ラカンの言説の一流性 4

内田樹さんは『他者と死者』の中で、「師」の必要性を説く。学ぶという行為が本当に実りあるものになるためには、学習者は、その師を見つけなければならないということだ。内田さんは、『先生はえらい』という本も書いているが、これの本当の趣旨は、「先生」を「師」にするには、「えらい」という感覚が必要だというものではないかと思う。

「師」というのは、結果的に相手が偉いと言うことが分かって「師」になるのではなく、かなり直感的に選ばれるもののようだ。自分自身を振り返ってみても、三浦つとむさんを「師」と選んだのはかなり直感的なものだった。三浦さんの『弁証法・いかに学ぶべきか』という本を手にしたとき、その1ページ目を読んだ瞬間に僕は「師」と出会ったという感覚を持った。

学校の先生を「師」と感じることの出来ない今の子供たちは、学習において実に不幸だと思う。それでも、どこかに「師」と仰ぐことの出来る人を見つけられればいいが、そのような人物に出会わなければ、一生学ぶということの本質を知らずに過ごしてしまうのではないだろうか。

内田さんは、

「師は、何事か有用な知見を弟子に教えるのではない。そうではなくて、弟子の「内部」には存在しない知が、「外部」には存在するという知を伝えるのである。「師」とは何よりもまず「知のありかについての知」を弟子に伝える機能なのである。」

と語っている。僕も、三浦さんから学んだことは、弁証法の知識ではなく、弁証法的に考えるとはどういうことかという頭の働かせ方を学んだような気がする。単に知っていることが大事なのではなく、その知が自分の中で働くことが大事なことだと思う。弁証法も言葉で覚えるのではなく、現実の対象を見たときに、「師」である三浦さんなら、このような分析をするであろうという分析が出来ることが、「師」から学ぶということなのだと思う。

内田さんのこのような説明は実によく納得出来、大いに賛成する主張だが、同じことをラカンも語っているという。だから、内田さんに同意するように、このような理解が出来るならラカンにも同意する。ラカンは次のように語っているようだ。

「教えるというのは非常に問題の多いことで、私は今教卓のこちら側に立っていますが、この場所に連れてこられると、少なくとも見かけ上は、誰でも一応それなりの役割は果たせます。(…)無知ゆえに不的確である教授はいたためしがありません。人は知っている者の立場に立たされている間は常に十分に知っているのです。誰かが教える者としての立場に立つ限り、その人が役に立たないということは決してありません。」

重要なことは立場を作ることにある。それに失敗すると、相当の知識と能力を持っている教員でもなかなかいい教育は出来ない。しかし、立場さえ的確に設定されていれば、普通の教員でも教える者として十分通用する。もちろんとんでもなくひどいのは、どんなに立場があってもダメだろうとは思うが、少なくとも普通程度であれば、立場さえ確保すれば並以上の仕事が出来る。これは夜間中学にいるとかなり実感する。

しかし、それにしても上のラカンの文章は少しも難解ではない。むしろ分かりやすいとさえ言える。これは、内田さんという「師」に従って学んでいるからだろうか。少なくとも、理解可能なラカンは、常に正しいことを語っているように僕には感じられる。次の言葉もそう感じるものだ。

「自信の問いに答を出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答を見出すまさにその時に答を与えます。」

この言葉も実感としてよく分かる。僕は、三浦さんに直接教えてもらった弟子ではないが、僕が自分の問題の答を見出したと思ったその瞬間に、三浦さんの弁証法の神髄が分かったと思えたものだ。それが、僕の「弟子が答を見出すまさにその時に答を与えます」というのを感じた瞬間だった。

「弟子は、しばしばその師が教えていないことをも学んでしまう」ということについて内田さんが語っていることも非常に面白い。これは、直接にはラカンの文章が引用されていないのだが、ラカンが同じように考えていたとしたら、これもやはり僕には理解可能だし、優れた言説だと感じるだろう。

内田さんは、この知に対して次のような問いを発している。

「師が教えず、弟子の内部に元々あったことを「想起」したのでもないとしたら、いったいその知はどのような経路をたどって「外部」から「私」に到来し得たのだろうか?」

これは、ラカンの文章で、「象徴界(le symbolique)が影響力を行使するこの場所の機能が想像界(l'imaginaire)のどのような経路を通って、人間という生体のもっとも奥深いところでその力を発揮するようになるのか」ということと関係があるような気もする。

内田さんは、この経路を突き止めるには「対話」というものを深く考えることが大事だと説明する。そして、「対話」というものを単純な情報の交換という表層で見るのではなく、そこに第三者としての「欲望」を見ることに注意を促す。ラカンが語る「欲望」こそが、師が教えること以上の知を弟子にもたらすと見ている。対話について内田さんは次のように語っている。

「対話を開始するときに、私は「あなたが何を知らず、何を知りたがっているか」を知らないし、あなたは「私が何を知らず、何を知りたがっているか」を知らない。しかし、そんなことは対話の進行を少しも妨げない。なぜなら、対話は「あなたが語りつつあること」を「それこそ、私がまさに聞きたかったこと」であるというふうに体系的に「誤解」しながら進行するものだからである。そして、あなたがあるセンテンスを語り終えたその時に、私はあなたの口からそのセンテンスが語られる日を久しく待望していた私自身の欲望を発見するのである。」

これは、僕が考える「実りある対話」のイメージにぴったり来るものだ。まさに、僕はこのようなセンテンスが語られるのを「欲望」していた。ライブドアのブログに時々書き込みをしてくれるmechaさんは、その対話において、僕にいつもこのような実りある「欲望」を自覚させてくれる対話をしてくれる人だ。

逆に言うと、「何を知らず、何を知りたがっているか」がとてもよく予測出来る種類の対話もある。残念ながらこのような対話では、僕はまったく「欲望」を感じられない。だが、予測出来ないにもかかわらず、それが提出されたときに、久しく待っていたのだと感じられるセンテンスが確かにあるのを感じる。そして、その時に、本当に実りある対話が出来たと感じるものだ。

内田さんは、聞き手だけでなく、語り手にも「実りある対話」の効果があるのを語っている。語り手も、最初はそのようなことを語るつもりがなかったにもかかわらず、実は以前からこのことが言いたかったのだ、と思えるような言葉を口にしてしまう対話がある。

内田さんは、「このセンテンスを語ったのは、いったい誰なのだろう?」と問いかけている。「強いて言えば、それはあなたが「聞き手の欲望」と見なしたものの効果である」と語っている。

「聞き手の欲望」は、実体としてそこに見ることが出来ないので、意識することが難しいが、対話を通じて、何らかの経路をたどって「象徴界」まで到達しているのだろうか。そして、その力が「このことが言いたかったのだというセンテンス」をもたらしてくれたのだろうか。

内田さんは、この「欲望」を、「どこか別の所から到来したもの」と語っている。お互いの対話から生まれたには違いないのだが、それは自分の中から発したと言うよりも、対話によって呼び込まれたと言った方が感覚的にぴったり来るからだろう。

「欲望」の力を感じる対話こそが実りあるものだという発想はなかなかいいものだと思う。対話をするときに、自分だけが多く語りたがる人間がいるが、そういう人との対話では僕は「欲望」を感じない。何を語っていても、それは音が流れているだけのような感じになってしまう。適切なときに、適切な言葉が返ってくるような対話が出来るようになりたいものだ。そうすれば、実りある対話が増えていくだろうと思う。