仲正さんの北田暁大氏批判 2


僕は宮台真司氏を一流の学者としてリスペクトしているが、同じようにリスペクトの対象にしている人に仲正昌樹さんがいる。個人的な好みとしては、仲正さんの方に親近感を感じる。

宮台氏は、あまりにも正統派のヒーロー過ぎて、その欠点や弱点が見つからず、ある意味では雲の上の存在のようにも感じてしまう。それに比べると、やや不器用さを感じる仲正さんは、その欠点や弱点ゆえに心情的な共感も感じる。宮台氏に関しては、あくまでも客観的な判断による、その能力の凄さに感嘆したリスペクト感だったが、仲正さんの場合は、心情的にも何か贔屓を感じるようなリスペクト感を持っている。

その仲正さんの北田氏批判を客観的・論理的に理解するのはなかなか難しい面があるのを感じるが、特に批判の一面に絞って論理的な整合性を考えてみようと思う。批判の一面というのは、<大したことでもないことを大げさに捉えている、それは的はずれだ>というものだ。仲正さんの言葉で言えば「「どうでもいいおしゃべりしてますね」ですむ話」と語られている。この判断が正しいかどうかを考えてみたい。

仲正さんが大したことではないと考え、北田氏が重大だと考えているのは、右翼だと見られている八木秀次氏が『ブレンダと呼ばれた少年』という本を元に、上野千鶴子氏の『差異の政治学』を批判したことを巡る会話だった。

八木氏は「上野千鶴子の『差異の政治学』(岩波書店、2002年)が酷いのは、02年刊行の時点でまだマネーの中立説を無批判に評価し、その2年前に出た『ブレンダと呼ばれた少年』には何の言及もないところです」と語っている。この言葉に対し、仲正さんは特に何も言わなかったようだ。

それを北田氏は、「なぜ八木に反論せず、同調しているかのような発言をしているのか」と仲正さんを責めたらしい。この批判は妥当なものだろうか。これに対して仲正さん自身は次のように書いている。

「そこでホントに不思議なのは、彼が「上野さんはマネーの説なんかにはそんなに依拠してない、言いがかりだ」と言っていることです。言いがかりに過ぎず、そんなに依拠していないのであればそれですませればいい話でしょう。「関係ないことを言っているだけだ」と。何でそれで私に対しても道徳的な怒りを感じて、こんなやつとトークは続けられないという態度をとる必要があるのか、そこが理解出来ない。」


北田氏の批判を仲正さんは「道徳的な怒り」と受け取っている。それは論理的な意味での批判ではないという受け取り方だ。いわば文学的な、感性を表現した言葉として受け取っているといっていいだろう。これは「同調しているかのような」という表現の「かのような」という部分にそれを感じることが出来る。はっきりと「同調している」と言えるものなら、それは文学的でなく数学的(論理的)に指摘出来るだろう。

しかし「かのように」という表現からは、北田氏はそう思ったのだと言うことが伝わってくる。思ったことを基礎にして語っているので、これは文学的な表現だなと感じる。だからこそ、仲正さんは「道徳的な怒り」と解釈したのだろう。これは「怒り」という感性的なものだから、共感するかどうかという感性で応えるしかない。

仲正さんは「理解出来ない」と語っているので、感性のレベルでは共感出来なかったと言うことだろう。これは仕方のないことだと思う。感性のレベルでは、客観的に何が正しいかなどは議論出来ないからだ。もし議論出来るとしたら、「同調している」と指摘出来るような発言が、間違った判断から同調的な発言になっているかどうかということではないかと思う。この発言に関しては、仲正さんは次のようなものを二つあげている。

「上野さんや小倉さんのような、有名でかつ指導的立場にいるはずのフェミニストが、この二つの性を混同して、『ジェンダー』のみならず『セックス』でさえも生物的にではなく、社会が構築してしまうかのような、妙な社会還元主義に陥っています」

「頭の悪いフェミニストが言うような『ジェンダーからの解放』を目指すなら、『八木秀次は男性中心主義者だ』といったジェンダー的な決めつけからも自由になるべきです(笑)。『女性中心主義』という非難をすることなどないくせに、いろいろなものに『男性中心主義』というレッテルを安易に貼ってアンチをやればそれでいいんだというのは、『フリー』好きな割には頑なすぎます」


この二つの発言は確かに同調的に見える。だが、たとえ同調的であっても、ここで語っていることが正しいのであれば、同調したとしてもそれは非難出来ない。この発言は、間違った判断からもたらされたもので、その間違いゆえに同調することも間違いだと言えるだろうか。

これを間違いだと証明するのはかなり難しいだろうと思う。仲正さん自身が、学問的に厳密な言い方をしているというよりも、簡単な感想を述べているという感じがするからだ。まさに、仲正さん自身が「実際にそんなに大したことは言ってない」という受け取り方がふさわしいのではないかと感じる。

「妙な還元主義」に上野氏が陥っていることが間違いであるかどうかは証明が難しい。「妙」というような言葉が、そのような厳密な考察にふさわしくないからだ。安易なレッテル貼りが、「『フリー』好きな割には頑なすぎる」かどうかも証明が難しい。「頑な」という言葉がやはり厳密性とは馴染まないからだ。

上の発言は、感情的な反発は感じるかも知れないが、やはり「どうでもいいおしゃべりしてますね」と言うことで受け流しておいた方が良かったのではないかと思う。僕は仲正さんに対してひいき目に見る感じがあるので、仲正さんの次の感想に共感する。

「ただちょっと実物(『差異の政治学』)を見れば分かるんだけど、マネーの話は冒頭の方に出てきて、けっこうページを割いています。で、その部分の最後の方に「一部は反証された」と、ちょっと言い訳っぽく付け加えているんです。だから全面肯定とは言わないまでも、そんな大して評価していない学説を、けっこう力を入れて書いているはずの自分の本の前の方に置くかな?っていう気は確かにするんですね。
 これをもって「上野千鶴子ジェンダー観の全てだ」っていうふうな言い方をするのはちょっと言いすぎだけど、上野千鶴子もそう言う書き方は確かにしてるんです。でも、それ自体は大した問題ではない。そんなに気にする必要はないじゃないか、と私も思う。だって、それ以降の展開ではマネーの話はあまり関係なくなるし、上野さんはマネーの説に基づいてジェンダーフリー運動の旗振り役になっているわけでもない。北田くんたちもそう主張している。彼が「本来問題じゃないと思っていること」に拘って批判している人たちと私がおしゃべりをして、上野さんのあの言い方は変だと言っているだけなのに、それによって仲正がフェミニズムを全否定しているかのように大騒ぎするのはおかしな話でしょう。上野さんの『差異の政治学』にとってマネーの話なんかどうでもいいって言うんだったら、それこそ、「どうでもいいおしゃべりしてますね」ですむ話です。」


「どうでもいいおしゃべり」という受け止め方は、厳密な考察を必要とする論理的な主張ではなく、単に感想を語っているだけだと理解することだと言ってもいい。それは感想であるから、文学的な表現だ。そう感じるのであればそれはそれで仕方がない。人にはいろいろな見方があるからという理解をすることだ。

仲正さんの発言をそう解釈すれば、それを大げさに問題にする北田氏の非難は的はずれのように見える。これは、僕が仲正さんに対してひいき目に見ているところもあるので、そのような感性で受け止めると言うことがあるのだろうと思う。だが、この発言を巡って厳密な議論をすることは出来ないだろう。それは不毛な水掛け論になってしまうと思う。そうなるようなら、やはり大したことを言っているんじゃない、「どうでもいいおしゃべりしてますね」と言うことで処理した方がいいのではないかと思う。

この発言に政治的な意味を見出して問題にすると言う視点もあるかも知れない。上野氏に対する批判に対して同調的な感想を語ることによって、それが上野氏を攻撃したい側に利用されるという政治的な面だ。だが、これは過剰に反応することが相手側にまた利用されることになるのではないかとも考えられる。

そんなことはどうでもいいことだと無視していれば、攻撃したい側も、さほど効果がないと判断してやがて言及することもなくなってくるかも知れない。しかし、ある種の反応があれば、それは攻撃しがいのあるところだと見なされるかも知れない。

実際に上野氏を巡る攻撃の部分は、学問的にかなり難しいところのある部分ではないかと思う。そうであれば、何が正しいかを大衆的に明らかにすることは難しいのではないかとも感じる。そうなると、正しいか正しくないかにかかわらず、攻撃していると言うことを見せつけられれば、攻撃したい側にとっての宣伝としては役に立つかも知れない。

宣伝として間違った方向へ行こうとしているから、それを防ぐためにも問題にすると言う考え方もあるだろう。だがこれはかなり難しいことだ。恥知らずな攻撃的な宣伝をする方が、宣伝としての戦いでは勝利するという歴史があるだけに、攻撃に応じて戦うのも難しい。また戦わなければ、間違った宣伝が蔓延するという恐れもある。政治的な面を考えると、この対処は難しいだろう。

仲正さん個人に関することでは、それは「どうでもいいおしゃべりをしてますね」と言うことで、大げさにすることはないという対処が正しかったと思う。それが、政治的な面を持つと言うことでは、大げさにするのか無視するのかは難しい判断だと言えるだろう。

バックラッシュ!』での宮台氏の分析では、それが「バックラッシュ」に過ぎないと分かっている人間なら、的はずれの攻撃をしてくる保守的な層を眺めていればすむことになる。だが、それが「バックラッシュ」ではなく、正当な批判であると勘違いする人がいれば、大衆的な動員では、攻撃する側に多数が集まり、民主的な決定では敗北することになるだろう。

そう言うことを考えると、北田氏の感じ方にも無理はないと思うところもある。しかし、その感性から来る怒りを仲正さんにぶつけるのは間違いだろうと思う。難しいことではあるけれど、感性的に間違った批判を受け入れてしまう人々に、それは単なる「バックラッシュ」に過ぎないと言うことを分かりやすく伝えることがもっとも必要なことではないかと思う。分かりやすく伝えると言うことがどれほど難しく困難なことであろうとも。