「議論」とは何か

僕はインターネットを本格的に始めてからかれこれ7,8年たつだろうと思う。インターネット上の議論らしきものも何度か経験したが、本当に議論だと感じたものはほとんど無い。たいていが議論もどきのものに過ぎなかった。インターネットではまともな議論などは出来ないといまは感じている。
最初に経験したのは掲示板上での議論だったが、これはほとんど議論にはならなかった。掲示板という状況が議論の妨げになっているだろうと思った。たいていは短いコメントで言葉を投げ合うだけで、議論の前提となる合意というものがほとんど形成されない。相手の言葉を勝手に自分の解釈で受け取って、相手が語ってもいないことを相手の言葉の中に作り上げて、架空の論点に批判を投げつけているだけのようにしか見えなかった。
ブログが登場したときには、そのトラックバック機能に議論の可能性を期待したが、これもまともな議論になるような方向へは働かなかった。ブログでは自分の主張を語るのにかなり長い文章を書くことも出来るので、主張の前提となる条件も詳しく書くことが出来る。もし議論をするのなら、そこに書かれた前提を出発点にすべきなのだが、ほとんどのやりとりは、掲示板と同様議論の前提を共有するのではなく、やはり自分の解釈で相手の主張を受け取っているだけのようにしか見えなかった。
相手の前提という土俵そのものに疑問を持っているのなら、土俵の批判をすべきなのだが、多くは結論を解釈したものに非難を浴びせているだけだった。土俵が違えば結論が違ってきても仕方がないというのは論理の法則だ。その違っても仕方がない結論が違うからと言って非難しても、これは的はずれの非難としか言えないだろう。
僕は、基本的に掲示板的なやりとり、つまりブログのコメント欄でのやりとりは議論にならないと思っている。それは感想を述べ合う程度のものだと思っている。どんな前提で、どんな論理展開で結論を導いているかなどと言うことは短いコメントで語れるものではない。もし、本当の議論をしたいのなら、それはトラックバック機能を使ってやるべきだろう。
この場合も、議論をするからには、その前提となることを共有しなければならないから、まずはそのことに最大限努力をする必要がある。この共有が出来なければ議論そのものはあきらめなければならないだろう。それは、単に物事の見方が違うということを了解することにとどめなければならない。
議論の前提が共有出来たら、次には論点の共有をしなければならない。何が論点なのかと言うことが共有出来なかったら、これは議論とは呼べないからだ。お互いに対立した主張を持っていればこそ論点になる。それが、対立しているのではなく、視点が違うだけで両立するのなら議論にはならない。両立するかしないかということでまずは論点になるかどうかを語り合わなければならないだろう。
このような前提がクリアされたとき、初めて本物の議論になり、それは実りある議論になることだろう。真っ当な論理を駆使して、自分と反対の主張が導かれるというのは、とてもスリリングなことで自分一人ではたとえシミュレーションをしてもそのような議論は展開出来ないだろう。相手の主張が真っ当な論理展開で得られていると判断出来るために、議論の前提を確認し合うことが必要だ。真っ当な論理展開で得られていると感じられない間は、建設的な議論を展開するのではなく、単に結論の違いをぶつけ合うだけのものになってしまうだろう。
議論もどきではなく、本物の議論をしてみたいものだ。それはとてもスリリングで面白いものになるだろう。だが、インターネットではそれはとても難しい。