「論理」とは何か

僕は「論理」というものの定義を、世界の持っている法則性を捉えたものと考えている。世界というのは、自分が存在している環境の一切を含む対象だ。この環境は具体的な物質的存在もあるし、主観の中の存在も自己と区別出来るものは環境という世界として捉える。
この世界の法則性のうち、言語が持っている法則性を捉えたものに形式論理と呼ばれるものがある。形式論理は、表現の形式の法則性を捉えたものであるから、存在を対象にしてはいない。それは言語による表現と関わるものだ。だから、形式論理では存在の内容に関しては何も語ることが出来ない。それを捨象して、表現に現れてくる形式のみを考察の対象とするからだ。
だから「論理」という言葉で形式論理だけを指しているとすると、存在の内容については論理的に語れないと言う結論になってしまう。例えば
  「このコップは青い。」
という命題を考えた場合、これをその言語が指す内容を捨象して形式だけを取り出せば、「AはBである」というものになる。これは、形式論理的に言えば、真であるか偽であるかを、この命題だけからは判断することが出来ない。形式論理的には意味がない命題と呼んでいいだろう。
この命題の真偽を判断するには、Aで表現される属性を持った対象を集めた集合が、Bという属性を持った対象を集めた集合に含まれるかどうかと言う、内容を検討して判断しなければならない。この命題の真偽は内容の検討を抜きにしては行えない。内容の検討が論理では無いという思いを抱いている人は、この判断は論理によって行われているとは思えないだろう。
しかし、世界の法則性が論理だという定義の基に考えると、「このコップ」という言葉で指すことの出来る対象は、現実に存在する個別のコップであると捉えることが、この言葉が持っている法則性だと認識するだろう。そういう法則性の基にこの言葉を使っているのでなければ、この言葉の意味が伝わらないからだ。つまり、「このコップ」という言葉で限定される集合は、そのコップ一つだけを要素に持つ集合と言うことになる。
「青い」という言葉は形容詞であり、普遍的属性を語った言葉だ。これは、この言葉の成立そのものにすでに論理的な判断が含まれている。「青い」という属性は、「青くない」という属性と区別されることによって成立している。つまり、世界に存在する物質的なものは、色という属性を持っており、「青い」ものと「青くない」ものが区別されるという法則性を持っていると捉えられているのである。
形式論理は、世界を表現した際の表現形式という一側面のみに関わる論理だ。それ以外の側面は、他の論理によって捉えなければならない。内容に踏み込んだときに、それが多様な面を持っているという見方でとらえると弁証法論理によって捉えられることになる。弁証法論理が矛盾の論理だと言われるのは、その多様な側面を同時に捉えようとするからだ。多様性を同時に見れば、そこに対立する多様性が見つかるのは必然的なものだ。だから、弁証法論理では常に矛盾が発見される。しかし、それは矛盾が同時に発見されると言うことであって、時間的に同時に成立していると言うことではない。そこを間違えると弁証法は単に詭弁にしか思えなくなるだろう。
帰納論理というのは、言葉の中の必然性ではなく、現実存在の必然性を捉えるときに法則性として捉えられる。100%確実に起こることではなく、確率的な蓋然性しか言えない対象を語るときにこの論理(法則性)を見つけることが出来るだろう。この論理法則は、形式論理のように100%確実な結論を導かないが、個別に何%の確率で確かかと言うことは求められるかも知れない。
その帰納論理で求められた法則性を限りなく100%に近づけることが出来るものが「科学」と呼ばれるものであり、板倉さんが言うところの仮説実験の論理だ。これは説明すると長くなるのでここでは省略するが、科学法則が、だいたいそうなるという言い方でなく、ほぼ確実にそうなると言えるための論理だ。ニュートン力学で確定する重力加速度が、だいたいそれくらいになると思っている科学者はいない。それは正確に測定の通りになると、科学者なら思っている。
ことわざの論理というものは、論理として認識するのは難しいかも知れない。これはアナロジーの論理だ。ことわざというのは、表現されたものが文字通りの対象しか指していないということはない。必ず対象の広がりを要求する。
「猿も木から落ちる」ということわざを、ずいぶんドジなことをする猿が存在するものだな、と受け取る人はいない。これは、木から落ちた個別の存在である猿のことを語った表現ではない。「その道に通じた専門家であっても簡単な失敗をすることがある」と言う、より一般的な表現の比喩なのだ。つまり、そのような法則性を世界が持っていることを表現した「論理」なのである。
すべてのレトリックは論理であると言った人もいたことを記憶している。その人は、僕と同じように、論理というものを世界の法則性だと捉えていたのだろうと思う。
論理をどう定義するかという問題は、ある意味では好みの問題でもあるから、すべての人が僕と同じ定義をするべきだというような主張はしない。しかし、論理を世界の法則性を捉えたものと考えると、世界がよりハッキリと見えることは確かだ。だから僕は、論理をそう定義したいと思う。