注目していた事柄のいくつかについて


山本一太氏が総裁選立候補を断念したというニュースがあった。残念なことだ。立候補に必要な20人の推薦人が集まらなかったという。以前に河野太郎氏が立候補を表明したときも20人の推薦人が集まらずに立候補そのものが出来なかった。そして、河野氏の時には、立候補が出来なかったことによってその主張をマスコミが取り上げることがなかった。

今回の山本氏の場合もその二の舞になるのではないかという可能性が高いので残念だ。自民党の総裁選が、単なるパフォーマンスではなく有意義な論戦を展開してくれるのではないかというわずかな期待が裏切られるのではないかという落胆を感じる。果たして他の候補だけで、現在懸案となっている本質的な問題が議論に上るだろうか。本質を論じれば、そこには利害の衝突が鮮明に現れる。そのような議論において、いろいろな立場から推薦された人間たちが、その立場を越えて本質を議論できるかどうかに疑問を感じてしまう。河野氏のように、はじめから特定の立場ではない、大きな観点から物事を発想する人間が議論に加わる必要があったのではないかと思う。

河野氏がブログで書いていたように、道路特定財源の一般化という問題がどのように総裁選の議論に登場するかに注目していこう。それが全く登場しないようであれば、そこに利害を持っている誰かの意向が、それを議論しない方向に働いたのだと解釈するしかないだろう。果たしてどうなるであろうか。

山本一太氏の立候補断念で自民党総裁選の報道がつまらない方向に行ってしまいそうな感じがするが、この報道が目につくような政治パフォーマンスを煽っているように見える中で、そのほかの注目していた事柄が全く報道されなくなってしまった。

太田誠一氏の事務所費の問題はどうなったのだろうか。太田氏の説明では全く不十分であることが共通の理解ではなかったのだろうか。太田氏の説明責任を追及するニュースはもはや見られなくなった。このままこの件はうやむやの内に消されていくのだろうか。福田首相が辞任表明した今となっては、福田首相任命責任を云々する声も出にくくなっているが、派閥の力学によって選ばれたのではないかという太田農水相は、福田首相指導力の問題とともに、政権を途中で放り出したことの原因の一つではないかとも思われる。

また、太田農水相が入閣するに際しては、麻生氏の影響力というものがあったという記事もどこかで見かけた覚えがある。太田氏と麻生氏の関係というものも、今度の総裁選に絡むだけに重要なものではないかと思う。全く関係がないというのであればそのような報道がされるべきだと思うし、何らかの関係があるのなら、麻生氏の政治センスというものを問う一つの問題となるのではないだろうか。

民主党を離党した二人の議員についての続報も見られなくなった。論理的には議員辞職をするのが当然だと思うのだが、まだそのような報道はない。二人の議員は参議院議員だけに、たとえ解散総選挙となっても自動的に議席を失うわけではない。今でも議員をやり続ける根拠について、この二人の議員は説明責任があると思うのだが、マスコミは何故それを追及しないのだろうか。議員を続けることに、いったい論理的に正当な理由がつけられるのだろうか。

マスコミは目の前に人目をひくようなニュースがあれば、商業原理(売れるニュース・視聴率を稼げるニュースに飛びつく)からそちらの方ばかりを報道するということがあるのは論理的な理解が出来る。しかし、それはマスコミがニュースを売って商売をしている資本主義的な会社であることを示していることになるのであって、そこにはジャーナリズムとしての本質はどこにもないことをさらけ出していることになってしまっている。それは正しい判断をしたい人間には不利益となっている。重要なニュースが、マスコミでは得られないのであれば、どこから得られるかを捜さなければならないだろう。

神保哲生宮台真司両氏のマル激トークオンデマンドでは本編の議論の前にその週のニュースを取り上げて解説するコーナーが出来たが、そこで語られているニュースは、派手で人目をひくことを第一に考えられているものではなく、ジャーナリズムの視点から重要だと思われるものを優先的に取り上げている。だから、マスコミ報道ではほとんど触れられていない点を細かく解説するときもある。このようなニュースの取り上げ方をするところをさらに見つけたいものだと思う。そして、それがマスコミをしのぐほど大きなものとなって人々が知るようになれば、見せかけだけの報道は駆逐されていくだろう。

果たして見せかけだけのマスコミ報道に、少しでも本質を垣間見るだけのニュースが登場してくるだろうか。あまり期待は出来ないが注視していくことにしよう。今マスコミが夢中になっている自民党総裁選にどのようなニュースが登場してくるかを見ることで、その本質を考えることが出来るかもしれない。本質的に大事なことを取り上げないことが、自民党総裁選の本質であるなら、それは全く国民の生活とはかけ離れたものになるだろう。

マスコミが夢中になっている報道に関しては、大相撲の大麻疑惑というものがあるが、これにはちょっと変な違和感を僕は感じている。確かに検査では陽性反応というものが出ているので、いかにも大麻を吸引したということが事実のように報道されているが、警察の家宅捜査では何も出てこなかったという報道も一方ではなされている。証拠不十分ではないかという気がするのだが、そのような議論はどこにも出てこない。

もしも日常的に吸引していたのであれば、すでに解雇された力士のように何かが証拠として出てくるはずであるし、少なくとも痕跡が発見できるだろう。ドーピング検査で発見されるような状態で、実際の大麻自体はうまく処分したのだと考えるのは、どうも論理的にすっきりしない。もし大麻吸引が事実で、その結果として検査で発覚したのであれば、そのような不用意な態度でいれば、何らかの痕跡がその生活する場から発見されてもいいと思うのだが、その報道は全くない。検査で発覚した以上大麻吸引は事実であるという前提で事が運ばれている。

大麻吸引ということがどれほど重い罪に値するかということにも議論の余地があるそうだ。解雇という重罰に値するかという議論だ。反省してやり直す機会を与えてもいいのではないかということは考えられないのだろうか。大麻はたばこほどの常用性がないという意見もあるそうだ。センセーショナルに報道されたので引っ込みがつかないということから重罰化しているのであれば、何とも気の毒なことだと思う。この一度の失敗が、相撲界でのすべてを失うに値するほどの罪であるかは議論の余地があるのではないだろうか。

検査によって陽性反応が出た力士については、それがえん罪である可能性は本当にないのだろうか。また、家宅捜索によって何も出てこなかったのであるから、それはもしやっていたとしても日常的なものではなく、たまたまそのときだけだったかもしれない。しかし、今の状況であれば、発覚すれば解雇される。そのようなときに、あくまでも否定するのは罰が重いだけにそうしたくなる心理は理解できる。解雇という重罰でなければ、その失敗を取り返すだけの機会が与えられるなら、もし本当にそのようなことをしていたのであっても素直に反省することも出来たのではないかと思う。いずれにしても、相撲界を叩くだけのマスコミの報道には、売るためにセンセーショナルに煽るという姿勢を見てしまう。もっと冷静に、本質的な報道がどこかにないものかと思う。マスコミが語ることには注視をするが、それを鵜呑みにするようにはしないで、ほとんどを疑ってかかるような、そのような先入観を持って報道を見る必要があるのではないかと思う。