「権利」について考える

死刑廃止論の考察においては、「人権」という概念が非常に重要なものとして出てきた。その時に「権利」というものについても少し考えてみたのだが、この言葉は、僕の職業柄「教育を受ける権利」というものとして具体的に関わってくる。

「人権」という言葉は、その「権利」を有する条件として「人間である」と言うことがあればいいものとして登場していた。「人間である」と言うことが証明されるなら、必ず「人権」というものが保障されるというのが人権の思想だ。SF的になるが、将来はロボットが人間であるかということが問題になるかも知れない。ロボットに人権があるかと言うことが論じられる時代が来るのは、SFの世界だけではなく現実になるかも知れない。

この「権利」という言葉を考える上で役に立つものとして、中山千夏さんは英語の「right」を考えることが有効なのではないかと提案していた。「right」には「正しい」という意味があり、権利の行使の正当性は、その権利が存在することの「正しさ」に根拠を置いていると考えるわけだ。

人間であれば、誰でも生きていたいと主張することは正しいと判断出来れば「生存権」というものが生まれてくる。何を思い・何を考えてもいいはずだと考えれば、思想・信条の自由が権利として生じてくる。これは、思ったり・考えたりするだけなら実質的な被害は起きないと言う判断から、その自由が存在することの正しさを帰結出来るからだと思う。また、実質的な被害が起きない限りにおいて表現の自由が存在するのも、権利として捉えることが出来る。この場合は、現実に被害が生じる場合もあるので、無制限の自由ではなくなるとは思うが。

ウィキペディアでも「権利」と言う項目に、似たようなことが書かれている。次のようなものだ。

「英語は別として、ヨーロッパにおいてはドイツ語の Recht、フランス語の droit、イタリア語の diritto など、法と権利は同一の言葉で表現されることが多く、区別する場合は「客観的」又は「主観的」という形容詞を付する。例えばドイツ語においては、objektives Recht は法の意味であるのに対し、subjektives Recht は権利の意味である。また、これらの語は正義をも意味し、法も権利も正義という観念が支えになっていることがうかがわれる。

これに対し、英語の right は正義の意味はあっても法 (law) の意味はない。これは、ノルマン朝時代のイングランドにおいて、専制的な王が臣民に課した law に対立する臣民の right という意味合いで right という語が用いられるようになったことに由来するとされている。もっとも、その後、権利の章典に至り、law と right の対立が法の支配として克服される。」

ここでは、「権利」として考えられている概念が、「正しい(正義)」ということのほかに、「法」の意味も併せ持っていることが語られている。これは、「権利」の主張が、その正しさに基礎をおいていて、しかも法によって主張が保障されるという関係にあるのだろうと思う。

さて、もう少し「権利」について抽象的に考察していこうと思う。ウィキペディアでは、

「権利の意味については様々な見解が唱えられているが、大まかに分類すると、伝統的には、法により保護された利益が権利であるとする見解(利益説)と、法により保障された意思又は意欲の力が権利であるとする見解(意思説)との対立がある。」

と書かれていて、どちらの考えにも整合性を取れない場合が存在することが指摘されている。次のような場合だ。

「金銭の借主が経済的に困窮している例にすると、このような場合にも貸主には借金を返してもらう権利はあるとされるが、そのことによる具体的な利益があるとは言い難い」

「意思・意欲を期待することができない乳幼児は権利の主体になることはできないのかという問題を抱える」

どちらか一方が正しいと考えると、それに反する場合との整合性を取れなくなると言うことは、この対象が弁証法性を持っていると言うことだ。だから、この対象を正しく捉えるには、どちらか一方の見解が正しいと結論するのではなく、一方の見解はどのような条件の時に正しくなるかという条件を吟味すると言うことが必要になるだろう。それが弁証法性を正しく捉えた考察になると思う。

「権利」の問題は「義務」というものとも深い関わりを持つ。分かりやすい両者の関係は、それが二つの存在に分け持たれている場合だ。「教育を受ける権利」を持った個人がいた場合、その教育を受ける権利に関わる事柄でいろいろと保障されなければならないものがある。例えば学校を作ったり、学校でかかる費用の負担を背負ったりすることが必要になることがある。

これらは、「教育を受ける権利」を保障する「義務」がどこかに存在することを意味する。それは、近代国家の場合は、国家が国民の教育を保障する義務を背負うと言うことになるだろう。学校のない地域に学校が必要なら、それを設置する義務を負うだろうし、経済的負担を背負えない個人に対しては、それを援助する義務を国家が負うことになる。

「権利」と「義務」という対立した概念を背負う主体が二つある場合は、これは対立していても矛盾にはならない。それを背負うことに「正しさ」があるなら、それは「権利」として確立されるだろう。難しいのは、「権利」と「義務」の主体が同一の存在である場合だ。その時は、対立を背負う矛盾がそこに存在する。この弁証法性はどのように考えたらいいだろうか。

これは俗論としてよく聞こえてくる、「権利ばかり主張して義務を果たさない人間には、権利そのものを与える必要はない」というような考え方とも関係してくるだろう。この考え方は、基本的な部分で間違っていると僕は思うのだが、すっきりと論理的に解決出来ないでいる。

具体的に僕自身に関わってくる問題としては、学校というものを自分の都合に従って利用するだけで、学校における活動に対して協力する姿勢をあまり見せない人たちに対してどう接するかと言うことがある。このような人たちは、権利の行使はしているけれど、義務を果たしていないように見えるので問題が難しくなる。

夜間中学と言うところは、その特殊性から、日本語の出来ない外国人に対して<日本語学級>というものが設置されている。夜間中学は、本来は<中学校>であるから、基本的には中学校課程の教育を保障するところだ。しかし、日本語がまったく出来ない人は、その中学校課程の学習を学ぶために日本語の教育が必要になってくる。

だから、本来の目的である中学校課程の教育をする一つの手段として日本語教育が存在しているというのが、夜間中学校の本来のあり方だ。しかし、すでに働いている大人の生徒にとっては、日本の中学校課程の教育は、それほど日常生活で役に立つものではない。そうなると、日本語の学習は一生懸命やるが、中学校課程の学習には気持ちが向かないと言うことが起きてくる。

これは本末転倒なことであり、そのような要求の生徒であれば、本来は日本語だけを教える教育機関へ行くべきだと僕も思う。しかし、日本には残念ながら、そのような要求を持つ人たちにふさわしい日本語教育機関がないので、多少の妥協をしながらも夜間中学校へ通う外国人は多い。

我々夜間中学に勤める教員は、社会生活を営む人には誰にでも「教育を受ける権利」があるという前提で仕事をしている。ある意味では、日本で生活しているという条件さえあれば「教育を受ける権利」があると考えている。それが、中学校教育であると言うことは、また別の条件、例えば中学校課程を卒業していないと言うようなものがあるが、それをクリアしていれば「権利」としては存在していると考える。

だが、生徒の方の姿勢が、日本語教育だけを要求していて、中学校課程の学習には見向きもしないと言うことがあると、その権利の行使に疑問を差し挟みたい気持ちになってくる。権利を認めながらも、権利を否定したくなると言う矛盾をどう処理したらいいかは、夜間中学で仕事をする教員にとっては現実的に深刻な問題だ。

この問題の本質的解決は、日本語教育だけを求める人々に本当にふさわしい教育機関が出来ることだったり、中学校課程の学習が、日本での生活をする上で本当に役に立つものに変わっていくことだと思う。しかし、この両方の解決はすぐに出来るものではない。現実には、今あるリソースの中で解決を図るしかない。

権利の存在が、その正当性から得られるものであるなら、夜間中学校にやってくる日本語教育を求める人々には、同時に中学校課程の学習も一生懸命やるという義務を持っているということが正しいかどうかを考えてみたいと思う。彼らの権利行使には、一生懸命やるという義務はないのかということも考えてみたい。彼らの出来る範囲でそれに応じればいいと言うことになるだろうか。

これは、どちらが正しいか今の僕には結論が出せない。ただ、日本語教育と関係なく、普通の青少年の中学校教育を考えると、現在の中学校課程の学習を「一生懸命やる義務」というのは、それはないのではないかと思える。「一生懸命やってもいい」し、「一生懸命やらなくてもいい」という、どちらも許されるのではないだろうか。「一生懸命やらなければならない」という義務はないように感じる。

これは、一昔前なら、一生懸命やることが当たり前で、ほとんど義務のように捉えられていたかも知れないが、中学校課程の学習そのものの価値に疑問が提出される時代になってから、そのような義務感はなくなってしまったのではないかと思われる。役に立つことだと思えるものなら、人間は、人から言われなくても一生懸命やるものだ。かつては、学校での学習はそのようなものとして捉えられていたのではないかと思う。

今では、もはや学校での学習をそのように捉える子どもは少ないのではないだろうか。だから、いくら道徳教育を強化しても効果はないのだと思う。今の日本の状況では、一生懸命勉強することが義務だとはもはや言えなくなってきている。だから、問題の解決は、やはり中学校課程の教育を、本当の意味で役に立つものに変えなくてはならないのだろうと思う。それまでは、一生懸命やらないという態度が見えても、何とか人間的な信頼関係でそれを補って妥協していくしかないのかな、というのが今の僕の思いだ。一生懸命さがなくても仕方がない、教育を受ける権利は否定してはいけない、というのが今の僕の考えだろうか。

権利と義務の問題は、道徳で解決出来る問題ではなく、ある種の妥協をしながら理想を実現していく過程を探らなければならないのだろうなと思う。