求めるようになるだろう。

マル激の中でよく語られるニュースで、沖縄密約事件と呼ばれるものがある。これは、かつての日本政府という権力の嘘が、アメリカの公文書によって暴かれたという命題を僕の「世界」の中に生じさせた。この命題の中で不思議だったのは、日本政府とともに、アメリカも嘘をついていた共犯者なのだが、そのアメリカはちゃんとその嘘を公開しているということだった。嘘だということは自分にとって不利益なのに、何故それをわざわざ公開して批判を呼び起こすようなまねをするのだろうか。事実としてこの命題が「世界」の中に入ってきたとしても、この疑問が解消できなければ、自分の「世界」の中での矛盾は解消されない。

これは宮台氏が語っていたことだが、政治的判断というのは「嘘も方便」というものが入り込んでくるということだ。政治的判断としては、嘘が正しいというものがあり得るという論理的な可能性を語ることが出来る。アメリカは、沖縄返還の際に日本との密約があって、それをたとえ隠したとしても、アメリカの国家にとってそれが利益となるのであれば嘘をつくだけの理由を持つことが出来る。それがたとえ嘘であっても、政治的にはそれが正しいという判断をして動くことが出来る。それを支えるのは、政治家が個人的な利益で動いているのではなく、国家の利益のために行動したのだと言えるかということの証明が出来るということだ。

アメリカで公文書が公開されることが義務づけられているのは、どのような行動をとるものであれ、公的な行動ではそれに理由があれば理解が得られるという原則があるからではないかと思う。むしろ、公開されずに密約がばれてしまえば、それにどのような理由がつけられようとも、それが公開されずに秘密にされていたということで不正だという判断をされるのではないだろうか。それが不正でなければむしろ積極的に公開した方がいいとも言えるのではないかと思う。嘘であることが絶対的に不利益であれば、それを公開することに論理的な矛盾が生じるが、そうでない原則があれば公開そのものは決して矛盾を引き起こさない。

それに対して、日本ではアメリカで公文書があるにもかかわらず、未だにそれを否定するという矛盾した「世界」を作っている。この矛盾は解消される必要がある。形式論理的な矛盾だからだ。この矛盾を放置したままでいれば、政治的には大きな不利益を招くのではないかと思う。

アメリカでは、たとえ嘘があったとしてもそれが国家の利益を守るためであれば、むしろその嘘が賞賛されることもあり得る。それが日本では公開できないということであれば、その嘘は国家の利益をもたらすような嘘ではなかったということを自らが語ってしまうことにならないだろうか。国家の利益ではなく、ある個人の・あるいはある組織のエゴとしての利益だからそれはどこまでも秘密にされなければならないのではないか。そうすると、しらを切り続けることで、実は政治家が国家の利益のために働いていないのだという命題を「世界」の中に付け加えているのではないかとも思える。この「世界」の矛盾は解消されるべきだろう。政治の信頼を取り戻すためにも。沖縄の密約を正しく評価して、責任をとるべきは責任をとらせないとならないだろう。そうでなければ、権力さえあれば嘘も許されるという、やりたい放題だという命題が日本人の「世界」には書き込まれることになる。

このような「世界」のとらえ方は正しいように僕には思われる。だから、ここには正しい論理が示されているのではないだろうか。