『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・著、新潮社)


ずいぶん前に買っておいた本だったが、昨日何気なく手にとって二日間で一気に読んでしまった。それくらい面白い本だった。面白さの要素はいろいろとあるけれど、推理小説的な謎解きの面白さも感じた。その部分はこれから読むかも知れない人に種明かしをするのは面白さを半減させてしまうだろうと思うので、この本の内容についてはあまり触れないことにする。

この本の内容以外の面で強く引きつけられたところを感想として記しておこうと思う。同じような面白さを感じた人に出会えたら嬉しいと思う。

まずは著者の森さんの人間的な魅力について感じたことを。森さんというのは、とても親しみを感じる人だ。宮台氏のように天才的な輝きを感じるという部分はない。だが、そのおかげで雲の上の遠くに住んでいる人間というような距離感を感じることなく、自分と同じように感じ・同じように考えて対話が出来る仲間のような親しみを感じる。

森さんも作品を創って生活しているプロだから、売れるんじゃないかというテーマを手にしたときは、それをいかに魅力的に売れる作品にするかということを当然考えるだろう。しかし、この「下山事件」の場合は、それに感染するという言い方をしているように、商売として売れるかどうかということを考える前に、何とかこれについて謎を解明したいという気持ちの方が先に立ってそれを追いかけている。

これはもしかしたらプロとしてはあまりよくないのかも知れない。作品そのものの客観的な価値よりも、自分の思いの主観的価値の方を強く感じていることになるからだ。しかし、それは多くの素人と感覚を共有するものであり、森さんを身近に感じさせることになる。

下山事件」については、おそらくこうであろうと言うことはかなり語り尽くされている部分がある。しかし、それを断定的に「こうだ」と言い切るだけの証拠は見つかっていない。実にもどかしい思いになるような事件なのだ。だからこそ人はこの事件の謎に惹かれるのかも知れない。

森さんがこの事件を追いかけ始めたのは、事件が起こってからすでに50年を経過していた時点だった。アメリカなどでは、これだけ時間がたてば、その事件の関係者が隠された謎を暴露すると言うことが多い。もう語ってもいい頃だと言うときに、たいていはそれを語る人間が出てくる。しかし、日本では、それを語る人間がほとんど出てこない。わずかな事実を知っているだけの人間も、そのわずかな事実を墓場までもっていくのが普通だ。これは実に残念で不思議なことだが、それが日本という社会の特徴なのかも知れない。

日本という社会の特徴といえば、森さんは「下山事件」を追いかけることで、日本の戦後史を実に生き生きと臨場感あふれる姿で体験することになる。それが文章からも伝わってくるので、それを読む読者も同じように、戦後史の重要な特徴を目の前に見るような経験をする。それがまた面白さの要素になっていると思う。

この一つの事件で戦後史を全て語ることは出来ないのだが、日本の戦後というものがここに凝縮されて、その姿が印象的に現れていると思う。下山総裁はなぜ死ななければならなかったのか(殺されなければならなかったのか)、それを考えると、戦後の国際状況なども浮かんできたりする。

当時の労働運動の高揚を象徴するような国鉄の労働運動。その国鉄職員の大量の首切りをしなければならない社会状況。そして労働運動をリードする、国際的な共産主義運動の流れ。それに危機感を抱く保守的な権力の側の思惑。様々な要素がこの事件の周りに渦巻いている。

下山総裁が残酷な殺され方をしたという凶悪犯罪としてこの事件を理解することも出来るが、そのような単純な理解ではすまないことをこの本は教える。犯罪を犯した側の邪悪性を非難するだけではすまないような、個人を越えた日本という国の、国家という存在の恐ろしい姿が浮かび上がってくるのを感じる。

下山さんは、たまたま大変な時代の大変な時期に国鉄総裁という地位についてしまった。個人としては、偶然そのような歴史の波に飲み込まれてしまった。しかし、個人が、歴史の波という公の世界で翻弄されるとこのような複雑な世界に引き込まれてしまうと言うことを、そのような世界とは遠いところに生活している我々庶民も知ると言うことは大きな価値があるのではないだろうか。それは、個人の幸せの中に浸っていればいいという生活に、インパクトのある問いを投げかけることになるのではないかと思う。

等身大の視点で、しかもその重要な特質を実に的確に伝えてくれるところがこの本の魅力だと感じた。また、部分的に印象に残ったのは、最近気になっていた「公共性」という言葉の概念を、この本の記述で一つ考えることが出来たことも面白いと感じたところだ。

下山総裁は、失踪する前に三越デパートによって買い物をする。これは、それを表面的に受け取ればごく「私的」な行為だと考えられるだろう。買い物というのは、普通は自分自身のためにするもので、せいぜいが自分の周りのプライベートなつきあいのためにするものだ。そういう意味では、本質的には「公的」なものではなく「私的」なものと考えられる。

買い物が自分の都合ではなく、例えばある組織の仕事として行う行為であれば、その組織の公共性に従って、普通は私的な行為だと考えられるものが公共性を帯びてくる。その組織が全くの私的なものであれば、また買い物という行為の公共性も変わってくる。

下山総裁の失踪前の買い物は、それが失踪するという事件性を帯びていたために、マスコミが知るところとなり、その報道で多くの人が知るところになった。もし全く事件性がなかったなら、この買い物は誰に知られることなく、ごくわずかな、プライベートなつきあいの範囲の人々だけが知るところのものだったに違いない。

それでは、この買い物という行為は、マスコミによって知らされる前は公的なものだったのか私的なものだったのかどちらだろうか。それは、マスコミが知らせることによって、誰もが知ることになり公的な行為になったのだろうか。マスコミが知らせなかったら、それはプライベートなものにとどまったのだろうか。

これを論理的に考えるのはなかなか難しいと思われる。なぜならば、事件が起こったという現実を考えると、事件が起こった後には、下山総裁の足取りを知らないままで済ませるなどと言うことが出来ないからだ。事件が起こった後では、それをマスコミが突き止めて知らせるのは、現実としてそれ以外の選択はあり得ない。つまり、マスコミが知らせないままで、誰にも知られることのなかった買い物という想像が、可能性として考えることが出来ないからだ。

マスコミが知らせる前の状態を想像するとき、それを知らせない場合があるという仮定は現実的にはあり得ない。そのあり得ない前提を立てて、無理やり考察をすれば、その行為の公共性はどう判断すればいいだろうか。論理的には、あり得ない前提の基に考えた結論は、どんな結論が導かれようと、その正しさについては何も言えないとしか言えない。つまり、そのような状況では、もし誰にも知られなかったらその行為は公的か私的かという判断は意味をなさないとしか言いようがない。

この場合の下山総裁の買い物という行為は、それが知られたという前提で、知られる以前はどうだったのかという考察をしなければならないだろう。知られる以前から、すでに公共性を帯びていたと判断出来るのか、それが知られたときに公共性も同時に帯びるようになったのだろうか。

後に知られた事実によれば、この買い物は実は買い物ではなく、誰かと会うことを悟られないようにカモフラージュするための、買い物を装った行為だった。それが誰かと言うことが重要で、これが下山総裁個人の生活にとって影響を与える人物ではなく、国鉄総裁としての地位に影響を与える人物だったということだ。そう言う人物と会うという行為は、個人の活動の範囲を超えるものであり、これは知られる前から公共性を帯びていたと考えざるを得ない。

この事実は、マスコミに知られる以前から公共性を帯びていたのであり、マスコミが知らせることによって誰の目にも明らかに公共性が分かるようになったと解釈した方がいいだろうと思う。

もし下山総裁が、家族のための買い物のために三越へ行ったのなら、それは私的なものと判断されるかも知れない。だが、その買い物に自分の金を使わずに、例えば公金を着服したものを使ったりすると、それは私的なものではなくなってくる。しかし、それはそのような事実があったときに、事実を知った後に遡って判断出来ることになる。

事実を知らなければ判断が出来ないから、それが公的かどうかを問うことに意味がなくなると思う。そして、事実を知ることが出来れば、その時点まで遡って考えることが出来て、その時点ですでに公共性があるのかどうかが分かるだろう。

公共性のある行為でも、その利害があまりにも重大であるときは、その公共性を知られたくないことと言うのはたくさんあるのではないかと思う。それは、公共性があるかどうかを判断出来ないように、誰にも知らせないように、誰にも分からない行為として、謎のままにとどめておこうとするに違いない。

謎に対して我々が引きつけられるのは、それが私的な、自分とは関係のないものとして無視出来るものではなく、自分に関係のある何かが隠されているのではないかと感じるからではないだろうか。自分に関係のある何かが、自分にとっての私的なものである場合もあるだろうが、他の人も関わってくる公的なものであれば、森さんが表現したような「感染」によって、その謎に引きつけられるのかも知れない。

下山事件」は、そのような人々を引きつける謎の象徴だろう。現代日本を象徴するような謎をかぎ分ける嗅覚を鍛えたいものだと思う。何に注目することが、現代日本を深く理解することになるだろうか。森さんの本は、そんなことを考えさせてくれるとても面白いものだった。