「事実」は実体的(物質的)存在ではなく観念的存在である

本多勝一さんは、『事実とは何か』という著書の中で、「客観的事実」の「客観的」という言葉について論じたことがあった。その趣旨は、100%客観的と呼べるような「事実」はないということだった。つまり客観的と言うことを、文字通り<人間の意識とは独立している>という意味に受け取ってしまうと、それは完全には成り立たなくなる。「それが事実だ」という判断において、どうしても人間の頭を通過するという「判断」を経なければならないと言うことから、主観が入り込んでしまうからだ。

この主観を排除することは、「判断」をしないということだから、「事実」ということが言えなくなってしまう。だから、100%客観的な「事実」はあり得ないと言うことになる。それでは、100%客観的な事実がなかったら、そもそも客観的な事実というのはまったくあり得ないのか?それは反対の極に行きすぎた間違いだ。

現実が視点を変えると対立した面を持っているという、弁証法的な理解をすることが出来るなら、ある視点からはその判断は「客観的事実」であり、ある視点からは主観が入り込むために「客観性」が完全ではないと言う意味で「客観的事実」ではないと言えると理解しなければならない。

このように、ある事柄が「事実」であるかどうかという判断は、対象の認識に関わっているので、「事実」そのものは対象を意味する実体的存在ではない。それは、対象の属性を判断する認識なのである。つまり、人間の頭の中にしか存在しない観念的なものだ。これを混同すると、さまざまの判断において混乱が起きるだろうと思う。

「事実が存在する」という言い方があるために、事実を存在として捉えたくなる人がいるかもしれない。しかし、その存在はあくまでも観念的なものであって、実体的に現実に存在する物質的なものと混同してはいけない。事実は、強いて言えば、三浦さんが言語の「意味」の分析で考えたように、「関係的」なものだと僕は思う。

言語の意味というのは、三浦さんが指摘する以前は、それが現実に存在する実体的な存在、つまり物質的な物そのものだと思われているような所があった。「私には母がいる」という言葉の意味を考えるとき、「母」という言葉の意味は、現実に存在する母親という実体だと思われていた。これは対応関係が単純なので、意味論としては分かりやすい。

このような意味論を持っていると、「幽霊がいる」というような言葉の意味では、「幽霊」に対応する実体的存在がないので、この言葉には意味がない、つまり間違っているというような認識が出来るというような展開が出来る。常識的な判断と合いそうな気がして都合がいい。しかし、「私には母がいる」と語ったときの「母」が亡くなって、この世に存在しなくなったときのことを考えると、その時はこの言葉に意味が無くなったと考えなければならなくなる。

しかし、この表現を「私には母がいた」と過去形にしたときの意味はどうなるだろうか。意味が実体的存在だと考えると、この場合にも意味はないと考えざるを得ない。それが論理的強制というものだ。どんなに感覚に反していようとも、ある前提を認めた以上、論理的に正しい推論で導かれた結論は受け入れなければならない。その結論を受け入れないのであれば、前提そのものを修正する必要がある。

意味が実体的存在ではなく、それを受け取る人間の頭の中に浮かんだ「理解」という認識だとする発想が、その修正として出てくる。しかし、この場合も論理的強制として次のようなものが出てくる。それは、意味が受け取る人間の認識の方にあるのなら、意味は受け取る人間の数だけたくさんあって、どの意味も同等だということになる。従って、意味を取り違えると言うことは論理的にはあり得なくなる。どの意味も正しいのだと言うことになってしまう。

これも常識的な感覚に反するものだ。どちらも認めがたい時に、三浦さんはこの「意味」という対象をどう捉えて、この矛盾を解決したのだろうか。それは、意味というものが持つ弁証法性を分析して、どのような視点で考えたときに、実体的な受け取りが正しくなり、どのような視点で考えたときに認識という観念的な受け取り方が正しくなるかを考察することによって解決したのだ。

そこで出された結論が、言語過程説と呼ばれる発想だ。言語というものを<対象−認識−表現>の過程的構造で、このような構造の全体像で理解するという発想だ。だから、意味を考えるときも、対象である実体的存在だけにそれを押しつけるのではなく、この過程的構造全体が意味を担うのだと考える。

つまり、ある言葉の意味を理解するというのは、表現者がたどった言語の過程的構造を逆にたどって、その表現から認識を予想し、そしてその認識をもたらした実体的存在である対象を予想し、それがぴったり構造的に重なったときに、本当の意味で「意味を理解した」と言えるのだ。

誰かが「白い犬がいる」と表現したときに、その表現者が見ている白い犬を、実際に見ることが出来て、自分も「白い」という判断が出来たときに、その意味を正確に理解出来る。意味というのは、<対象−認識−表現>という過程をつなげる関係として存在していると捉えるのが、三浦さんの意味の理解だった。

「事実」というのも、それは現実に実体的に存在する対象について語った言明と捉えるべきだろうと僕は思う。実体的存在そのものが「事実」に対応しているのではない。例えば「聖徳太子がいた」のは「事実」だという言い方を考えてみよう。この「事実」は、聖徳太子そのものと対応しているのではない。あくまでも判断を「事実」と受け取らなければならない。

つまり、「聖徳太子がいた」と言うことが正しければ、それは「事実」だと言えるし、正しくなければ「事実」ではないとしなければならない。それでは、その正しさはどのようにして判断するのだろうか。それは実体としての対象をただ見つめるだけでは出来ない。どちらの可能性も考えることが出来るという意味での、仮説に過ぎないものになってしまう。

この仮説を真理だと判断するには、実験的な検証を必要とする。「実験」と言ってしまうと、科学的真理を判断するときの「実験」と区別することが難しくなるので、「実践」と呼んだ方がいいと思うが、これも本質的には、科学的真理を確かめる板倉さん的な意味の「実験」と同じように、現実に問いかけると言うことが「実践」の本質となる。

聖徳太子がいたというのを、直接見て確かめることは出来ないから、いたと仮定するならその痕跡が必ず残っているはずだと予想し、それを問いかける。それは例えばいろいろな記録に残っているだろう。語り継がれていることがあるかも知れない。とにかく、「痕跡」があるはずだという予想を持って問いかけ、実際に「痕跡」を見つけることが実践になる。

それでは、「痕跡」が見つからない普通の人の存在に関してはどうなるだろうか。これは、基本的に「事実」を確かめることは出来ないと言わなければならないだろう。それは、認識されない対象が、決して存在を確認出来ないと言う、人間存在の限界を語る認識論的な真理と同じようなものだ。

この限界は、認識出来ない存在の否定をもたらすものではない。存在するかしないかが確認出来ないという限界として理解しなければならない。そして、それが認識されたときは、存在が確認出来たときで、それは普通「発見」という言葉で語られる。それは今まで知られていなかっただけで、突然この世に出現してきた「発生」とは言われない。それは、知られる以前にも存在はしていたのだ。ただ認識出来なかっただけのことである。

人間にとって聞こえなかった音は、それが測定出来る器械が出来る前までは認識されない、知られていない音だった。それが測定出来る器械が生まれたときに、音そのものも生み出されたと考えるのか、音そのものは今までもあったが、認識されていなかったので存在が確認出来なかっただけだと考えるのか、どちらの態度を取るかで、科学的かどうかということが決まる。

「事実」というのも、その正しさが確認出来ない「事実不明」の段階の言説はたくさんある。「実践」によってそれが確認出来たものは、「事実」として確定する。つまりそれは「真理」となるのである。対象となる現実存在の属性は、「事実」の確認が出来るか出来ないかにかかわらず、客観的に存在する。「事実」を客観的存在と混同すると、関係性ではなく、存在することから「事実」を引き出すような間違いを犯すのではないかと思う。

「火のない所に煙は立たない」ということわざがあるが、これはあくまでも「煙」という仮説について語っているのであるが、「煙」を事実だと勘違いする発想が、「事実」を存在だとする発想ではないかと思う。和歌山毒カレー事件については、神保・宮台両氏は、事実は何も確定していないと語っていた。すべては「煙」に過ぎない仮説なのに、「煙」が存在したことを「事実」と直結しているのではないかと僕も感じる。

「事実」を存在と直結して考えることの間違いは、抽象的な議論をしている限りでは余り目立たない。しかし、具体的な現実を検討すると、その非弁証法的な面が現れてきて、詭弁や誤謬に転落すると言うことが起きてくるだろう。弁証法性を持っている対象は、抽象的に語るだけでなく、常に現実に対応させて「実践」的に考えなければ、弁証法が形式論理に堕してしまう。

本多勝一さんはこの著書の中で、「事実」「真実」「真理」という3つの言葉を比べてみて、それらがすべて「本当のこと」という共通項を持っていることを指摘し、さらに「哲学事典」の真理の項目からの次の考察を語っている。

「これを読むと、真理というものはそれぞれの立場によって違うと言うことが分かる。キリスト教の真理、スコラ哲学の真理、カントの真理、弁証法唯物論の真理……。当然ながら、ニクソンの真理、佐藤栄作の真理、殺し屋の真理、殺される側の真理……と、それぞれ違うことになります。」

僕も、まったくその通りだと思う。だからこそ科学的真理は、科学の立場から定義した真理だと言うことになるわけだ。本多さんは、直接ここでは語っていないが、僕は「事実」というのは、個別的な出来事に関する「真理」のことだと思っている。個別的な出来事において、正しいことが分かれば、それは「真理」として判断出来、「事実」となる。

本多さんは「真実」という言い方を、「真理」を情緒的に語っているだけだと指摘している。つまり、その「真理」が自分にとっていかに大事かという心情を含んで使っているだけだ。この言葉は、情緒に流される、論理に弱い人間が使う言葉だとも語っている。論理的な展開をしたいときには使うべきではないとも語っている。その通りだと思う。

そして締めくくりに語っている「事実によって本質を描く」と言うことが、ルポルタージュの神髄だという指摘は、優れた言説の基本ではないかとも思う。事実を単なる存在としか捉えられないと、本質は見えてこないと思う。事実を関係性と捉え、現象の中の見えない構造を見ることが出来たとき、単なる存在という単純性ではなく、本質という複雑性を見ることが出来るだろうと思う。