八ッ場ダム工事中止の反対論のおかしな論理

テレビのニュースを見ていたら、八ッ場ダムに対して、「もう工事の7割が終わっているのに、ここで中止したら今までの工事がムダになるし、これまで使ってきた金はどうなるのか?」というような論調で中止に反対するような意見が提出されていた。これは、一見もっともな理屈を言っているようにも聞こえてしまうが、よく考えるとおかしいのではないかと思う。

すでに7割やってしまったのだから、残りの3割も終わらせようというのは、それが必要なものかどうかという観点が抜け落ちてしまっている。とにかく、注ぎ込んだ金がもったいなから、残りの金も注ぎ込んでしまえというのは、暗黙の内に、その工事は必要だからやっているのではなく、ある量の金をばらまくことが目的でやっているのだと語っているのではないだろうか。もし残りの3割の金が必要だというなら、むしろ工事をせずに、金だけをばらまく方がまだいいのではないかと感じる。

八ッ場ダムに関しては、それが本当に必要な工事であるという報道が少ない。むしろ今となってはその必要性が全く失われてしまったという報道がなされている。必要がないのだから、やめる方が合理的だろう。しかし、やめることによって損害を被る人々がいるのも確かだ。その損害が本当に保障されるべきものであれば、残りの工事をする金よりも余計の金がかかったとしても保障するのが合理的な判断だろう。余計に金がかかるのだから、ムダではあるけれど、金を払うための工事をすべきだというのは、金の面だけのつじつまを合わせる論理であり、他の面の正当性をすべて無視する論理になるだろう。

民主党公共工事の見直しをするのは、本質的には、必要性によって工事をするかしないかを決定しようということだろうと思う。それは、今まで公共工事によるばらまきで経済を回してきた日本の経済構造を変えるという意思だろうと思う。もはやそのばらまきでは、経済循環が再生するような余裕がなくなってきたのだと思う。原則をどうするかという面で八ッ場ダムの問題も見なければならない。

八ッ場ダムはすでに7割も作ってしまったからという論理は、今までの構造を変える気がないということを告白しているようなものではないだろうか。民主党の工事中止の方針に反論するなら、必要ないという主張に対してこそ反論してほしいと思う。その反論が全く聞こえてこないということは、必要性に対しては反論できないのではないだろうか。

八ッ場ダムの工事中止は、それに対して利害がある人々も厳しく受け入れるべきではないかと思う。そして、その損害が補償を求める正当性があるのなら、民主党はどれだけ金がかかろうとも保障すべきだろう。それを今までの「ムダ使い」と一緒くたにして、金がかかるという批判をするのは的外れだと思う。

また、工事中止が、必要性という観点から正当性を持っているならば、それによって損害を被る人々に対してもっとも責任を持たなければならないのは、このような利権のためにムダ使いがなされた工事を計画した自民党政府ではないか。自民党の失敗こそが追求されなければならないだろう。その尻ぬぐいをしようとしている民主党に的外れの批判をするのは間違いだと思う。民主党に対する批判は、八ッ場ダム公共工事として必要かどうかという判断が正しいか否かということに絞られるべきだろう。もしその判断が間違えているなら、その点をこそ批判してほしいと思う。そして、この判断が批判できないものであるなら、そのような工事を進めてきた自民党政府の今までの失敗をもっと厳しく追及すべきではないかと思う。