難解な文章について

わかりにくい文章の代表として、本多勝一さんは『日本語の作文技術』の中で、大江健三郎氏の次の文章を引用していた。

「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機を与えられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によって彼の仕事の現場にも明瞭に持ち込みうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度を取ることなしには、彼の職業の外部から与えられたぬるま湯の中での特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということに他ならない。改めて言うまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻を突きつけねばならぬ時の事を考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家が自らに課すべき問いかけであるように思われるのである。」
大江健三郎「職業としての作家」『別冊・経済評論』1971年春季号)

この文章を一読して理解出来る人は、かなりの読解能力のある人だろうと思う。本多さんは、この文章を、修飾と被修飾の関係から批判をしていた。分かりにくくなる原因を、修飾される言葉と修飾する言葉が、文章において離れすぎていることに求めていた。

それでも、ここで大江氏が語っている対象と同じものを見ることが出来れば、大江氏の表現ではなく、自分が理解したものを言葉で言い表すことが出来るだろう。そうすれば、大江氏が本当は何を言いたかったかも分かってくる。表現を理解すると言うことは、本質的には、そこで表現されている対象を理解すると言うことに他ならない。

この経験は、三浦つとむさんが主張する言語表現の過程性、<対象−認識−表現(言語)>というものが言語の本質であるということを確認するものになるだろうと思う。三浦さんの主張が正しいことを確認する実験を、任意の言語表現で常に行っていることになっていると思う。

言語表現の文法的な理解は、ある意味では「仮説」に当たるようなものだ。このような内容を語っているのかな、と予想(解釈)をしていると言えばいいだろうか。そして、この予想が正しいかどうかは、実際に著者が表現したかった対象を把握したとき、客観的に決まってくる。それは、対象を正確に把握すれば、著者の表現の間違いも分かってくるからだ。

さて、大江氏は、上の文章でどんな対象を表現したかったのか。それは「考えること」と表現されているものになるだろう。この内容が把握出来れば、表現の難解さがあろうとも、大江氏が語りたかったことが伝わる。逆に言えば、この内容がさっぱり頭に浮かんでこなかったら、この文章の理解に失敗する。

ここに図示することは出来ないが、本多さんは上の文章の修飾と被修飾の関係を図式化して分析している。それを頼りに考えてみると、大江氏が考えているのは、作家が持つ特殊性の克服というものであるように感じる。と言うことは、この「特殊性」の中身が分かれば、大江氏が「考えること」も分かるのだと思う。

その特殊性は、「外部から与えられたぬるま湯」と表現されているところを見ると、現実経験としては厳しさの中にないにもかかわらず、その厳しさをリアリティーを持って表現しなければならないと言う、芸術的な要請に応えうるかということが、「特殊性の克服」と言うことになるのだろうか。

確かに現代の人気作家は、金も名声も地位もあり、作家が描く主人公が持つ純真さなど現実にはかけらもないと言うことがあるだろう。ジャック・ニコルソン主演の「恋愛小説家」という映画では、現実にはまったく恋愛経験のない、恋愛小説の人気作家が登場していた。これは、映画作家の皮肉なのだろうが、でっち上げのフィクションの方が物語としては面白いという芸術のパラドックスを語っているものかも知れない。

「いかなる特恵的な条件もなしに」、つまり他人より恵まれた生活をすることなく、本当の意味で自立しうるかということを考えることなしに、この「特殊性の克服」は出来ないのではないか、と言うことを大江氏は考えているのではないか、と想像出来る。

大江氏がこのように考えているなら、僕はその考えを理解出来る。論理的な整合性を感じるからだ。フィクションを表現するとき、現実の経験が無くても、それはちゃんとリアリティを持ちうるか、と言うことは作家にとって大きな問題ではないかと思う。無邪気に肯定してしまう人もいるかも知れないが、それに悩む人もいるのではないか。このようなことを考えるという点では、大江氏は誠実な人ではないかとも感じる。

大江氏が考えている対象がこのようなものであると一致すれば、僕には大江氏が語ることが理解出来る。しかし、そうでなければ僕は大江氏が語るこの文章はまったく理解出来ないものになる。いくら文法的に理解出来ても、内容はまったく分からないと言う文章になってしまう。

僕が若いころ浅田彰氏の『構造と力』という本がベストセラーになった。このような難解な本が売れると言うことが信じられなかったのだが、いったい何人の人がこの本を理解しているのだろうかというのが僕には不思議だった。僕には、この本はさっぱり分からなかった。浅田氏が対象にしているものがどんなものなのかまったく分からなかった。

この本の影響もあるのかも知れないが、僕は構造主義を始めとする現代フランス哲学が、いったい何を言いたいのかが分からなかった。その対象が全然頭に浮かんでこないのだ。だから、三浦つとむさんが語る、分かりやすい構造主義批判で、構造主義全体を判断してしまったところがあった。構造主義は、全くの妄想に過ぎないもので、ほとんど詭弁と呼んでもいいものだと感じていたのだ。

その構造主義が、内田樹さんの『寝ながら学べる構造主義』の中では、ちゃんと理解出来る対象として説明されていた。これなら論理的に整合性を持って受け取れると思った。

三浦さんが批判していた妄想的な構造主義では、人間を支配している無意識の考え方というものが、「構造」という形であらかじめ、現実とは関係なく論証抜きにそこにあるものとして君臨していたが、内田さんの説明では、ちゃんと「構造」の分析のあとにそのようなものの存在が語られていた。まずは現実があって、その反映としての分析があり、直接目に見えない「構造」の存在が、論理によって捉えられるという説明の仕方がされていた。

三浦さんの批判では、「作者の死」というものが、神懸かり的に前提とされていることが妄想として批判されていたが、内田さんの説明なら、「作者の死」と言うことも、歴史的にそのような概念が作られてきたと言うことが分かる。それは、文字通り作者が死んだと言うことではなく、「作者」という言葉で表現されていた対象が、もはや意味をなさなくなったと言うことだと理解出来るからだ。

難解な文章を理解すると言うことは、数学の計算において、アルゴリズム(手順)を理解することと、計算の仕組み(10進法の構造など)を理解することとの違いが分かることに相当するのではないかとも感じる。筆算のアルゴリズムが分かると、一応四則計算をして答を出すことが出来る。文章を読むときに、一応文法的なことが分かれば、辞書的な意味を読みとることが出来ると言うことにこれは相当するような感じがする。

しかし、アルゴリズムが分かるだけでは、その計算を現実に応用することは出来ない。四則計算の構造が分からないと、どのようなときにどの計算をしたらよいかという判断が出来ない。問題文に「加える」とか、「無くなる」という言葉が入っていることから辞書的に解釈していると、ちょっと難しい問題にはもう対応出来なくなる。

それは、問題が扱っている対象が正確に頭の中に浮かんでいないからだ。それでも数学的な対象の場合は、解釈の余地を余り残さずに、ほとんど確定的に解釈が絞れるので、その発想になれてくれば理解が進んでいく。だんだんと難しくなってくる数学は、文法的な意味の理解も難しくなってくるが、それを助けるのが記号論理の技術だと僕は感じていた。かなり難解な数学でも、記号論理の助けを借りると、そこで語られている対象の性格を把握することが出来る。そうなれば、単に手順を覚えているのではなく、数学の内容を理解したと言えるのだと僕は感じていた。

数学以外の普通の文章の表現に関しては、記号論理以外のさまざまの論理学が役に立つ技術になるだろうと思っている。それは、論理というのは、究極的には現実存在の存在のあり方を整合的に表現する技術となっているからだ。

形式論理は、現実存在のあり方を抽象し、対象を現実存在から引き離した論理だが、現実存在にまだ密着している弁証法論理では、そのあり方に忠実に、視点を変えたときに矛盾(対立)を発見出来るという論理になっている。だから、現実存在に対して、それを対象としてその属性などを認識して表現した文章を理解するには、弁証法的な発想が役に立つ。

対象をさまざまな角度から見る視点を考えて、表現者が、どの視点から対象を見ているかと言うことが分かると、かなりの難解な文章でも整合的に理解することが出来るようになる。このときに、対象のとらえ方がものすごく深いものになっていれば、同じくらい深い視点を持っていなければその表現を本当に理解することが出来なくなる。本当に優れた文章はそういうものになるだろうから、それが優れた一流の言説であるかどうかと言う嗅覚は大事なものであると思う。

一流のものだと思えば、何回も読み返して、そこで語られている対象を本当に理解したいという動機も生まれてくる。僕にとって宮台真司氏の文章はそういうものになるだろうか。マルクスエンゲルスの文章もそのようなものだと思う。

逆に言うと、いくら考えても浅はかな対象しか見えてこない文章は、やはり二流の文章だと思う。今図書館で『「知」の欺瞞』という本を借りて読み始めているのだが、ここではラカンの数学の記述が批判されている。僕も、ラカンが語ることが、数学的にはさっぱり頭の中に浮かんでこないのを感じる。だから、この著書で批判されているとおり、ラカンの数学の記述に関しては、その対象が数学ではないということなのだろうと思う。

しかし、対象が数学ではなくても、何か現実存在に対して、その深い意味を把握して語っているという可能性は残る。ラカンを評価している人は、そのような読み方をしているようだ。ラカンが、現実のどのような対象に対して、本当は何を語っているのかを、ラカンの文章やその解説から考えてみたいと思う。その対象が整合的に理解出来るものなら、ラカンが語っていることは戯言ではないと思う。そして、それが深い真理であれば、難解であるにもかかわらずラカンは一流なのだと分かるだろう。それが、ただ難解であると言うだけでは一流という判断は出来ないが、難解であるにもかかわらず、整合的に理解する道が見つかれば、一流かどうかの判断も出来るようになるだろう。