フェミニズムのうさんくささ

弁証法の論理には「両極端は一致する」という法則がある。極端というのは、一般論的に考えると、現実に存在する物事をある一面からしか見ないということになる。本来なら多様な面を持っていて、多様だからこそ、視点を変えれば矛盾した結論も導かれてしまう現実存在を、一面からしか見ないのであるから、これは他面を無視した誤りに導かれる。

両極端からの主張というのは、それが誤りに導かれるという点で共通しているが、この誤りが論理的には一致する結論にまで到達するというのが、弁証法でいう「両極端は一致する」ということだ。これは面白い法則だと思う。極論を主張する人間は、それが極論であることによって、実は否定したい対象を肯定してしまうという誤りに陥ってしまう。

この極論による誤りは、視点を固定してしまう面があるので、形而上学的誤謬とも呼ばれている。これは、批判の出発点の正しさを持っている考察が陥りやすい誤謬なので、良心的な人々は十分注意しておかなければならないだろう。善意だけでは論理の正しさはもたらされない。その善意が確かなときは、論理的な誤謬があっても善意の正当性でそれが無視される場合もある。「地獄への道は善意によって敷き詰められている」という現象がその時に起こるだろう。

このような誤謬は、マルクス主義を主張するときにもよく現れたもので、三浦さんはそれを「官許マルクス主義」と呼んで批判していた。マルクス主義は、虐げられていた人々に対する善意の救済というものにあふれていた。しかし、それが善意であればあるほど、現状の否定が行き過ぎる極端に振れる恐れがある。それが「官許マルクス主義」と呼ばれる論理的誤謬につながったと僕は感じている。

フェミニズムというものも、現象として虐げられた女性・差別された存在としての女性というものから出発することによる極論の可能性をはらんでいる。その不当性を主張することは批判の出発点として正しい。しかし、不当性を否定することは正しくても、それが行き過ぎて、すべての現象が否定されるものであるかのように主張されると、これは極論としてのうさんくささが出てくる。

たとえ善意から出発したフェミニズムであろうとも、それが極論にまで達すれば論理的には間違えるというところに僕はうさんくささを見る。フェミニズム一般を否定するのではなく、極論としてのフェミニズムの批判を考察してみたいと思う。それは間違った論理であるにもかかわらず、現状に不満を持っている人には受け入れやすい論理になるだろう。そのようなメンタリティは、心情的には理解出来ても、誤った論理は結果的にはフェミニズムの信用を落とすことになる。極論としてのフェミニズムは、本来連帯出来るはずの男と女の連帯を破壊する。だから、これは批判する価値のある批判ではないかと思う。

「フェミニズム 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」には、フェミニズムに関する基本的な情報が書かれている。ここには、

「多くのフェミニストは、女性に関する様々な社会問題が、男性優位の社会構造から生じ、または家父長制が無意識に前提視されていることから生じていると主張している。また、女性間の差異を考慮に入れれば、例えば「黒人」「女性」というように、二重、三重に抑圧されていると捉えることができるため、フェミニズムを複合的な抑圧の集成理論として、また相互に影響する多くの解放運動の流れの一つとして捉えることもできる。」

というフェミニストの主張が書かれているが、これは基本的には正しいと僕も思う。しかし、これを極端にすれば容易に誤謬に陥る。「様々な社会問題」は、あくまでも「様々」なものであって、「すべて」ではない。しかし、これを「すべて」と考えれば、特称命題を全称命題にして取り違えるという論理的間違いに陥る。

現在主流となっているフェミニズムが、この極論の間違いに陥っていないかどうかは検討されるべき価値があると思う。「ジェンダーフリー 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」という項目は、「フェミニストのすべてがジェンダーフリー推進派ではなく、フェミニストではないジェンダーフリー支持者もいる」という但し書きがついているが、極論としてのフェミニズムが到達する可能性のある誤謬の例がいくつか挙げられている。それは、「ジェンダーフリーの実践例等」としてあげられている次のようなものだ。

  • クラス名簿を男女混合にする。
  • 男女の呼称を「さん」に統一する。
  • 「男女」の名詞を「女男」に変える。
  • スカートは最も「女らしい」服装なので、制服からスカートを廃止しようとした
  • 女子の体操着のブルマー廃止と同時に、男子の短パンも廃止し、男女兼用のハーフパンツとする。
  • 運動会の競技を男女混合にする。
  • ロッカーや下駄箱の男女別の禁止。
  • 小学校教科書の記述を「点検」。「男の子はズボンに女の子はスカートに髪かざり」、「おじいさんは反物売り、おばあさんは家で」、「およめに来て・・・・およめに行く」、「小さなお母さんになってお昼を作る」などの表現をジェンダーフリーに反するものとする。
  • 男女別学の公立高校を共学にする。
  • 高校入試の合格者数を、男女同数にするよう要求する。
  • 黒や赤などのランドセルの色を家庭が選択することを禁止し、「女男ともに黄色いランドセル」といった、統一色を要求する。

これは、差異があることを、その現象だけで不当な差別だと考える一面的な論理的誤りだ。差異が存在することに正当な理由のあるものも、視点を変えれば理解出来るはずだ。しかし、差異があるのは、すべて男性優位の思想の表現であるという極論を持っていると、差異があるだけでそれを否定してしまうという論理が生ずるだろうと思われる。

このような極論からの批判は、論理的正当性も伝統も無視したものになる。だから、他の視点を持っている人間からはそれが行き過ぎだと思われてうさんくさい目で見られるようになるだろう。このような極論に対しては、

石原慎太郎東京都知事は、都議会定例会において、「最近、教育の現場をはじめさまざまな場面で、男女の違いを無理やり無視するジェンダーフリー論が跋扈(ばっこ)している」、「男らしさ、女らしさを差別につながるものとして否定したり、ひな祭りやこいのぼりといった伝統文化まで拒否する極端でグロテスクな主張が見受けられる」、「男と女は同等であっても、同質ではあり得ない。男女の区別なくして、人としての規範はもとより、家庭、社会も成り立たないのは自明の理だ」と強調し、ジェンダーフリー教育を公人の立場で公式に批判した。」

と、ここに書かれているように、石原氏の批判が正当なものとして論理的には判断出来る。僕は、政治家としての石原氏には批判的だが、極論としてのジェンダーフリーに対するこの批判は正当だと思う。

内田樹さんも、行き過ぎたフェミニズムに対しては、その行き過ぎを的確に批判してきた人だ。「1999年12月21日の日記」では、「上野千鶴子の造語」と語る「アカデミック・ハラスメント」を「はた迷惑なことを思いつく」といって批判している。

これが行き過ぎだということは、何を基準にしてこれを判断するかが明確に出来ないことから結論している。「どう考えても「アカハラ」認定は恣意的であることをまぬかれない」と語っている。僕もそう思う。ある現象を「アカハラ」だと受け止める人がいれば、それは「アカハラ」だということになってしまいかねない。「セクハラ」の規定に似ているところがある。

しかし、内田さんが語るように、感情的にそう受け止めたくなる人がいても、視点を変えれば、

「しかし説教をかますのは教育的指導のためである。「よちよち、いいこでちゅね」と甘やかしているだけでは、ぜんぜん教育にならないことは誰にでも分かる。

ろくでもない論文を書いてきたら、こんなものでは学位はだせんと言うだろうし、仕事がほしいといってきても、人に教えるのは十年はやいと回し蹴りをくらわすこともあるやもしれない。

それを相手が女性だからだというので「アカハラ」といわれたのでは私の立つ瀬がない。」

という解釈も出来る。どちらが正しいかは、具体的な現象を具体的に分析してみなければ分からない。その具体性を飛ばして、一般論としての「アカハラ」の規定を押しつけるとしたら、これは極論としての誤謬だろう。現実存在というのは、一般論で切り捨てられるほど単純なものではないのである。理論と応用との違いを考えなければならない。内田さんは、最後で

「どのような愚劣な理説であれ、それを開陳する資格は誰にでもある。私はただ、自分のまわりに女性であることが「自分の研究が不当に低く評価されていること」の主要な理由だと主張する女性研究者がいたら「あ、すげー頭の悪いひとなんだ」と心の奥で思うだけである。」

と語っている。まったくその通りだと僕も思う。ただ、極論の誤謬に陥っている人は、自分の頭が悪いという論理的な帰結は受け入れがたいものになるだろう。受け入れがたい考えは、無意識のうちに無視されるという「構造的無知」に陥るに違いない。だから、このように語る内田さんは、極論が正しいと思い込んでいる人たちからは嫌われることになるだろう。しかし、内田さんの論理が正しいと受け止めている僕は、内田さんは率直にものを語る人なんだなという尊敬の念が生まれてくる。内田さんのこのような物言いに対して、感情的な反発ではなく、論理的な反駁が語られるなら、フェミニズムに対するうさんくささも少しは解消されると思う。