凶悪犯罪者に対する偏見

今週配信されているマル激には安田好弘弁護士がゲストで出ている。タイトルは「私が重大犯罪の被告を弁護しなければならない理由」となっている。これを聞いて思うことは、我々が凶悪犯罪の報道から、いかにしてその犯罪を犯した人間に対して極悪人という偏見を抱くかということだ。もう少し正確に言うと、犯人であるかどうかがまだ決定していない被疑者に対してでさえ、マスコミの報道から大きな憎しみを抱いてしまうという偏見が育っていく過程というものがもっとも心に残ったものだった。

安田弁護士は、山口県光市の事件の弁護を引き受けた際、上告審弁論に欠席したことが、裁判を遅らせる意図だったのではないかということでバッシングを浴びていた。ほとんどのマスコミのニュースがそうだったし、個人のブログでも非難する論調の文章が目立っていた。しかし、冷静になってこの事件を見れば、このような感情的な反応は偏見から生まれるものではないかと考えてみなければならないのではないだろうか。

安田弁護士によれば、この事件の鑑定書を詳しく見てみると、検察側が事件の描写をする際に意図的に凶悪性を増すような表現をしているところが見られるという。明らかに鑑定書が語る事実に反するような描写が見られるというのだ。それを具体的に書くのはためらいがあるが、例えば子どもを床にたたきつけたという描写が被告人の残虐性を示すものとして語られている。しかし、そのような行為をしたのなら、鑑定書にはその時の傷がはっきりと書かれていなければならないのに、そのようなことが書かれていないという。

もしたたきつけたということが間違いであるのなら、気が動転しておろおろしているうちに落としてしまったということも可能性として考えられる。これは被疑者に対してひいき目に見過ぎているかも知れないが、真理を確定するには、あらゆる可能性を検討しなければならないとしたら、可能性のあることは、もしかしたら無かったかも知れないが、あえて想定してみるという思考法が必要ではないかと思う。

安田弁護士の話に説得力を感じるからといって、それだけの理由で安田弁護士が正しいと主張するつもりはないが、検察の言い分や、それを代表するマスコミの報道の方を無批判に信じるのも間違いではないかと思う。どちらも可能性があるものとして、それが確信出来るまでは仮定の話として深い吟味が必要だという意識を持たなければならないのではないかと思う。それを凶悪性を肥大させて、被疑者があたかも凶悪な人間であるかのように思い込み、凶悪な人間が凶悪な犯罪を犯したのだと短絡的に理解するなら、これは一つの偏見になるのではないだろうか。

安田弁護士は、鑑定書と検察側の主張の食い違いを精査するには2週間では足りないと判断して、上告審弁論の延期を申し出たということだ。そして、それは普通によくあることで、今までは認められなかったということはなかったそうだ。それが認められなかったので、欠席せざるを得なかったというのが安田さんの説明だった。これは極めて説得力があるものだと僕は思った。

光市の事件は、その内容があまりにも衝撃的で、しかも被害者遺族がマスコミの前面に出てその憎しみを率直に語っていた。これに感情的に同化して、被害者遺族の憎しみにまったく同化して被疑者を見てしまうということが起こったように感じる。この事件を冷静に眺めることが出来る人が極めて少ないように思う。これは社会が一つの偏見にとらわれている状況だと思うのだが、このような偏見は判断の間違いをもたらす恐れがあるのではないかと思う。

しかし、この事件の場合は、被疑者が被害者を殺してしまったのは確かなことのようなので、その殺したという事実を客観的に受け止めるのはかなり難しいだろうということは感じることが出来る。安田さんが言っていたが、意図的に殺してやろうと思って殺す「殺人」と、殺すつもりはなかったのだが、間違いが積み重なって死に至らしめてしまった「傷害致死」のようなものとは、結果として被害者が亡くなったと言うことでも、その事実の解釈はまったく違ってくると言う。だが、このことを論理的に正しく受け止めるのは、法律の素人にはなかなか難しいだろうと思った。

結果的に死んでしまったのだから同じように責任を取れ、というのは暴論だと宮台氏は語っていたが、冷静さを欠いた人間にはそれがなかなか分からないだろう。偏見は冷静さを失わせる。暴論に陥らないためにも、偏見から逃れることが必要だ。そのメカニズムを正しく理解して、偏見から逃れる方法を確立することが誤謬論にとって重要になるだろう。

安田さんが語ったことでもう一つ印象的だったのは、俗に和歌山毒カレー事件と呼ばれている事件だ。この事件に関しては、確たる物証が無く、状況証拠だけから犯人らしいとされている林被告が死刑の判決を受けたことに僕も不当性を感じていた。しかしそれは、あくまでも確証がないのに、もっとも重い刑罰である死刑を宣告したことの不当性を感じていただけだった。林被告その人については、真犯人であるかどうかということは分からないという見方だった。もしかしたら犯人であるかも知れないという思いもあった。

しかし、安田さんの話を聞いていると、林被告が犯人だとした考えそのものが実は間違っているのではないかという気がしてきた。それこそ偏見によって作られた冤罪ではないかという気がしてきたのだ。もしこれが冤罪だとしたら、偏見は取り返しのつかない恐ろしい結果と結びついてしまうことになる。

林被告が、カレーの中にヒ素という毒を混ぜたと言うことが裁判では問われているのだが、なぜそのようなことをしたのかという動機は最後まで解明出来なかったらしい。動機は解明出来ないが、それは、林被告の激高しやすい性格から、感情的な行動としてこの事件が行われたのだと解釈されているらしい。

しかし、激高しやすい性格というのは、マスコミが作り上げた偏見に過ぎないのではないかというのを安田弁護士の話からは感じる。何もしていないのに、連日極悪人のようにマスコミには報道され、外にも出られないような監視の下に置かれたら、イライラが募って爆発しそうになるのはある意味では当然だ。これは激高しやすい性格ではなく、理由のある激高として理解出来る。マスコミが林被告を怒らせて、激高させておもしろおかしく報道しようとしただけではないかと僕は感じる。

安田さんによれば、林被告というのは、「漁師の娘さんで、肝っ玉母さんのような人」と言うことらしい。凶暴な性格を持った極悪人というイメージは、マスコミが煽ったものなのではないか。そのマスコミが煽ったイメージによって裁判が左右されるとしたら、これは極めて重大な間違いではないかと思う。

林被告とその夫とは、保険金詐欺の罪でも裁かれていた。マスコミの報道では、夫を殺して保険金をだまし取ろうとしたと言うことで、さらに林被告が極悪人であるというイメージを増大させることになったものだ。「毒婦」という偏見をあからさまに表現する言葉まで使われた。

しかし、これはまったく真相と違うと言うことだ。真相は次のようなことらしい。林被告がかなり多額の遺産相続をしたとき、その財産を夫が使い込んでしまったらしい。それを返すことが出来なかった夫は、それじゃ、保険金で何とか金を作ろうと考えて、自ら毒を飲んで保険金をだまし取ろうとしたらしい。

だから、保険金詐欺については夫婦の共犯と言うことで夫も裁かれていた。もし、夫を殺して保険金をだまし取ろうとしていたのなら、夫は被害者であり共犯者にはならないはずだ。この保険金詐欺については、夫も服役しているので、大筋では認めていたのだろうと思う。しかし、この犯罪については「毒婦」と呼ばれるような凶悪なものではないと思う。これはマスコミがあおり立てた偏見以外の何ものでもない。

真相というのは、それが本当にあったことであれば、たとえ表面的には不思議に思えても、よくよく考えてみれば納得出来るという解釈に落ち着くことが多い。林被告夫婦が保険金詐欺をしたということも、その背景をよくよく考えてみれば、それは失敗ではあるけれどもその失敗を犯した事情というものを理解出来る。

しかし、真相かどうか分からない、ある意味では頭の中で空想的にでっち上げたものは、よくよく考えてみればどうも理屈に合わないということが出てくる。林被告がカレーの中に毒を入れたという想像も、よくよく考えてみればどうも理屈に合わないことがたくさんあるように感じる。

神保哲生氏が指摘していたことだが、保険金詐欺の時に保持していたヒ素を持っていた人間が、それを保持していることがすぐに分かってしまうはずなのに、なぜあえてヒ素を使って殺人を犯すことを考えたか、ということに対するつじつまの合わなさだ。

どうしても殺人を犯す動機があったのなら、それが露見することを恐れるよりも、殺人の動機の方が高くてその行為に踏み切る恐れはある。しかし、動機がほとんど無いのに、なぜ疑われるかも知れない行為に踏み切るのか、その行動の整合性が理屈に合わないと言うのだ。僕もそう思う。

林被告が、近所の人に恨みを抱いていたというような事実があればまだ違うかも知れないが、安田さんによれば、林家の人々というのは、周りの人間たちとあまり関わりなく生きてきたのだそうだ。親身になってつきあうこともない代わりに、さしたるトラブルもなく、ましてや恨みを抱くことなど無かったようだ。

またヒ素を混入したと言われるカレーは、自分の子どもたちも口にする可能性のあったもので、子どもたちを巻き込んでまで殺人をするだけの動機がどこにも見あたらない。すべては、林被告が「毒婦」とまで呼ばれる極悪人であるというイメージから導かれたものであるように見える。

凶悪犯罪者と呼ばれる人たちのイメージは、いったん確定してしまうと、それ以外の見方は難しくなってしまう。しかしそれは偏見であり、そこから間違った判断が生まれるという意識は、誤謬論にとって欠いてはならないものだと思う。安田さんの話は、このほか耐震構造偽装問題で有名になった小島社長の弁護のことに及んでいた。小島社長に対しても、マスコミの報道によって偏見が増幅されていることを指摘していた。それもなるほどと思った。偏見を偏見として意識することは、より真理に近づくことになるのだなと思った。