麻生首相の所信表明演説の評価から「うまい説明」を考える


国会では麻生首相所信表明演説を受けて今論戦が行われている。対立する側が、その不備を指摘してマイナスの評価をするのが当然なら、それを支援する与党の方は、優れている点を指摘してプラスの評価をすることになるだろう。これはどちらにも一理ある議論になると思われる。プラスにもマイナスにも評価できる議論を、総合的に見ればどうなのかということで評価をまとめるのはかなり難しい。

自分の立場がはっきりしていれば、それは反対の立場を考慮する必要がないので分かりやすいだろうが、あくまでも客観的に正しい方に近づきたいと思えば、何が客観的かということにこだわらなければならない。双方の主張の中に、対立する立場からのものではあるが、客観性を感じてなるほどと思えるような「うまい説明」が見つかるだろうか。

専門家でない素人は、その知識量が少なく、しかも提示された資料を読み間違えたり錯覚をしたりする。客観的な真理をつかむ条件はきわめて悪い。この状況の中で、誰が提示する主張が信じるに値するものであるのか、そのことを考えてみたいと思う。普通の人にとって、麻生首相が語ることが正しいかどうかを直接確かめることは難しい。それを説明する、あるいは批判する誰の言説が正しいのかという判断の方が、直接考察するよりもやさしいのではないかと思う。「コロンブスの卵」は、その立て方を知った人は二度目には誰でも出来る。「うまい説明」は、最初に発見するのは難しいが、誰かがそれをしてくれれば、同じようなことを考えようとする二人目は、そのことを容易に理解するのではないかと思う。

さて、「うまい説明」というのは、単に分かりやすいだけというのとはちょっと違う感じがする。例えば小泉さんの説明は分かりやすかった。しかしどうも問題の中心がずれているのを感じたものだった。説明においては、わかりやすさとともに正確さというものも大事な要素のように思う。この正確さにおいて小泉さんの説明にはかなり怪しいところがあった。

分かりやすくしかも正確だというのが「うまい説明」の要素になると思われるのだが、この両者はしばしば対立する。正確さを求めれば複雑で難しくなりわかりにくくなる。わかりやすさを求めれば、単純で表層的な説明になりやすく、深層を表現したいときには正確さを欠いてくる。このジレンマをどう解決するかは、初心者のための入門書を書く人が直面する問題だろう。そして優れた入門書を書く人は、このことを解決できたのではないかと思う。内田樹さんは『寝ながら学べる構造主義』のまえがきの中で次のように語っている。

「ただし「分かりやすい」というのは決して「簡単」という意味ではありません。「分かりやすい」と「簡単」は似ているようで違います。どちらかというと、私はむしろ「話を複雑にする」ことによって、「話を早く進める」という戦術を採用しています。
 思想史を記述する場合、ある哲学上の概念を一義的に定義しないと話が先へ進まないということはありません。「主体」や「他者」や「欲望」といったような基本的な概念については、その定義について学会内部的な合意形成が出来ているわけではありません。ですから、「『他者』とはこれこれこういうものである」「何を言うか、『他者』とはこれこれのものである」というような教条的な議論につきあっているのは時間の浪費です。「『他者』といったら、まあ『他の人』だわな」くらいの緩やかな了解にとどめておいてとりあえず話を先へ進めたいと私は考えております。
 私が目指しているのは、「複雑な話」の「複雑さ」を温存しつつ、かつ見晴らしの良い思想史的展望を示す、ということです。」


専門用語によってその意味を限定するということは、正確さにとっては欠かすことの出来ないものだ。それは、日常的・辞書的な意味では区別が出来ないような微妙な区別を問題にし、そこで議論をするために生み出された専門用語だ。しかし、これからその内容を学ぼうと思っている初心者には、その意味の区別がなぜ必要かということは全く判らない。その初心者に対して、始めからこれが正確な意味なのだということで定義を押しつければ、それは言葉として丸暗記するしか無くなるだろう。

その専門用語も、日常語と同じ言葉が使われているときは、日常語が含んでいる意味のどこかにその専門用語としての意味が通じている部分があるからこそ使われている。全く意味が重ならないなら、全く新しい言葉を作り出した方がいいだろう。既存の言葉を専門用語として使うからには、そこに何らかの共通部分があるはずだ。そこを最初は判らなくても、とりあえずは辞書的な意味で了解してもらって、それが専門用語として設定しなければならない理由がよく納得できてから、実は専門用語としてはそこに意味を限定して使っているのだという説明をした方が、正確で分かりやすいものになるだろう。それが「うまい説明」というものだと思う。

言葉の意味を徐々に正確なものにしていくというのは、「うまい説明」の一つの要素ではないかと思う。それと並んでもう一つ重要なものに、宮台氏が「俗情に媚びる」という言い方で語るものと反対のもの、すなわち「俗情に媚びない」説明というのも大事ではないかと思う。「俗情に媚びる」というのは、その説明が表層的で誰にでもすぐに判るので、人気を獲得しやすい説明だ。しかしそれは表層的な説明なので、現実を深く理解することが出来ず、現実の問題を解決するための役には立たないようなものになる。

個室ビデオ店放火事件の報道で、犯人の非常識を責めたり、店舗の安全管理のまずさを指摘するのは分かりやすい。しかし、それでは非常識を改めたり、安全管理をよくしたりすることがすぐに可能かといえば、これが出来ないから同じような事件が引き起こされたとも言える。だが、このような主張は、感情に訴えて多くの人に共感を与えるのでポピュラーなものとなるだろう。宮台氏が言う「俗情に媚びる」説明となっているのではないかと思う。

麻生自民党小沢民主党も、その政策が「ばらまき」だと批判されている。これはその恩恵にあずからない人間にとっては全くけしからんことのように見えるので、「ばらまき」だという批判は分かりやすい。「俗情に媚びる」ものとなるだろう。実際は、どこが本当に困っているところで、そこを手当てすることが本当に国家として重要だということがよく分かるような説明をしなければいけないだろう。手当てしてもらう、恩恵を受ける方にとっては「ばらまき」ではなく有効な政策だと感じられて支持を得るということもあるに違いない。

これは、「ばらまき」だといわれる現象を、恩恵を受ける側がその恩恵だけを判断基準にして歓迎すれば「俗情に媚びる」説明になるだろう。また、「ばらまき」だといわれる現象を、どれも同じで区別なく十把一絡げにして批判するなら、これも「俗情に媚びる」、その恩恵から外れる人間に媚びる説明となるだろう。

「俗情に媚びない」ためには何が必要だろうか。アンポピュラーになったとしても、これが正しいと言えるだけの説得力を持った説明が必要になる。ある人の説明がそのようなものだという判断はどのようにして出来るだろうか。一つの視点は、「構造」あるいは「全体性」というもので表現される特徴ではないかと感じている。

目の前の部分を見ることはどちらかといえばたやすい。自分が見ている部分に注目してその特徴を観察することも出来るだろう。しかし、隠れている部分は、あるときは後ろに行って見なければならないし、被いを取り外して見なければならない。また、その全体があまりにも大きなものであるときは、全体をいっぺんに眺めるということが出来ない。地球に住んでいて、地球から離れることが出来ない人間は、地球全体をいっぺんに見ることが出来ない。また、構造というのは直接目に見えない「仕組み」のことだ。レヴィ・ストロースが指摘するまでは、親族の現象は見えていただろうが、親族の構造は見えていなかったのではないだろうか。

「構造」や「全体性」を語り、しかもそれが納得できるような「腑に落ちる」説明となっているとき、それはきわめて「うまい説明」なのではないかと思う。「田中康夫さんの代表質問」は「構造」について多く語られているような感じがする。

「物質主義から脱・物質主義へ。私たちは、これまでの「右肩上がり」の発想を捨て去り、「量の拡大から質の充実へ」と選択を改め直し、更には「供給側の都合から消費側の希望に根ざした」仕組へと、世の中の有り様を抜本的に再構築せねばなりません。」


という言葉には、他の議員が語るような「景気が良くなれば問題は解決する」という構造そのものに疑問を投げかけているような気がする。「右肩上がり」の発想は、今まで日本が豊かになってきた経験そのものなので、これは非常に分かりやすいだろうし、経験から共感する人もいるのでポピュラーになりやすいだろう。それだけに「俗情に媚びている」かどうかを気にしなければならない。

「景気が良くなれば何でも良くなる」という発想には、今日本の状況が悪いことが重なっているのは、景気が悪いからだという了解もありそうだ。そして、その景気が悪いことの原因がどこにあるのかということが「構造」にとっては非常に重要な問題だ。この原因を取り除くことが可能であれば景気回復というものも可能だ。しかし、そもそも「構造」の中に「右肩上がり」の発想を否定するものがあれば、それを自覚して方向変換をしなければならないだろう。本来の意味での構造改革をしなければ、問題の解決が見えてこないように思われる。田中さんは、

「一向に不景気から日本が抜け出せぬ「最大の理由」こそは、自由民主党が死守し続ける過去の成功体験、もとい既得権益に寄り掛かる政治家・官僚・業界、所謂「政官業」利権分配ピラミッドの存在に帰因するのではありませんか? 而して、麻生太郎さん、貴男は、その慨嘆すべき惨状に対し、余りに無自覚なのではありますまいか?」


というように語っているが、この指摘は僕にはとても的確なものに見える。マル激では、一連の政治の議論において、自民党の与党体制という構造が、右肩上がりの経済成長による利益を利権として確立することに有効に働いたというものがあった。与党体制が強まり、直接責任を取る必要がある大臣ではなく、責任を取る必要がないにもかかわらず大きな力を持っている族議員と呼ばれる存在がその利権を拡大していったことが主張されていた。「右肩上がり」の発想は、この族議員にとってこそ利権の維持にとってぜひとも必要なもののように見える。

利権と関係のない一般庶民は、「右肩上がり」の発想から転換してもいいのではないかと感じる。この「構造」への注目が、現実を正しく説明しているものであるかどうか、「右肩上がり」でなくても、庶民の生活が困難なものにならないかどうかは、もっとよく考えなければならないものだろうが、少なくともそのように発想を転換することを問いかけることに意義があるように思う。なぜなら、時として日本の企業、例えばトヨタなどが、史上空前の儲けをあげているなどと報道されたときに、それは大きな「右肩上がり」であるはずなのに、庶民の暮らしは少しもその恩恵にあずからなかったからだ。「右肩上がり」の恩恵がないのなら、「右肩上がり」にならなくても問題はないのではないのではないかとも思える。「右肩上がり」にならないと困る問題というのは、「俗情に媚びる」説明ではないだろうか。

田中さんの代表質問を、「構造」を語る部分に注目して考えてみたいと思う。