田中康夫さんの代表質問から構造を読み取る


「田中康夫さんの代表質問」から、日本社会の構造を語っている部分を読み取り、その構造の下での問題の解決の主張という解釈で、その語っていることの理解を図ってみよう。なるほどと思えるような全体性の把握が出来、それならこのような対処が正しいだろうと感じられるかを考えてみよう。まずは次の文章を引用する。

「私は2000年10月、信州・長野県の知事に就任しました。戦後の公選知事は、私以前に僅か3人。前任2人の公務員出身者が41年6ヶ月、議員と職員と知事の“仲良しピラミッド”を続ける中で、財政状況は47都道府県でお尻から数えて2番目の状態に陥っていました。
 借入金に掛かる利息の支払いだけでも、1日当たり1億4800万円に達していたのです。そのまま手を拱いていたなら、3年後にも財政再建団体への転落は不可避。待ったなしの危機的状況でした。
「『脱ダム』宣言」を切っ掛けに不信任決議を議会から突き付けられ、失職を経て出直し知事選に打って出た私は、都合6年間の在任中に、後述する様々な取組を実行し、その結果として、47都道府県で唯一、6年連続で起債残高を減少させ、同じく全国で唯一、7年度連続で基礎的財政収支プライマリーバランスの黒字化を達成しました。
 無論、その成果は、住民や職員の深い理解と篤い協力が有ったればこそです。その間、 “現場主義・直接対話”の精神で職員や住民に、「発想を変え・選択を変え・仕組を変えよう」と訴え続けました。
 ヤマト運輸株式会社“中興の祖”として知られる小倉昌男さんを委員長に起用し、天下り補助金の伏魔殿と化していた全ての外郭団体をゼロベースで見直したのも、その一環です。委託料・補助金・負担金と職員派遣の全面的見直しに留まらず、団体の廃止・統合・縮小を敢行し、見直し比率は既存54団体の96%にも及びました。それは、今は亡き小倉昌男さんが最後に手掛けた公的仕事です。」


ここに語られているのは、まずは長野県の財政状況だ。それは非常に大きなな財政赤字で、普通の方法では全く解決が出来ないのではないかと思われていたものだ。しかし結果的に「6年連続で起債残高を減少させ、同じく全国で唯一、7年度連続で基礎的財政収支プライマリーバランスの黒字化を達成」している。これは長野県の産業を活性化し、長野県の景気を浮揚させて解決に至ったのだろうか?

田中さんによれば、その方法は「発想を変え・選択を変え・仕組を変えよう」ということが基礎になっている。具体的には、「天下り補助金の伏魔殿と化していた全ての外郭団体をゼロベースで見直し」、「委託料・補助金・負担金と職員派遣の全面的見直し」、「団体の廃止・統合・縮小を敢行し、見直し比率は既存54団体の96%にも及」んだ、と語られている。これは、まさにそれまでの構造を改革し、それによって無駄を廃したことによって財政の再建が可能になったことを示しているのではないだろうか。

この田中さんのやり方に対して、景気浮揚を求めていた層は不満を抱いていたようだ。しかし、高度成長期の経済ならまだしも、発展途上といわれていた国々が生産国として中心を占めてきた現在では、単なる景気浮揚策が困難であることはその状況から見て明らかではないかと思える。田中さんは、地元産業を守るために力を尽くしたが、それは景気のために爆発的な効果を生むものではなかっただろう。そのような状況の中で、財政を再建するとすれば、田中さんがとった方法しかないのではないかと思われる。

かつて東京都も、福祉・教育に手厚かったといわれていた美濃部さんが「ばらまき」という批判を浴びて財政を赤字にしたと批判された。そしてその後任の鈴木俊一氏は「鈴木が最初に直面した課題は、前任者の美濃部の残した財政赤字の解消であった。財政赤字の解消として、鈴木は老人医療費無料の廃止など福祉の削減や職員給与引き下げなどの人件費削減などを行い、2期目には黒字化に成功した」とウィキペディアでは紹介されている。美濃部さんがやったことを「無駄」と見るかどうかには異論があるだろうが、少なくとも鈴木さんはそれを「無駄」と見て、それを削減・廃止することによって財政を再建することに成功した。決して、東京都の景気を良くして財政を再建したのではない。

これは、田中さんが、引用文の最初で主張しているように、「前任2人の公務員出身者が41年6ヶ月、議員と職員と知事の“仲良しピラミッド”を続ける中で」という指摘にあるように、癒着と談合の構造こそが無駄を生み、財政を悪化させる原因であるということが正しいのではないかと予想させる。この癒着と談合は、「仲良しピラミッド」を守る人間には壊せるものではない。全く新しい発想、あるいは美濃部さんに対する鈴木さんというように、対立する人間が乗り込まない限りそれを崩すことは難しいのではないかと思う。

ウィキペディアでは「後に長野県知事となる田中康夫は、「黒字化を目的とするためには相応のことが必要にもかかわらず、ほとんど批判を聞かないのはなぜだろうか」と興味を持ち、『週刊文春』での連載「トーキョー大沈入」にて取り上げている」とも書かれている。二つの事実だけから一般化をするのは危険だが、他に財政再建をもたらした例が見あたらない中では、構造を変え、利権を切り崩し、無駄を省くことが財政再建の唯一の道ではないかとも感じる。

そうすると、田中さんのやり方に近いのは、民主党が主張する方法になるのではないかと思う。田中さんが民主党との連携をしたというのも頷けるものだ。また、民主党のように財源の配分を見直すというのは、今までも努力してきたけれど出来なかったことであり、非現実的な可能性のないことだという批判も、それが自民党の側から出てくるものであれば眉につばをつけてみなければならないだろう。それは、癒着と談合の中にいる自民党だから出来ないのだ、ということが言えるからだ。長野県の例からそれは分かるのではないだろうか。

むしろ、景気回復という手段によって財政が再建された例などどこを見てもないということから考えると、麻生さんが提出する方法こそが実は非現実的ではないかという感じもしてくる。財政が再建され、人々が安心して暮らせるようになり、働く意欲と活気が取り戻されたときに、結果として景気も良くなっていくという構造なのではないだろうか。財政再建を先送りにして、景気を追い求めることは、腐敗の構造をそのままにしておいて無駄をそのままにしておくことで、風呂の栓をせずに水を注ぎ続けるものではないのだろうか。

独立行政法人なる組織」の問題、「随意契約」と「一般競争入札」の導入など、具体的な指摘も、構造を変えるための提言であり、この効果というものが、構造が変わることから論理的に導かれることが理解できるとなるほどと思えるものだ。論理的に正しいからこそそれが現実化しているのだと思える。

構造を語る部分でもう一つ面白いと思ったのは次のところだ。

「摩訶不思議にも官公庁の予算書は、公共事業のみ100万円単位で表記します。即ち、たった3桁の数字で記された215が、生涯賃金にも匹敵する2億1500万円を意味するのです。他方、福祉や教育を始めとした非公共事業の予算書は、何故か1000円単位で表記されます。役所の食堂で、380円と420円、どちらの昼定食にしようかと思案する人間が、机に向かうや公共事業100万円=1円の頭脳思考回路となるのです。而して、福祉や教育の予算書作成時には2150=215万円、215と3桁で記される公共事業予算の100分の1の金額にも拘らず、1桁多い4桁の数字として捉えてしまい、福祉や教育の予算増額に難色を示すのです。錯覚とは恐ろしいものです。
 発想を変え・選択を変え・仕組を変える。私は全ての予算書を1円単位から記そうと職員に提案しました。10億円の公共事業は10桁もの数字を羅列せねばならず、予算書の枠内に入り切らない、と難色を示す財政改革チームの職員に私は、日本には漢字という便利な代物が存在するではないか。電卓の文字盤と同様に、億・万・千の漢字と数字を併用すれば予算書の枠内に収まり、税金の執行に関して視覚的にも1円単位から自覚的・自制的となる、と説きました。」


予算書の単位を変えるというのはすぐにでも出来る改革の一つだ。それは、今までの習慣が当たり前だと思っていた人にとっては面倒なことであり、抵抗感があることかもしれない。しかし、その以前が当たり前だと思っていたことからどのような心理的な効果が生まれているか。それは田中さんが指摘するようなことが認められるのではないだろうか。

「公共事業100万円=1円の頭脳思考回路となる」というのは、いわゆるハコモノといわれる、莫大な予算を必要とする公共事業の場合は、それが無駄であろうと・大きな負担であろうと、それを感じなくさせ・麻痺させる感覚を生み出す効果を持っている。しかも、この感覚の麻痺は、逆に「福祉や教育の予算書作成時には2150=215万円、215と3桁で記される公共事業予算の100分の1の金額にも拘らず、1桁多い4桁の数字として捉えてしまい、福祉や教育の予算増額に難色を示す」という効果ももたらす。このような感覚を持っていれば、人々の暮らしよりも、大手ゼネコンの儲けの方が優先されるという、癒着と談合の性質が増大していくのではないだろうか。

この指摘は小さなものではあるが、これこそがまさに構造改革と呼べるものではないかと思う。郵政を民営化して公務員を減らすのは派手な改革に見えるが、その効果が十分に出ていなければ構造改革の名に値しないだろう。田中さんの改革は派手ではないが着実に効果が出ているものではないかと思われる。

食の安全のための「原産地呼称管理制度」も「発想を変え・選択を変え・仕組を変える。仕組、即ちシステムを再構築せねば、食の安心・安全は実現し得る筈もありません」という主張に説得的に結びついている提言ではないかと思える。そもそも産地偽装問題は、そのような偽装をして不正な儲けが出来るということが問題だ。不正をすれば儲かるどころか損をするような構造があれば誰もそんなことには手を出さないだろう。取り締まりを厳しくして、摘発することに力を注ぐよりも、構造的にそんなことをしても無駄だというようなものにすることこそが根本的な解決になるのではないかと思う。

脱ダムに関する「針葉樹の間伐」という問題も、それが与える影響の大きさを考えれば、まさに構造に関する提言ということが出来るだろう。脱ダムはこのような構造改革につながっていたということを理解すれば、まさに脱ダムの方向こそはこれからの重要な問題だということが判る。

このように数々の適切な指摘のある田中さんの話を聞いて感じるのは、このような改革が今までの習慣の中にいる自民党に果たして可能なのかということだ。小泉さんは自民党を内部から壊すといっていたが、この癒着と談合の性質が壊れたようには見えない。むしろ地方との人間的なつながりが壊れて、人気をバロメーターにして選挙を戦うしかないポピュリズム政党になったという点で自民党が壊れてしまったのではないかということがマル劇などでは指摘されていた。もっともな指摘だと思う。癒着と談合を壊すには、やはり内部からでは難しいのだろう。あれほど優れた面を持っていたゴルバチョフでもソビエト共産党を内部から変えることはできなかった。それは対立する人間によって壊されない限り改革が出来なかった。民主党が対立する勢力としてこれだけ成長してきた今が、そろそろ自民党を本気で壊すときになっているのではないだろうか。自民党が作り出した「過去の成功体験、もとい既得権益に寄り掛かる政治家・官僚・業界、所謂「政官業」利権分配ピラミッドの存在」を切り崩すのは今なのではないだろうか。田中さんの言葉は、それを説得的に「うまく説明」していたと思う。