論理は相手を選ばない

一応の理屈を立てて物事を考えることが出来る人でも、その論理が普遍的にすべての対象に対して成り立つものであるということを深く考える人は少ない。ディベート的な議論において、実に鋭く相手を批判する論理を立てたとしても、その同じ論理で自分自身も批判されるということを考える人は少ないだろう。古代ギリシアソクラテスは、おそらくそのことを万人に知らせるために問答をしたのではないかと思う。そして、そのことによって自分の無知に気づかせようとしたのだろう。
しかし、自分の無知に気づくのはあまり楽しいことではないから、ソクラテスは恨まれたことだろうと思う。僕も他人が使う論理の無知に気づくところがあるので、あまり好かれないだろうとは思うけれど、最近は次のような所に気づく。
北朝鮮」との交渉において、「北朝鮮」を非難する人たちは、あの国が独裁国家であり、「拉致」という犯罪が国家的なものであり、国家的なものであるからには、独裁者である金正日に責任があるのは当たり前だという論理展開をしているように思う。だからこそ、国家としての「北朝鮮」に経済制裁をせよと主張しているのだろう。
しかし、「北朝鮮」の主張は、「拉致」という犯罪は暴走した個人が起こしたものであり、国家としての関与は無いというものだ。これをそのまま信じるわけではないが、この主張を崩す確かな証拠というのはおそらく手に入らないだろう。「拉致」が国家の犯罪だと思えるとしても、それを裁判のような場で証拠立てることは難しいだろうと思う。それは、限りなく黒に近い灰色という主張しかできないように感じる。
それを、独裁者である金正日は、国家のすべてを自分の自由に出来るのであるから、国家の一部が犯した犯罪にも責任があるのだという論理を立てると、この論理は「北朝鮮」だけではなく、すべての独裁国家にも当てはめないとならない。
ヒットラーのドイツにも当てはめなければならないし、天皇軍国主義の時代の日本にも当てはめないとならない。そうすると、この論理のみで、昭和天皇には戦争責任があったという結論が出てしまう。この論理を展開したければ、それから導かれる結論は受け入れなければならない。天皇軍国主義の日本だけはその論理から除かれると言うことはないのだ。
僕自身は、国家の行為の責任を単純に個人に帰することはできないと思っているので、昭和天皇の戦争責任も、金正日の「拉致」犯罪に対する責任も、もっと細かい論理展開が必要だと思っている。
ついでに、もう一つ不人気になるようなことを言っておくと、日本は戦争中の「強制連行」が犯罪であることを認めていないが、「北朝鮮」は一応は「拉致」という犯罪があったことは認めているという違いをどう捉えるかは大事なことだと思う。合法性を整えておけば、行為としての「強制連行」は犯罪でないと主張出来るのかどうか。行為そのものの犯罪性を認める方が、人間としては立派だと思うが、国家は人間ではないから、このような開き直りが出来るのかを考えるのは大事なことだと思う。