『現象学ことはじめ』(山口一郎・著、日本評論社)

この本の序章には次のような文章がある。

この「受動性」の領域の開拓は、現代哲学の展開にとって、もっとも革命的で画期的な出来事でした。この領域こそ、デカルト(1596〜1650)に始まる近世哲学以来、現代哲学に至るまで、問題にされたり、無視されたりしながら、未解決の問題であり続けた「独我論(すべての存在の根源を自我に見る立論)の克服」の問題に根本的解決をもたらしました。また同時に、この領域は、心と身体のつながりを対立すると捉える「心身二元論」の問題にも、根本的な解決を提示出来る領域なのです。

哲学者というのは非常に厳密な議論を展開する人たちだが、自然科学畑の人間から見ると、それは厳密すぎる議論になっていて末梢的なところにこだわっているように見えるときがある。過ぎたるは及ばざるがごとしという感じがするときがある。

しかし、時には徹底的に細かいところにこだわって、一度厳密な議論を経験しておくことは、物事を深く考える上で役立つようにも思われる。「独我論」の問題は、自然科学的発想から言えば、末梢的な問題でわきに置いておくものだ。その現象が、自分だけの現象であるなら、そもそも自然科学の対象にする必要がないし、一般的な法則などを求めることが無意味になる。自然科学的に対象を見ると言うことは、それが自分の意志とは独立に存在しているという唯物論的規定を前提として考察の出発点にするということだ。そして、そこに一般法則である自然科学的法則が成立すると言うことが、その対象が本当に存在すると言うことの証明にもなると考えている。

自然科学的には「独我論」はこだわらなくてもいい事柄のようにも思えるが、これを哲学がどのように克服し解決しているかという論理の問題はとても興味がある。現象学を、この観点から眺めてみることにしよう。