教育者としてのリスペクトを感じる内田樹さん


もう一人、僕が強いリスペクト(尊敬)を感じる学者に内田樹さんがいる。内田さんに感じるリスペクト感は、宮台氏と仲正さんに感じるものとはちょっと違う。宮台・仲正両氏については、あくまでも学者としての面にリスペクトを感じるのだが、内田さんには教育者としての面にもリスペクトを感じている。

宮台・仲正両氏の文章は、読者に対する敷居がやや高いのを感じる。普通の言葉ではなく専門用語で多く語られているのが原因かも知れない。理解するのに困難を感じる場合がしばしばだ。しかし、両者に対するリスペクト感から、何とか努力しようと言うモチベーションも生まれてくる。それがなかったらすぐに放り出してしまうかも知れないような難解さをもっている。

内田さんは、この二人と違って、読者に優しい書き方をするというイメージが僕にはある。内田さんとの最初の出会いが『寝ながら学べる構造主義』という新書だったことが原因しているかも知れないが、この本は、僕にとっては「構造主義」というものが初めて分かったと思わせてくれた本だった。

内田さんはまえがきで次のように語っている。

「「専門家のために書かれた解説書」には、「例のほらあれ……参ったよね、あれには(笑)」というような「内輪のパーティ・ギャグ」みたいなことが延々と書いてあって、こちらはその話のどこがおかしいのかさっぱり分からず、知り合いの一人もいないパーティに紛れ込んだようで、身の置き所がありません。
 それに対して、「入門者のために書かれた解説書」はとりあえず「敷居が低い」のが取り柄です。どんな読者でも「お客様」として迎えようという態度がそこには貫かれています。
 解説書におけるこの「敷居の高さの違い」はどこから来るのでしょう。
 「内輪のパーティ」と、「誰でも参加自由のパーティ」の違いと言うだけなのでしょうか。それとも専門書と入門書では、書かれていることのクオリティが違うのでしょうか。
 私は本質的な違いはそう言うところにはないと思っています。
 敷居の高さの違いは、「専門家の書き物」は「知っていること」を軸に編成されているのに対し、「入門者のための書き物」が「知らないこと」を軸に編成されていることに由来する、と私は考えます。」


この文章は、初心者というものを実に正確に捉えているものだと思う。初心者として最初の一歩に苦労したことが多い自分の経験を振り返ると、ここに書かれていることは実感としてよく分かる。僕は、直接人に習うと言うことが苦手だったので、ほとんどを独学でやってきたが、それはほとんどの学習を初心者からスタートさせると言うことになった。その初心者が最初のハードルを越えるのに、これほど初心者のことをよく分かっている人に教えてもらえれば、それが容易になるだろうと強く感じる。内田さんを教育者としてリスペクトするという感覚は、そのような感想から生まれる。

内田さんは、入門者のための本の方が面白いとも言っている。これは、仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんと同じ発想だ。板倉さんも、子どものために書かれた科学入門書で優れた本は、専門書よりも遙かに科学を正確に語っていると言っていたものだ。内田さんの次の文章にも、板倉さんと同じ発想を見ることが出来る。

「専門家のための書き物は「知っていること」を積み上げてゆきます。
 そこには、「周知のように」とか「言うまでもないことだが」とか「なるほど……ではあるが」というようなことばかり書いてあり、読む方としては「何が『なるほど』だ」と、次第に怒りがこみ上げてきます。しかし、この怒りはゆえなきものではありません。私たちが苛立つのは、そこで「何か本質的なもの」が問われぬままに逸らされていると感じるからです。」


板倉さんも、子どものための優れた科学の本は、本質的なものが書かれていると語っていた。それは、本質的なものでなければ子どもに分かるように説明が出来ないからだ。専門書というのは、読者の側にそれなりの能力があることが要請されている。と言うことは、書き手の方の理解が浅くても、ひどい場合には何かの引き写しのような説明であっても読者がそれなりに理解してしまう。つまり、細かいことを知ってさえいれば専門的なことは書けるのである。だが、子どもに分かるように書くには、その本質を知っていなければならない。

このような発想は、数学教育協議会で活躍した、水道方式の発明者である故遠山啓先生も持っていた。遠山先生は数学の世界でも一流の学者だったが、分数のかけ算はなぜひっくり返してかけるのかとか、マイナスとマイナスをかけるとなぜプラスになるかというような初等的な数学を、本当に子どもに分かるように説明するには、数とは何かという本質を知らなければならないと語っていた。

単に計算が出来るようになるのなら数の本質論は要らない。しかし、教育においては本質論なしに効果的な教育を展開することは出来ないという発想を遠山先生は持っていた。板倉先生や遠山先生という優れた教育者と同じ発想を内田さんが持っていると言うことは、内田さんも教育者として非常に優れている人だと僕は感じる。そこに強くリスペクトを感じる。

内田さんには、このように教育者として優れた面があるからこそ、その文章が分かりやすいのだろうと思う。かつて本多勝一さんは、『日本語の作文技術』の中で、文章に書かれていることの意味を、裏を読んだりして読みとる努力をするよりも、論理的にすっきりとよく分かる文章が、何故に分かりやすいのかを学習する方が国語教育としてはずっといいことだと語っていたことがあった。僕もそう思う。だから、内田さんの文章が、どこが他の人と違うから分かりやすいのかを考えてみたいと思う。

そのヒントになることもまえがきの中に書かれている。それは次の部分だ。

構造主義という思想がどれほど難解とはいえ、それを構築した思想家たちだって「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」という問いに答えようとしていることに変わりはありません。ただ、その問いへの踏み込み方が、常人より強く、深い、と言うだけのことです。ですから、じっくり耳を傾ければ、「ああ、なるほどなるほど、そう言うことって、確かにあるよね」と得心がゆくはずなのです。何しろ、彼らがその卓越した知性を駆使して解明せんとしているのは、他ならぬ「私たち凡人」の日々の営みの本質的なあり方なのですから。」


構造主義という難解な思想を、単に知っているだけの人は、そこで使われるわけの分からない専門用語を並べて、誰かが語った「構造主義」をコピーするだけの説明をする。しかし、本当に構造主義の本質を分かった人は、現実の対象をどう見れば「構造主義」がつかめるかを、現実の対象に即してその見方を頭の中に描けるように説明をする。

言葉だけの説明と、実際に見たり触ったり出来るほど具体的に鮮やかなイメージを伴った説明では、初心者の理解はまったく違ってくる。内田さんは、「構造主義」という言葉を説明するのではなく、「人間はどういうふうにものを考え、感じ、行動するのか」と言うことを、構造主義の方法で解明するやり方を説明しているのだと思う。具体的な対象を頭の中に描けるように詳しく説明し、それをどう見るかを説明するから分かりやすいのだと思う。

これは懐かしい方法でもある。三浦つとむさんの文章がこれと全く同じような書き方だったからだ。三浦さんは、マルクス主義の難しい概念を説明するのに、その用語をそのまま語ったり、辞書の説明を書いて済ませたりしなかった。むしろ、現実にどこにでもありそうな対象を見つけてきて、読者が頭の中にそれを想像することがたやすい対象を使って、それをどう見るかを説明する中で難しい概念を捉えさせるという文章を書いていた。

三浦さんは独学の人だったから、おそらく自分の独学の中で、どのようにして概念を捉えたらよく分かるのかという経験から、このような説明の仕方を編み出したに違いない。その独学の人に出会って、僕も自分の独学にどれほど役立つ知識を得たか分からない。

内田さんは独学の人でもなく、学歴を見れば知的エリートであることは確かな人だ。その知的エリートである内田さんが、初心者の感性を理解し、教育として優れた手法で文章を書いているということは驚くことだと思う。知的エリートは、理解能力の劣る人間に対してはあまり配慮してくれないことが多いと思われるのに、行き届いた配慮のある文章を書く内田さんは、その人間性もリスペクト出来る人だと感じる。好みという点でいえば、宮台・仲正両氏を含んだ3人の中では最も好きな書き手だと言えるだろうか。それは、僕自身も教育に携わる人間だからかも知れない。