映画の評価について

今週配信されたマル激は、無料だということなので、映画に関心がある人はぜひ見ることをおすすめする。映画の評価というものについて深く考えさせてくれる、一流の映画評の言説が語られている。

僕は、かつて「ディア・ハンター」というアカデミー賞映画を、本多勝一さんが批判した文章を読んだことがある。僕は、主演したロバート・デ・ニーロが大好きで、この映画をリアルタイムで見た20代前半のころは、とても感動したものだった。

しかし、本多さんの批判を読んでからは、もはやこの映画を感動をもって見ることは出来なくなった。それは、この映画には、本質的な嘘が入っていると思ったからだ。劇映画はフィクションであるから嘘が入るのは当然なのだが、この映画の嘘は、そこから得られる感動も嘘だというものにつながる嘘だったのだ。

僕が「ディア・ハンター」に感動したのは、ギリギリの所に追いつめられた人間の葛藤と、友を思う主人公の友情を感じたからだ。しかし、それを生んだ原因となるものが、ベトナム戦争での解放戦線側が行った、非人間的なロシアン・ルーレットのゲームだったという設定が嘘だと知ったとき、葛藤も友情もあり得ない嘘なのかと落胆したものだった。

無理やりに感動を呼ぶために設定した嘘は、フィクションとしての芸術の嘘ではない。俗情に媚びるという、ワイドショー的な俗悪番組の視聴率稼ぎの考えと同じものだ。この嘘を知ってから、僕は「ディア・ハンター」という映画は二流の映画だとしか感じられなくなって、大好きなロバート・デ・ニーロが出ているにもかかわらず、二度と見られない映画になってしまった。

この映画の嘘というものを考える材料として、マル激では「ミュンヘン」という映画が語られていた。この映画は、メッセージとしては、復讐の暴力の連鎖というものがいかにむなしいものであるかを伝えているといわれているようだ。しかし、この分かりやすいメッセージの裏に、嘘として語られている隠れたメッセージが、この映画の二流性を感じさせるのではないかと僕には思えた。

事実としての「ミュンヘン」は、すでにドキュメンタリーが作られていて、映画の表現とはまったく違う部分がたくさんあるそうだ。それは、劇映画はドキュメンタリーとは違うのだから、という理由で見過ごすことの出来ない本質に関わる嘘が作られているのを僕は感じる。

一つは、人質となったイスラエル人は、すべてが「テロリスト」に殺されたのではなかったと言うことだ。むしろ、ドイツ政府のずさんな対策により、ドイツ警察に殺されたものが多かったらしい。ドイツのミスによって事件はさらに悲惨なものになったというのが事実なのだが、これは映画ではまったく描かれていないと言う。僕はこの映画をまだ見ていないので、その部分は、本当にそうなのだろうかということに注意してみてみたいと思う。人質は誰に殺されたように描かれているのだろうか。

人質がドイツ警察のミスによっても死んだのなら、怨念はドイツに向かう部分があってもいいのではないかと思う。しかし、物語としては「テロリスト」に怨念が集中しなければ、その後の展開がうまくいかなくなるだろう。これは、ご都合主義的に感情に働きかけるために仕組まれた嘘なのだと思う。

もう一つの嘘は、イスラエルの秘密情報機関員がとても人間的に描かれているのに、「テロリスト」たちは、殺人マシンのように人間的な逡巡や葛藤が全くないかのように描かれている点だと、宮台氏が指摘していた。これも、実際に映画を見るときに、そのような描かれ方をしているのかに気をつけて見てみたいと思う。

実際には、人を殺すという行為において、逡巡や葛藤をしない人間がいるとしたら、それは想像を絶する存在になる。真相は、どちらも普通の人間だったということなのだ。「テロリスト」であろうとも、平気で人殺しが出来る悪魔のような人間ではないのだ。出来れば人殺しなどはしたくないのだが、それ以上に「テロ」という行動に働きかけるような要因があると理解するのが、現実を知る人間の理解の仕方だろう。

そういった嘘についてまったく知らずに、職人的なスピルバーグの演出の腕で、感動を与えられ、「暴力はやはりいけない」というような通俗的な道徳に納得するようであれば、二流の表現の二流性にどっぷりつかっているのではないかと感じる。むしろ、「暴力はいけないはずなのに、どうしてそれが避けられないのか」という、人間的な矛盾の方にこそ目を向けなければならないだろう。避けられないことの方にこそ合理的な理由があることを受け止めなければならない。

ホテル・ルワンダ」という映画も僕はまだ見ていないのだが、ここでは、嘘ではないのだが、意図的に語られなかったことが本質から目をそらせることになっているという批判が語られていた。

ルワンダで行われたこの大虐殺は、歴史家から見れば、ベルギーの植民地統治の失敗によるものだというのが定説になっているようだ。植民地というのは、過酷な生活を人々に強いるものだから、直接統治をすれば恨みを買ってしまうので、先進諸国はその当時はすでに間接統治というものに変わっていったそうだ。直接の恨みは、傀儡にまかせておいて、美味しい利権の方はかすめ取るというのが植民地統治の常識だったようだ。

フツ族の、ツチ族に対する恨みというのは、そういう植民地統治のシステムによってふくらんでいったものだという。この場合、少数民族ツチ族の方を傀儡に選んだのも、植民地統治の常識だったのだろう。その方が恨みの矛先がそちらに向かってうまくいくというわけだ。

映画では、このベルギーの罪は一切描かれていないと言う。どういう理由で恨みをもっているのかは分からないが、とにかくひどいことをするというインパクトにまず驚かされるだろう。そして、そのひどい状況の所に、ただ一人だけ人間的な行動をするものがいれば、その人間に感情移入して感動することが出来るだろう。しかし恨みをもった原因が分からなければ、フツ族に対しては、単にひどい奴らだという印象しか持たないのではないか。

これは、歴史認識として間違っているだろう。また、このような単純な感情を単純に受け取るだけでは、この映画からいろいろと学び取ることも出来なくなる。傀儡統治の恐ろしさというのを、本当はここから学ばなければならないのではないか。これは、国際的な日本の位置を考えるときの参考にもなる。

日本は、国際的にはアメリカの傀儡だと思われているのではないかと思う。イラクへの対応のまずさは、今まで恨みを買わずに済んだ中東の人々へ、傀儡としての日本に対する恨みを生み出したのではないだろうか。傀儡の問題を省いてしまったこの映画に、ノーテンキに感動しているのは、ものを考えない情緒的反応をしていることになるのではないか。

映画における嘘の問題は、具体的に検討して、どの嘘が芸術として、その芸術を高める効果を持っているのか、嘘が芸術性を貶めるのか、考える価値のあることではないかと思う。