植草一秀さんの小泉内閣経済政策批判
マル激の中で語られていた植草さんの、小泉内閣経済政策批判を論理的に理解する努力をしてみようかと思う。僕は経済学を専門的に勉強したことはないので、これが正しいかどうかという評価は出来ない。あくまでも論理的な整合性という面でのみこれを理解していきたいと思う。
経済学の難しさは、現実の複雑な現象を捉えることの難しさでもあるだろう。複雑な現象は、どの視点からそれを眺めるかでまったく違う姿を見てしまう。正反対の判断も生まれてくるだろう。それが現実の弁証法性だ。その時に、自分の視点が正しいという確信がどこから得られるのか。
植草さんの視点からの見方に論理的整合性があることを考え、その批判に一理があることを確認したいと思う。そして、他の視点というものを出来る限り探し求めて、その視点の正しさ(論理的整合性)も考えてみたい。そして、他の論理的整合性のある視点と、植草さんの視点に両立可能性があるかどうかを考えたいと思う。
植草さんのマル激での批判は、まずは小泉政権下での株の暴落が、経済政策の失敗を原因とするものだという指摘だ。株の暴落は、避けられないアクシデントとして起こったのではなく、経済政策の失敗を原因として必然的に起こってきたものだと判断していた。
さらに批判は、その株の暴落に対処して、それを回復させた政策にも間違いがあったという批判に続く。現象としては、ある時から株価は回復するのだが、それは小泉内閣が正しい対処をして、小泉内閣の成果として株価が回復したのではないと主張する。それは、本来の基本的な姿勢を投げ捨てて、目の前の危機を乗り切るために安易に特効薬に手を出した結果だという。それはよくきく薬であるとともに、毒の面も強いもので、将来に対する毒の作用を残してしまったというのが植草さんの評価だ。
この植草さんの論理的根拠というものを可能な限り考えてみようと思う。小泉政権はその発足の時に、ネオリベ路線を強く打ち出し、小さな政府という考え方から、緊縮財政を打ち出した。国債の発行を30兆円内に収めるという公約などはその現れの一つだろう。そのためには構造改革を優先させると言うことを語っていた。
これに対し、植草さんは、構造改革とともに景気回復も同時並行的に考えるべきだと主張していたようだ。景気回復が伴わない構造改革は、改革が完成する前に何らかのトラブルが起こるとする考え方だったようだ。小泉政権の政策はあくまでも構造改革を優先させるというものだと解釈するかどうかは、これからの評価を考える上では大事なことだろう。
改革優先の下での経済政策のスローガンは、企業に対しても、「退出すべきは退出させる」「安易な救済はしない」というものだった。そのおかげで、大企業の倒産などという事態も起こってきた。このような事態に対して株価が落ちて来るというのはある意味では必然的なことであるという。
株価というのは、何かことが起こってその影響で落ち始めると言うよりも、人々が何らかの傾向を予期し始めた頃に落ちたり上がったりすると言う。期待がどこにあるかということが大きいようだ。どんなに大きい企業であっても退出させると言うことが起こった場合、どの企業が退出するか分からない時点では、それを見守ってから投資しようという予期が働くのではないか。それは論理的に理解出来そうな気がする。
だから、小泉政権の経済政策においては、その当初に株価が下がるのは想定済みでなければならない。そして、ある程度落ちたあとに、安定した企業が無駄をなくして、投資が確実に回収出来るという健全経営の方に向かうことによって、投資家の期待という予期が生まれてくるだろうと予想出来る。そうなったとき、落ちた株価が回復するのではないかと思う。
このような見通しがあれば、株価が落ちたことは決して政策の失敗ではないだろう。通過しなければならない一つの段階に過ぎないものになる。しかし、予想外に株価が暴落したと言うことにあわてて、基本政策を投げ捨てたところに植草さんの批判の目が向いている。基本政策を投げ捨てたきっかけは、りそな銀行の破綻処理においてだという。
もし基本政策を堅持していれば、りそな銀行は退出させるべき企業になるし、その他、ダイエーなども退出させなければならなかったというのが植草さんの判断だ。そうすれば、株価はもっと下がっただろうが、そこから回復させることで、基本政策を堅持し、それが正しいことを示せたはずだという。
小泉政権は、りそな銀行を安易に救済したと植草さんは判断している。それが、銀行は潰さないという予期を生み、投資家がまた株式市場に戻ってきたきっかけになったという。これは特効薬ではあるけれど、毒としてのモラルハザードが起きるだろうという。
りそな銀行を救済しなければ、あの時点では金融恐慌に陥る危険があったという判断では、救済は仕方がなかったという判断は植草さんにもある。しかし、そこまで破綻した原因を作った責任者には、しかるべき責任をとらせるということを前提に救済すべきだったと、その救済の方法を植草さんは批判する。もしそうでなければ、銀行の経営が健全化することは望めず、モラルハザードが起きると予想される。
りそな銀行の破綻については、その原因を作ったのは当時の経営陣ではなく、すでに引退した過去の経営陣にこそ責任があったというのが植草さんの判断だ。むしろ現在の経営陣は、過去の失敗を埋めつつあったというのが当時の植草さんの評価だった。もし、責任をはっきりさせるなら、現在の経営陣よりも過去の経営陣を追求しなければならなかっただろう。
しかしりそな銀行においては、むしろ当時の経営陣が責任を問われてりそなを追われてしまった。それは、当時のりそなの経営陣が小泉政権に批判的だったことが関係しているのではないかと植草さんは語っている。本当に責任がある人間を追求するのではなく、口うるさく文句を言っている人間を処分するのであれば、そこには当然モラルハザードが起きる。
健全な経営をするよりも、小泉政権という権力にすり寄る方が生き残りには有利だとなれば、当然そのような方向に企業活動がシフトするだろう。植草さんによれば、りそな銀行の破綻処理以後は、ものを言えない経営陣が多くなったと言うことだ。
さらに問題なのは、この金融恐慌を避けるための処理において、助けてもらったのはアメリカのおかげだと言うことだ。アメリカに助けてもらったので、当然その礼として、回復した株価による利益はアメリカ企業に還流することになった。さらに、マル激での関岡英之氏が語る年次改革要望書によって、日本はアメリカに利益をむさぼりとられる存在となっていったという。小泉政権のアメリカ追従政策は、このときの援助からやむを得ず始まったという面もあるのではないかという。
植草さんが、小泉政権の経済政策は失敗だったという論理は、かなり説得力を感じるものだ。この視点からの論理的整合性があるのを感じる。しかし、世間では、竹中大臣が金融処理や構造改革をうまくやったので、株価も回復して景気が上向いてきたと思っている人も多い。竹中大臣が大臣を辞めると同時に参議院議員も辞めると言うことも、竹中さんが実績を上げてきたのだからと言うことで理解を示す人が多い。
しかし植草さんは全く正反対の評価を語っている。これはどちらの視点の方が妥当性をもっているのだろうか。竹中さんが優れた政策を実現してきたと言うことは、論理的に整合性を持って理解出来ることになるだろうか。
竹中さんの政策に対する批判の視点はよく分かった。政策の基本姿勢を堅持してくれれば、それが間違っていたか正しかったかという評価も出来たはずなのに、それを投げ捨てて特効薬を使ってしまったために、政策の正しい評価が出来ず、しかも将来どのような危機が起こるか分からない状態になってしまった。
日本の経済政策は、これから自転車操業的に、その場で起こってきたトラブルに対処しなければならなくなった。根本的な改革は出来ず、不安定な状態を続けなければならない。それはいつまでもアメリカに支配されると言うことを意味する。竹中さんが、アメリカから高い評価を受けていると言うこととこれは符合するような感じもする。
植草さんの視点が正しいかどうかは、経済という対象が複雑なものであるから分からない。しかし、論理的整合性があると言うことでは、正しいかも知れない可能性は十分あるだろう。小泉政権の側である竹中さんが正しい政策を実現したと言うことは、論理的に整合性があることを理解出来るだろうか。結果的に株価が上がっているのだから成功だという短絡的な思考ではしっくり来ないものを感じる。いくつかの前提から、論理的な帰結によって、その正しさが証明出来るものだろうか。それを考えるヒントになるものを探してみたいものだ。