能力の高さと志の高さの関係


最新のマル激トーク・オン・デマンドには自民党の広報改革の中心にいた世耕弘成氏(参議院議員)をゲストに招いて議論を展開していた。広報という分野における世耕氏の能力の高さというものを強く感じる議論になっていた。いわゆる頭の切れる人間というのは、このようなタイプなのではないかと感じるくらいだった。

世耕氏の能力の高さを感じるのは、その分析力の高さだ。あらゆる可能性を考察の対象に出来るというフィージビリティスタディというものが出来る人間ではないかと感じた。日本人的な感情のロジックにとらわれていると、自分に都合のいい、感情的に気持ちのいい方向での考察はよくできるけれど、都合の悪い方向・感情的に嫌いだと思えるような方向での考察は抜け落ちることが多い。

世耕氏は、そのような感情を排して、対象を冷静に突き放して分析するという能力に優れているように感じた。このような能力を持っている人間は、失敗から学ぶことが出来る。二度と同じ失敗を繰り返さないという反省が出来るようになる。このような能力がとても高いのではないかと、世耕氏の話を聞いてそう感じた。

世耕氏の分析能力は、おそらくあらゆる分野で役に立つ能力になると思うが、特に広報という分野では、その知識が豊かと言うことがつながってさらに高い能力の発揮が出来るようになっているのだと思う。このような人間が広報の中心にいたからこそ、先の総選挙での小泉自民党の大勝利というものがもたらされたのではないかと思う。その大勝利の理由をこれで整合的に理解することが出来た。あれは偶然ではなく、このような理由があってのことだったのだと。

マル激を聞いて、世耕氏の能力の高さというものに驚いたが、同時に何か違和感を感じたことも確かだ。僕が、能力の高さを感じる人間は他にもたくさんいる。宮台真司氏などは、その膨大な知識量と論理能力に驚いたものだ。そして、その能力の高さにリスペクト(尊敬)感を抱いて、今や宮台真司の言説は、僕のもっとも信頼するものになっている。だが、同じように能力の高さを感じる世耕氏に対しては、リスペクト感よりも違和感の方が大きい。この違いはどこから来るのだろうか。

もし世耕氏が政治家ではなく、広報の専門家である民間企業の人間だったら、宮台氏とリスペクト感を比べるというような発想は出てこなかっただろう。そうすれば、違和感というものも出てこなかったに違いない。民間の広報マンが、その仕事において能力の高さを見せてくれても、それはある意味では当たり前のことであって、あまりリスペクトする対象として考えるものではないような気がするからだ。リスペクトという感情は、どちらかというと、仕事そのものよりも、その人間の行動の中の公共性の方に関心が向いているときに起こるものではないかと思う。

世耕氏は政治家であるから、単に広報活動をうまくやったからといって、それだけでリスペクトの対象にはならない。政治家としての公共的な側面に、志の高さというものを感じなければリスペクト感が生まれてこないような気がする。マル激では、広報のことが議論の中心なので、志の高さというものを示すことが難しかったのかも知れないが、その話を聞いた限りでは志の高さを感じさせてくれるようなものがなかった。

宮台真司氏は社会学者であり、ある意味では学問的な活動をしていれば、一応社会学者としては充分だとも言える。それが、社会的に影響力のあるメッセージを発し続けるというのは、宮台氏の公共心であり志の高さだと僕は感じる。そのメッセージが、僕はほとんど正しいと思うのだが、たとえ間違ったことが入っていようとも、その志の高さは間違いがないと感じる。個人的な真理の追求よりも、客観的な真理を解明することが公的に貢献することになるという面での志の高さを感じる。

世耕氏の、広報担当者としての高い能力が、志の高さに結びついていないように感じるのは、選挙というものに対する視点がちょっと違うのではないかという違和感があったからだ。世耕氏は、千葉の補選だっただろうか、自分にまかせてくれたら必ず勝っていた選挙だったと語っていた。世耕氏の能力の高さから言えば、その言葉も必ずしも自慢話ではなく、実際にそうなっただろうと僕は感じた。

だが、この言葉に、世耕氏にとっては、選挙に勝つことが目的になってしまっているのではないかと言うことも感じた。それは、世耕氏が、広報の専門家であって政治家でなければ仕方がないと思う。しかし、政治家である世耕氏にとっては、選挙で勝つことは手段に過ぎないことであって、目的になってはまずいのではないかと思う。

政治家にとっては、政治活動で何をするかということがまず大事な目的としてあるのではないだろうか。それは、志の高さから、その目的が導かれてくるものだと思う。その目的を実現するためには、選挙で勝利して、その目的を実現する手段をつかまないとならない。あくまでも目的は、政治の方から導かれてくるものでなければならないのではないだろうか。

これが、選挙に勝つことが目的になってしまうと、本来の政治的な志の高さで妥協をして、選挙に勝つような大衆動員に有利な方向を取るようになるのではないだろうか。世耕氏の分析能力の高さは、現時点の大衆の動向を探る情報収集能力の高さにも見ることが出来る。しかし、世耕氏の視点の先にあるのは、あるがままの大衆の姿であって、その大衆に教育的に働きかけて、政治意識を高めようと言うような考えはないように思われる。

大衆が、その政策をよく理解して判断すると言うよりも、小泉さんの言い方を好むと言うことや、分かりやすいスローガン的な表現の方が支持を得やすいという分析が出てくれば、大衆教育よりも、煽動の方に力を入れるというのが世耕氏の方法であり、そのような方面での能力の高さであるように僕は感じた。

大衆教育は非常に難しい仕事だと思う。労多くして功少なしという仕事だ。それに比べれば、資金が潤沢にあり、マスコミを抑えていれば、大量宣伝で大衆を煽るというやり方は、まだやりやすいだろうと思う。よほどの志の高さを持たなければ、選挙の勝利よりも、大衆意識の高まりの方を選ぶと言うことは出来ないだろう。

僕は、世耕氏に志の高さが見えないのを非難しているのではない。広報に対するその能力の高さには驚きを感じている。大したもんだと思う。逆に、志はあるのだが能力が低いという人間は、何とかした方がいいと思っている。そちらの方が批判すべき面は大きいだろう。志は高いのに能力が低かったら、その失敗が志の高さにも非難が向けられてしまう恐れがあるからだ。かつて三浦つとむさんから、官許マルクス主義として批判された、志の高いマルクス主義者たちは、理論の失敗がその志さえも否定されるような結果を招いたのではないかと思う。

本来は、プロレタリアートという虐げられた弱者の立場に立つという志の高さを見せた人々が、スターリン主義的な権力的な野心を満たそうとする志に過ぎなかったのだと批判されるようになってしまったのは、志に対して能力が伴わなかったからではないかと思う。

志も能力も低いのは問題外だが、志が高くて能力が低いと言うよりは、志は低くても能力が高い方が結果的には現実的な有効性を持っているだろうと思う。だが、能力が高い人は、せっかくその資質があるのだから、志の高さを持つように努力して欲しいと思うのだが、なかなか世の中そうはならない。

田中康夫さんは、「日経ビジネス」のインタヴューの中で

「私が知事になったのは、信州・長野県を県民と一緒に良くしたいと思ったからです。県民への愛情がなかったら、給料を3割カットし、遅日のように地元メディアから叩かれて、正直、割の合わない仕事です。それでも踏ん張ってきたのは、借金の山を未来の子供に残してはならないと考えたからです。」


と語っている。僕は、ここに政治家としての志の高さを読みとる。言葉だけなら何とでも言えるという読み方をする人もいるだろうが、田中さんの行動には、確かに個人の利益という点から見れば、かなり損なことをしていると見えるようなことがたくさんある。それでも、そこに私益を追求していると攻撃する人もいるようだが、見方によってどうにでも見えると言うことだろうか。だが僕は、ここには、私益を損ねても公益を求めるという志の高さを見る。

田中さんは、もっとも大きな目的である財政の再建というもので、県の借金を減らすという実績を作り上げたのだから、実務的な面での能力の高さというものも証明されていると思う。能力が高く、しかも志も高いものを持っている人間はリスペクトの対象になるだろう。

田中さんが、世耕氏のように、長野県民の世論調査をして、どこをどのようにして刺激するような広報をすれば選挙の勝利につながるかという戦略を立てれば、田中さんほどの能力であれば選挙の勝利は得られただろうと見る人は多い。僕もそう思う。しかし田中さんはそのような方向を取らなかった。これは、広報の能力が低かったのではなく、選挙の勝利のために志で妥協するという方向を取らなかったからではないかと思う。

世耕氏は、選挙民の意識をあるがままで受け取り、その現状を前提として戦略を立てていた。選挙民の成長と言うことが、その分析には勘定として入っていなかっただろう。だが、田中さんは、選挙民の現状を分析するよりも、選挙民の意識の高まりに期待をして、ある意味ではどの程度田中さんを理解してくれただろうかと言うことの結論を見るために選挙をしたのではないかとも考えられる。壮大な実験を行ったというふうに外からは見える。

残念ながら選挙に落ちたというのは、選挙民の意識の高まりが期待したほどではなかったと言うことなのかも知れない。しかし53万人の人たちが田中さんを理解したと言うことに僕は希望を見たい気がする。政治家は、その立場から、公共心を持つように意識するのは一般民衆よりもたやすいだろう。しかし、一般民衆が公共心を持つのは難しい。それでも、53万人の長野県民は、そのような意識が育ったと評価してもいいのではないだろうか。

能力の高さは、直接自分自身にその利益が返ってくる。志の高さは、直接的には公共の方に利益が返ってきて、自分に返ってくる利益は間接的なものになる。長い目で見たときに、すぐに自分に返ってくる利益よりも、間接的に自分に返ってくる利益の方が、より大きな利益となるということを、論理的に理解出来たとき志の高さも安定したものになるかも知れない。僕は、これは論理的に正しいと言えるものだと思いたいので、何とか証明したいものだと思う。