フェミニズムの主流派はどこにいるのか

極論としてのフェミニズム批判をしたところ、いくつかのトラックバックをもらったが、僕がよく訪れる瀬戸智子さんのブログを除いては、それが過剰反応としか思えないトラックバックだったので少々驚いている。過剰反応は、いわゆる「ネットウヨ」と呼ばれる集団の特性かと思っていたのだが、フェミニズムを論じる人間にもそのような過剰反応があるようだ。この反応で、僕はフェミニズムというものにますますうさんくささを感じるようになった。過剰反応というのは、容易に反対の極に振れる可能性があるからだ。

もし自分の主張がまともなフェミニズムだと思うのなら、僕の批判などは、極論としてのフェミニズムを批判したものなのだから、それと自分とは違うと言ってしまえばそれですむのではないかと思う。それをどうして、極論の批判に対してまで、フェミニズム一般への批判だと受け取るのだろうか。自分の理論の中に、僕の批判に相当するものが入っていたのだろうか。

僕が師と仰ぐ三浦つとむさんはマルクス主義者だった。今ではマルクス主義は完全に死んだと言ってもいい状態になっている。ソビエトの崩壊によって、マルクス主義を基礎としていた国家がその理論の誤りを証明したからだ。マルクス主義ソビエトが崩壊する前から様々な人に批判されていた。反共的な極端なものから、三浦つとむさんのように同じ陣営からの批判もあった。異なる立場からの真っ当な批判としては、ソビエトの崩壊を予見していた小室直樹氏がいるそうだ。

反対の極の反共主義からの批判は、かなり間違いも多く、批判そのものも甘いものが多い。僕は三浦さんのように完全にマルクス主義者だとは自己規定出来なかったが、マルクスエンゲルスが語ることは正しいと感じていた。しかし、現実の主流派のマルクス主義が批判されても痛くも痒くもなかった。僕は三浦さんを通じて主流である「官許マルクス主義」は間違いだと思っていたからだ。

だから、そんなものはいくら批判されても、自分は違うと思っていればよかったし、むしろ批判が甘いんじゃないかと思っていたくらいだ。だから、僕が極論としてのフェミニズムを批判したとしても、まともなフェミニズム論者だったら、そんなものは自分とは違うと思うだろうと思ったし、むしろ僕の批判が甘いという指摘が来るのではないかと思っていた。

それがどういうわけか、論理的な指摘ではなく、的はずれな少々感情的な反批判になっていたので、僕が批判するマトモでないフェミニズムフェミニズムの主流なのかと疑ってしまう。

「官許マルクス主義」はマルクス主義の主流派だった。三浦さんのようなマルクス主義は、全くの少数派であり非主流派だった。これは、それを信奉している人間が、圧倒的に「官許マルクス主義」の方に多かったと言うことが、当時それが主流だったということの判断の根拠だ。そして、間違った理論である「官許マルクス主義」が主流だったことが、後の社会主義国家の崩壊を招き、マルクス主義という理論が完全に死んでしまう原因となった。

当時「官許マルクス主義」に反対する人々の中で、それは「真のマルクス主義」ではないから、自分たちの正しいマルクス主義はまだ死んではいないと主張する人もいた。しかし、これは多くの人の賛同を得られなかった。主流であったマルクス主義が死んだとき、やはりマルクス主義そのものは死んだのだと僕は思う。

僕はマルクス主義は死んで良かったと思っている。「官許マルクス主義」という間違った理論を信奉していた人々は、能力が低いために間違えた人々ではないからだ。彼らは、少なくとも社会主義の体制の中では最高の能力を備えた人々だった。能力という点では、資本主義国家の人たちと遜色はなかっただろう。

しかし、彼らが最後まで間違いから抜け出せなかったのは、内田さんが語る「構造的無知」にとらわれていたからだろうと思う。僕は、この「構造的無知」を支えたのは「善意」だったと思っている。まさに「地獄への道は善意によって敷き詰められて」いたのだ。論理的判断よりも善意による判断の方が優位に立ってしまったことが「構造的無知」の原因だと思う。

マルクス主義を揶揄する小話としてこのようなものがあるそうだ。ある時、大部の地域の歴史を編纂するという難しい仕事が課されたという。例えば1000ページほどの地域史を作るとき、マルクス主義的な考え方で、1000人の労働者が1ページずつ担当して、みんなが力を合わせればすぐに出来るという結論が出てくる。これはまったくばかげた発想なのだが、その1000人の労働者の善意は確かなものだ。その善意を疑う人間は、人民の力を信じない反動的なブルジョア思想の持ち主ということにされてしまう。

この小話がばかげた内容を含んでいると言うことは、仕事というのは、機械的に振り分けたからと言って成功するものではないということが論理的に理解出来る人にはすぐ分かるだろう。しかし、労働者は力を合わせれば何でも出来るという善意が一番大事なものになってしまうと、そのような論理的な理解は排除される。

機械的に振り分けた仕事が、いかに仕事の能率を下げ、社会主義国家の国力を衰えさせたかは、崩壊後によく分かった事実だ。難しい複雑な仕事であればあるほど、その仕事をマネージする優れた指導者が必要になる。資本主義社会であればごく当たり前のことが、社会主義国家では間違った「官許マルクス主義」によって発想もされなかったのではないかと思う。

ばかげた発想というのは、頭がよければ避けられるというものではない。論理に優先する何かがあった場合は、その優先するものが邪魔をして「構造的無知」に陥るのである。フェミニズムが論理に優先してもっている何かというのを、僕は、すべてにおいて問題を「男性優位の社会構造から生じ、または家父長制が無意識に前提視されていることから生じている」と考えているところにあると感じている。これが、「すべて」ではなく、具体的な検討を経て、そうである場合とそうでない場合を区別していれば、そのようなフェミニズムは極論に流れることを避けられる。

さて的はずれの批判だと思われるトラックバックの中で、もっとも的はずれだと思うものに言及しておこう。「フェミニズムを知らなければ批判はできない」というエントリーでは、冒頭に次のように語られている。

「とりあえず、フェミニズムの歴史もなんにも知らないことが分かる文章だ。」

これに対しては、皮肉を込めて、「とりあえず、論理についての何たるかについて何にも知らないことが分かる文章だ。」と感想を言っておこう。論理というのは、対象を選ばない。相手にだけ適用出来るものではないのだ。それは自分にも返ってくることを知らなければならないだろう。

僕はフェミニズムのうさんくささを、一面を固定した視点で見るという形而上学的な論理が極論として出やすい所に見ていた。だから、それに対して論理的な反論をするのなら、フェミニズムには、そのような固定した視点は生じないのだという反論をする必要があるだろう。それが論理というものだ。それが納得いくものであれば、僕のうさんくささも解消されてフェミニズムに対する評価も変わってくると言うものだ。

しかし、それを「知らなければ批判はできない」などという紋切り型で語るなら、論理の何たるかを知らないだけだろうと思うだけだ。僕はフェミニズムの定義をしたのではない。歴史を語ったのでもない。論理的側面を語っただけだ。それに対して何を知らなければ批判出来ないというのだろうか。論理というのは、その展開の構造を見るものなのである。個別的な知識について何か言及するのではない。僕の論理展開について、知らなければならない知識がどういうものであるか何も語らずに、「知らなければ批判はできない」という言葉を対置するだけで批判したつもりになっているとすれば、論理を知らないのだろうと思うだけだ。

僕は、フェミニズムを語る人間は、もっと論理的に正当性のあることを語るべきだと思う。すべての根拠を男性優位の社会構造に還元すべきではないと思う。セクシャルハラスメントについても、どのようなときに不当な行為であるかという判断を、もっと論理的に正当性をもって論じるべきだと思う。

現状では、女性が訴えれば「セクハラ」になるという風潮になっている。しかし、同じように見える行為でも、それが不当なものと、偶然の事故のようなものとの違いがあるはずだ。あるいは女性の側の全くの誤解だってあるだろう。それを一緒くたにするとしたら、それは論理的に正しくないと僕は思う。機械的に表面的な事柄だけで判断をするから僕はそれをうさんくさいものと感じてしまう。

僕がウィキペディアで見つけた「ジェンダーフリーの実践例等」についても、あんなものはフェミニストは主張していないということが言われていた。それでは、フェミニストは、あそこで語られている事柄には何一つ賛成はしないのだろうか。フェミニストが、あそこに書かれていた事柄すべてに反対するのなら、フェミニストはそんなことを言わないということを僕も信じよう。

しかし、そうではなく、一つでも賛成するものがあったら、どのような根拠でそれに賛成するかを知りたいものだと思う。また、あそこで書かれていたものの反対のことが現実には行われている。それに対してフェミニストは何一つ反対はしないのだろうか。例えば、クラス名簿が男女別になっていることには反対しないのだろうか。どれ一つとして反対しないのだということであれば、あそこで提出されている事柄が、フェミニズムに通じているという解釈は撤回しよう。しかし本当のところはどうなのだろうか。

もし一つでも、現在行われている事柄に反対なら、その反対の根拠も聞いてみたいものだ。その根拠が論理的に真っ当なものであれば、フェミニズムも真っ当なものだと僕は思うだろう。しかし、フェミニズムが語られるとき、その主張の根拠が「男性優位の社会構造から生じ、または家父長制が無意識に前提視されていることから生じている」ということしか語られないなら、僕はフェミニズムをやはりうさんくさいものだと思う。どこかで正当な理由が語られているのだろうか。