他人の痛みが分かるか

野矢さんの哲学エッセイ『哲学・航海日誌』(春秋社)は「他者」の問題から、まず入っている。他者をどのようにして認識出来るかというのは、哲学にとっては深刻な問題だ。しかし、哲学に関心がない普通の人からは、何でそんなにこだわるのだろうと、その厳密な論理展開を、重箱の隅をつつくようなものと感じるのではないだろうか。
僕は、哲学的な考察というのは、一度それを通り抜けているかどうかが大きい問題だと感じている。いつでもそのように考える必要はないけれど、そのような厳密な議論を知っているのと知らないのとでは、物事に対して答を出す態度が違ってくる。
哲学を知らない人間は、ある種の問題に対して、よく考えずに簡単に答を出してしまう。その答が、恣意的なものであり、ある意味では感情に流されて錯覚しているだけに過ぎないのに、そのような反省が出来ず、簡単に結論を出してしまう。しかし、一度でも哲学的に考えたことのある人間は、その問題の難しさを通り過ぎたことがある人間で、簡単に答を出すことにためらいを感じる。このためらいこそが哲学を学ぶ意義ではないかと僕は思っている。
さて、他者の問題で、簡単に答を出さずに、一度はこだわった方がいいこととは何だろうか。次の引用を読むとそれが分かる気がする。

ここで、「どうせ他人のことなんだから、本当のところは分からなくて当然」とさばけた感想を持つ人もいるかも知れない。しかし、「他人の痛みは本当のところは分からない」と日常的に言うとき、同時に、「でも少しは分かる」と言いたくもなるだろう。痛んでいる他人を前にして、まったくもどかしさを覚えずに「君の痛みは完全によく分かる」と言い切れるとは思えないが、「まったく分からない」と突き放してしまうことも、およそ実情からかけ離れている。それゆえ、いま芽生え始めた「嫌な感じ」は日常の実感そのものではない。日常的には他人の痛みだって少しは分かると言いたい。しかし、ここでこう自問せずにはおれなくなるのだ。
−−どうして「少しは分かる」と言えるのだろう。

最後の問い「どうして「少しは分かる」と言えるのだろう」と言うことが、一度はこだわった方がいい問いだ。これをこだわらずに簡単に解答を出すと、簡単に「分かってしまう人」と「絶対に分からない人」に分かれてしまうのではないかと思う。分かりそうで分からないという難しさを持ち続けるこだわりが必要だ。それをどちらかに安直に決めてしまうのは、物事を深く考えない人間だ。物事を深く考えるために、一度哲学的に考えた方がいいと僕は思う。
他人の痛みが自分の痛みと同じものであれば、自分の体験からの連想でそれを理解出来るかも知れない。しかし、どうやって同じだということを確かめられるのか。そもそも、他人の感覚などを知り得るのか。自分が知りうることは、あくまでも自分の痛みではないのか。そうすると、他人の痛みを知るなどということは、原理的に出来ないと結論しなければならないのではないか。
野矢さんは、痛みを想像したらそれは自分の痛みになってしまうから、「痛みを想像することなく、他人の腹痛を想像せよ」と語る。実に難しいことだ。しかし、他人の痛みというものを厳密に考えれば、このような結論に導かれる。
哲学者というのは本当に厳密な議論をする人だ。厳密な議論というのは、いつもする必要はないが、一度は通り過ぎる価値がある。それを知っている人と知らない人とでは、自分の無知の自覚の度合いが違ってくる。そして、無知を本当に自覚出来た人が、もっとも難しい問題に解答を与えることが出来る。無知の自覚がない人は、問題の難しさを理解することは出来ないだろう。