しごきの有効性について

ちょっと前に戸塚ヨットスクール事件で服役していた戸塚宏氏が刑期を終えて出てきたというニュースがあった。そして、その後にアイ・メンタルスクール(NPO法人)事件というものが起きて、これも何か戸塚ヨットスクール事件に似たような印象を人々に持たせたようだ。

両方の事件に共通しているのは、引きこもりや家庭内暴力といった問題を抱えた青年を教育するという目的を持っていたことだ。これらの問題には、残念ながら有効な解決手段がなく、当事者として困り果てていた親にとっては、戸塚氏などが救世主のように見えていたというのも共通している。

これらの教育が、一定の効果を持つ場合もあっただけに、その評価というものが難しい面を持っている。戸塚氏の持論である「体罰も教育だ」というものは、東京都知事石原慎太郎氏でさえも支持しているというのを聞いたことがある。アイ・メンタルスクール(NPO法人)で、同じような事件が起こってしまったというのは、未だにこのような問題には有効な解決法がなく、少々乱暴であっても有効性を持っている方法に頼ってしまうと言うことになってしまうのだろうかという残念な思いが残る。

戸塚ヨットスクールやアイ・メンタルスクール(NPO法人)で行われていた行為は「しごき」という言葉で表現することが出来る。そして、「しごき」は一定の効果があることは、スポーツにおける指導で証明されている。しかし、それが批判されていることも確かだ。その批判が、本質を突いたものになっていないために、「しごき」はなかなかなくならない。そして、結果的に効果があったということで「しごき」に手を出す指導者は後を絶たない。

「しごき」は、その本質を分かっていない指導者には、常に行き過ぎる危険性をはらんでいる。成長・発達を促す「しごき」ではなく、精神・身体を破壊する「しごき」になりかねない。「しごき」の本当の有効性を発揮させるためには、指導者に確かな目がなければならないのだが、安易に表面的な効果に目を奪われていると、その行き過ぎを見過ごしてしまう。

この「しごき」について見事な論理展開をしていたのは、『武道の理論』(三一新書)を書いた南郷継正さんだった。南郷さんは、この本の193ページから198ページまでにかけて、実に見事な「しごき」論を展開している。「しごき」の有効性を認めながらもその欠点を指摘し、どのような場合に「しごき」が、見事な教育法から単なる暴力に堕落するかを論じている。まずは有効性の方からその指摘を見てみよう。

「武道とかスポーツとかに否応なしについて回る「しごき」なるものは、本質的な意味においては絶対的に必要なものであり、非常に大事なことなのである。何故かならば、体力の限界状況において、その状態に打ち勝つ精神というものは、放っておいて出来上がるということは、ほとんどあり得ないと言ってよい。特に、実力の接近した戦いほど、強烈な精神を持つものの方が有利になってっくるものであれば尚更のことである。
 これらの精神というものは、それらが必要であると自覚しているだけでは駄目なのであって、技と同じように自ら創り上げなければならないものなのである。」

「しごき」というのは、極限状況を作り上げる鍛錬において必要なものであるという指摘はまったく正当なもののように感じる。練習においては名選手であっても、いざ試合になると実力を発揮出来ないものは、この極限状況において平常心を保つことが出来ないことが多いだろうと思う。その克服のためには、「しごき」は有効性を発揮するだろうことは予想出来る。

練習の時に試合と同じような極限状況を経験するには、「しごき」という手段は有効性を持っているだろう。これは学問においては三浦つとむさんが「真剣勝負」と語ったような、失敗するかも知れない難しい問題に果敢に取り組むというような、失敗を恐れない気持ちに通じるものかも知れない。安全な答があることがはっきりしている問題を解くのではなく、答があるかどうかも分からない問題に取り組んで、学者生命をかけて問題に取り組むことを三浦さんは「真剣勝負」と呼んでいたようだ。

この「しごき」が有効であるには一定の条件が必要だ。すべての場合に「しごき」が役に立つというわけではない。その一つの条件は、上にも書かれているように、「しごき」を受ける人間がその必要性を自覚して、自らの技を創り上げるためにそれを受け入れるという意志を持っていることだ。この条件がないと、次のようになってしまうと南郷さんは指摘する。

「しかしながら、自己の目的とするものに疑問を感じ始めると、それに積極的に耐え抜こうとする心がなくなる結果、当たり前の「しごき」にも耐えきれなくなって、体よりも心が先に参ってしまい、結果的に死亡するという事態を招きやすくなることになりかねない。この場合、指導者が、耐え抜こうとする意志のあるものと、逃げ出そうとする心を持っているものとの区別を見抜くことが出来ないと、前者の場合成功した「しごき」が、後者の場合は失敗して、世論の糾弾に遇うということにもなるのである。」

二つの事件における「しごき」は、しごかれる本人の意志によってそれに耐えようとしていたのではない。無理やり耐えさせようとしていたものだ。まず「しごき」の有効性の一つの条件がまったく考慮されていない状況での「しごき」だったと考えられる。このような状況だったから、意志の違いによる区別という発想もおそらくなかっただろうと思う。

この区別がない発想だとどういうことになるか。大部分の体育会系の「しごき」がそうなると思うが、逃げ出そうとする人間は根性がないという受け取り方をするだろうと思う。これは、根性がないという判断が正しいかも知れないが、根性がないということは、「しごき」に耐える意志を持たないことであるから、その時点で「しごき」をやめなければならない。ところが、根性がないことは駄目であるという発想があると、さらに「しごき」を強める傾向が、日本的な精神主義には存在する。

これが、「しごき」による死亡事故を招くだろうことは容易に想像出来る。アメリカの映画などでも、スポーツや軍隊の鍛錬の場面では、「しごき」によく似た場面が出てくる。しかし、指導者が感情的に根性を鍛えようとすることはない。相手が「しごき」に耐えうるかどうかが判断出来ない指導者は、指導者としての能力が低いと判断されるからだ。

日本の場合は、指導者の能力が低いという判断ではなく、指導される側の根性がないということが欠点とされることが問題だと僕は思う。死ぬまでしごいてしまう指導者は、その指導能力の低さを問題にすべきだろうと思う。「しごき」を有効に使うには、指導者の側に確かな目がなければならないのだが、幸か不幸か指導される側に根性があったりすると、間違った「しごき」でも一定の有効性を持つから、「しごき」に対する信仰はなかなかなくならない。次の南郷さんの指摘も見事なものだと思う。

「先に、技は、その技を創る段階と、その技を使用する段階とに分けて考えねばならなうことを説いたが、この区別が出来ない人間にとっては、「しごき」がとても重宝に思われてくるものである。何故かというに、技は、いかにお粗末であっても、そのお粗末な技の限界ギリギリまでは、その技の使い方を巧みにすれば、まともな技を持っていながら、未だそのまともな技の使い方のお粗末なものよりも強さを発揮出来るものなのだからである。これが「ヤクザ剣法」が、甘っちょろい「道場剣法」より強い理由なのであるが、そればかりでなく、よりまともな技であればあるほど、その技を創ることも難しく、またその技の使用法に慣れることも難しいものである。」

「しごき」によって鍛えたものは、表面的には、他のものよりもよくなったように見える。しかも、本質的に本物を身につけるのはたいへん難しいから、他の方法ではいくら努力しても成長・発達しなかったものが、少しでもよくなるように見えれば、それに飛びついてしまいたくなってくる。南郷さんは、この本の冒頭で、

「しかし、明日の糧に困っている人々に、だから我々は飯に困らない社会を目指すのだとの原則論しか提示出来ないのでは指導者欠格であり、少なくとも人間的な指導者ではない。」

と語っている。「代替案」のブログを運営している関さんのように、有効な代替案を提出することが指導者の責任でもあるだろう。「しごき」に代わる具体的で有効な代替案がなければ、「しごき」に流れる人々の心情を変えることは出来ない。だが、これは非常に難しい。

このときに、代替案がないうちは、「しごき」にはわずかでも有効性があるのだから、その有効性を求めるのは仕方がないと考えるのか、あくまでもその害を重視して、たとえ代替案がなくても批判することが正しいのかは意見が分かれるところではないだろうか。「しごき」批判に対する反批判として、「それじゃ、何をすればいいのか具体的に語ってみろ」というのがあると思う。これは、ある意味では正しいと思うが、「だからしごきもやむを得ないのだ」と「しごき」を肯定する論理展開に向かうと、僕は間違いではないかと思う。

代替案がなくとも、間違った「しごき」は否定しなければならない。有効な「しごき」があることをもって、「しごき」一般を肯定してしまうのは論理的な誤りだ。その肯定に対してはやはり批判することが正しいと思う。代替案がなければ批判することも許されないとするのは論理的な間違いだろう。

本質的に難しい問題には、そう簡単に代替案が見つかるはずがない。だから、そういうものに対しては、確かに間違っていると考えられるものは厳しく批判すべきだと思う。戸塚ヨットスクールに対しても、死ぬまでしごくというやり方は絶対に批判されなければならない。

南郷さんは、本書の冒頭で

「肉体も精神も、単にもまれただけでは鍛えられないのである。苦しい思いをしただけで鍛えられるものであるならば、満員電車はさぞかし立派な鍛錬の場となっていることだろう。そこに欠けているものは積極的な働きかけ、つまり意志がないのである。」

とも指摘している。この当たり前の感覚を持っていれば、意志を無視した「しごき」が間違っているということは判断出来るだろう。その間違いは、代替案の有無にかかわらず批判をしなければならないと思う。

南郷さんは、「あらゆる方法が絶望的であるときは、最悪の方法が最良の方法である」という言葉を引いて、「どうやって上達させるものかを論理的に知らない人々にとっては、この最悪であるはずの「しごき」が最良の方法」となるとも指摘している。「「しごく」ほど楽なことはないからである。何しろ頭を使わなくてもいいのだ」と、まことに鋭い指摘もしている。

間違った「しごき」を駆逐するには、正しい上達法が見つけられなければならない。それは、今では各方面で見つけられている。水泳の訓練法などは、ほとんど誰でもうまくなるように教えられるらしい。それは少しも「しごき」を使わなくても一定の水準に達するらしい。だから、最高の水準に達するためには、それなりの自覚をした人間だけに「しごき」をすればいいようになっているようだ。

間違った「しごき」を駆逐するには、正しい上達法を積み上げていく努力をしなければならないが、それが難しいところではまだ間違った「しごき」が残り続けるだろう。それは、その間違いを批判することによって今のところは排除することが必要だと思う。少なくとも、死なせてしまうような事故を起こす人間に、「体罰も教育だ」というような間違った発言を許してはいけないと思う。