数学における文章理解


数学の本の読み方は、他の分野の本の読み方と違う、かなり特殊性を感じるところがある。数学というのは、その内容においては誰が考えても同じ結論に達するものとして考えられる。つまり内容的な個性はないと言える。個性があるとしたら、その書き方と言うことにある。どのように対象に近づいていくかという方法の違いがあるだけのように感じる。

僕は学生の頃数学を勉強するときは、その入門書を片っ端から探してきて、その冒頭の部分を次々と読んでいった。だいたい50冊くらいに目を通すことが多かっただろうか。その中で、対象へのアプローチの仕方がぴったりと自分の理解力に合うものが見つかると、その入門書を徹底して読むという勉強の仕方をしていた。

内容的にはどれを読んでも同じだから、表現として自分の個性にぴったり合うものを見つけることが大事なことだった。やがてはそれは記号論理学的な表現に出来るものが自分の個性に合うものになり、普通の日本語で記述されているものを記号論理の表現に翻訳しながら読むようになった。その翻訳がやりやすい書き方になっているものが自分の好みに合うものになっていったと言えるだろうか。

数学の場合、どれを読んでも内容は同じだと判断出来るのは、そこで考察の対象になっているものの概念さえ正しくつかめれば同じ結論に達するからだ。同じ結論に達しないことがあれば、どこかで理解を間違えていると考えられる。大事なのは、概念を正しくつかむと言うことであり、それがうまくできる表現になっているものが自分にぴったり合うレベルのものだと言うことが出来るだろう。

自分の個性としてそのような文章の読み方が好みに合っていると思っていたので、二十歳くらいになるまでは、その正反対にあるような文学的な文章はほとんど読む気にならなかった。読み手によって解釈がまったく違うような文章は、正しい読み方というものが見つからず、数学的な文章に馴染んでいた自分にはどうもしっくり来なかった。

今なら、そのような文章も読み手の自由な想像力を刺激して、多様な読み方を許容する文章の面白さを味わえばいいのだと言うことが分かるが、若かった頃は、自分の勝手な思い込みで解釈してすむような文学的な文章は、真理性が気になっていたこともあり読むに値しないもののように感じていた。

特に、ある種の主張を含んだ評論などは、そこに文学的な表現の香りを見てしまうと、とたんに信用出来ないもののように感じて読むのをやめると言うことが多かった。今なら、多様な視点の一つを教えてくれるものとして評価出来るものもあると思っている。

ここで文学的と呼んでいるのは、自分の感性を基礎に置いているような判断のことを指している。感性という、認識と独立に存在している客観的なものを基礎に置くのではなく、あくまでも主観に重きを置くのが文学的なものだと僕は理解している。これは、「そう言う意見もありますね」という受け取り方をしていればそれでいいと思うのだが、それを、誰もが認める真理だと受け取ると間違えるだろうと思う。

例えば「靖国参拝」問題に関して、それが「心の問題だ」というのは、まさに感性を基礎にしているのであって文学的な表現と言うことになるだろう。だから、そう言う視点を持つ人がいると言うことは理解出来る。だがその主張が正しいという判断は残念ながら出来ない。正しいというのは、主観の範囲で決定するのではなく客観的に決定しなければならないと思うからだ。

それに対して、これは外交としては首相の参拝は間違いだと主張するのは、文学的ではない表現だと思う。それは、いくつかの事実の前提から導かれる論理的な帰結として考えられることだからだ。数学的な論理の結果として構築出来る。前提となることは、戦争を開始したことの責任が日本にあることや、その戦争に負けたと言うこと、そしてサンフランシスコ講和条約を受け入れて戦後復興をしたというようなこと等々、それらの様々な事実の論理的な帰結として誰もが同じ結論に達するものとしてつなげることが出来ると思われるからだ。

この場合大事なことは、「外交としては」という点だ。つまり、この論理的な結論は条件付きなのである。だから、この条件が満たされないときは、必ずしも同じ結論に達しない人がいても仕方がない。外交が最重要な要素だと考えないのであれば、他のものが重要だという視点で、この結論と違う見解が出てくるのは論理的に間違いではない。単に視点が違うと言うだけのことだ。

外交が最重要なものだという判断は、果たして文学的なものだろうか、それとも数学的(論理的)なものだろうか。これはなかなか難しいと思う。僕自身はかなり数学的(論理的)ではないかと感じているが、それを客観的に証明するのは難しいなと思っている。それは、日本の国益というものを客観的に説明出来ないと証明が困難だろうと思うからだ。その証明が出来ないうちは、単にそう思っているだけで、自分の中ではまだ文学的な表現になっているのかも知れない。

文章表現の中には、最初から芸術的なものであることを前提としている小説や詩のようなものがある。このようなものを読むときは、僕でもそれを数学的(論理的)な理解の対象にして読もうとは思わない。それは、自分の感性に従って、読んだときに頭の中に描かれる世界が、自分にとって気分のいいものであるかどうかという感性に従った読み方をする。

しかし文学ではない要素のある文章は、まずは数学的(論理的)な読み方をしてみようといつも思っている。そこで特に意識しているのは、そこで語っている対象世界を正確に頭の中に描くと言うことだ。文学の場合は、正確さよりも自分の好みに合っているかどうかで世界を描く。しかし、文学でない場合は、そこで表現されている言葉を頼りに、出来るだけ正確に客観的世界を作ろうと考える。

数学の場合は、これが概念を理解すると言うことになってくる。数学の場合は抽象的対象なので、理解するのは概念だけでいい。他の属性はすべて捨象して捨ててもかまわない。これが、数学ではない、現実とのつながりのある対象を問題にしている場合は、その現実存在の属性というものが気になる。その属性の中で、何を取り上げて(抽象して)、何を捨てれば(捨象すれば)いいか。それを正確に読みとることに努力する。

以前にソシュールの言葉を巡って、シカゴ・ブルースさんとの視点の違いが現れることがあって、その読み方の違いが面白いと思ったことがあった。それは

「それだけを取ってみると、思考内容というのは、星雲のようなものだ。そこには何一つ輪郭の確かなものは無い。あらかじめ定立された観念はない。言語の出現以前には、判然としたものは何一つないのだ。」
(『一般言語学講義』)


という表現を巡ってのものだった。僕は、この「星雲のようなもの」と書かれている部分を、表現をする前に頭の中に浮かんだ考えという対象だと受け取った。それが表現の前であれば、明確な輪郭がまだ出来ておらず、「こんなものかな」というようなぼんやりとした対象になっているような感じがしていた。それが、その対象にふさわしい言葉を見つけることで、輪郭がはっきりし、まさに自分が考えていたものはこのようなものだったと自覚出来ることが言葉の持っている大きな作用の一つなのだと感じた。

僕は、ここで書かれている「星雲のようなもの」という対象を、上のようなものとして捉えた。このとらえ方がソシュールの真意だったかどうかは、上の文章が引用として書かれていたものだったので判断は出来ない。それはソシュールの他の文章と照らし合わせて、本当は何が言いたかったのかを考えなければならないだろうと思う。

だが、本当は何が言いたかったかというのは、どちらかというと文学的な部類に入るものではないかと思う。それは客観的には決定出来ないのではないかとも感じる。心理学などを使って予想することは出来るだろうが、それが正しいと結論づけることは出来ないのではないか。

だから、上の文章を数学的(論理的)に読もうとするなら、そこに表現された対象を客観的に設定して、その客観的に設定された対象がどのような属性を持っているかを読みとることが数学的(論理的)だと言えるのではないだろうか。僕の読み方は、ソシュールの真意かどうかは分からない。しかし、僕が設定した客観的対象としての「星雲のようなもの」と言われる、表現前のもやもやした思考の内容が、言葉を見つけて表現することによってはっきりして来るという構造が、客観的に正しいかどうかは考えられるのではないだろうか。

芸術的な文章を文学的に読むのはそれはまったく問題がないだろうと思う。しかし、その際はどのような読み方をしようと、感性の違いがあるのだから、その感性に従った読み方なら文学的な読み方だと認めなければならないだろう。文学的な読み方に正しいか間違いかというものは無い。あるのは、それが「深い」か「多様」かなどという質の問題だろうと思う。「深く多様な」読み方の方が価値が高いという見方もあるかも知れないが、そのような価値観を抜きにして考えれば、文学的な読み方は自由に感性に従ってやればいいと僕は思う。

しかし、ある種の主張や判断、そこにそれが正しいかどうかという命題的な要素が盛り込まれている文章は、あくまでも数学的(論理的)に読む必要があるのではないだろうか。それは、そこで語られている対象がどのような存在であるかを正しく捉えることがまず大事になる。そして、正しく捉えた対象が、そこで語っているような属性を本当に持っているかどうかと言う判断が正しいかどうかを考えることが大事になってくるだろう。

その際、その文章の表現者の意図などは、後で問題になる場合も出てくるかもしれないが、最初の読みとりではあまり考えなくてもいいのではないかと思う。最初の読みとりで正しい読みとり方(対象の存在や構造を正しく捉えると言うこと)が出来たなら、表現者の判断や意図についても、それが正しかったかどうかと言う判断が出来るようになるだろう。

野矢茂樹さんは、『『論理哲学論考』を読む』という本で、そこに書かれていることが間違いであり、ウィトゲンシュタインが意図した「思考の限界を確定する」と言うことに失敗しているという結論を出している。この結論が正しいかどうかについては僕はまだ分からない。だが、ウィトゲンシュタイン自身も後にこの自著について自己批判していることを考えると、その読み方は正しいのかもしれないと思う。僕は、このような野矢さんの読み方が数学的(論理的)な読み方の最たるものではないかと感じる。参考にしたいものだ。

なお文章を正しく理解すると言うことは、その内容をオリジナルに作り出すことより遙かに易しいものである。だから、普通の能力の持ち主としては、そのようなことが出来ることを目標にすることがいいのではないかと思う。そして、オリジナルに作り出すことの出来た才能をリスペクト(尊敬)することがいいと思う。数学なども、それを新たに作り出すことは大変だが、それを理解するだけなら普通の才能でも出来ると思う。そして理解することは、普通の人間でも天才に一歩近づくことが出来ることになると思う。僕はそのような読み方をしたいと思っている。