問題意識のずれを考える


シカゴ・ブルースさんの「ソシュール的な「語の意義」と「語の価値」」というエントリーを読むと、そこにかなりの問題意識の違いを感じる。これは、違いを感じるからと言って、シカゴ・ブルースさんが書いていることに批判的であると言うことではない。シカゴ・ブルースさんが主張することについては大筋で同意する。つまり、問題意識が重なるところでは異論はないのだ。

辞書的な意味で、ある「語義」について、その概念と表現形式との結びつき全体を「語義」と考えれば、フランス語の mouton と英語の sheep とは、概念が違うのだから「語義」が違うと判断出来る。表現として同じ意味、つまりその表現からたどれる関係性を同じにするためには、「語義」が同じ言葉で表現しなければならない。生きている羊を意味する mouton ならば sheep の語を充てて、食肉としての羊を意味する mouton の場合には mutton を充てるのが正しいだろう。この場合には、語義の違いに特に注目する必要はない。語義の違いに対する問題意識は鮮明には現れてこない。

しかし、これが内田さんが語る「語義がかぶっている」と言うことに注目すると、そこに一つの問題意識が生まれてくるのだ。それは、「語義」が同じかどうかに注目しているのではないのだ。

語義がかぶるというのは、同じ対象を見たときに、その対象に対して使う形式(音声・文字)を対応させることが出来ると言うことだ。生きている羊に対して、フランス語なら mouton 、英語なら sheep という語を充てるというのは、その語が同一の対象を見て、それに対して表現するときに使われると言うことで、「語義がかぶっている」と捉える。見ている対象の方に同一性を見ているのであって、「語義」という言葉の方の同一性を見ているのではない。

ところが mouton と sheep と言う二つの語は、違う対象を見たときには「語義がかぶらない」ことがある。それが食肉用の羊を見たときに使われる表現だ。mouton の場合は、生きている羊にも食肉用の羊にも、両方に同じ表現(形式=文字)が使われている。sheep の場合は食肉用の場合は mutton と言う違う表現(形式=文字)が使われる。この違いを考えるために、「価値」という呼び方をそれに充てようと言うのが内田さんの説明であり、ソシュールの発想だろうと思う。

だから、ここでの問題意識は、「語義」の違いを分析することではない。フランスと英国という地域の違いが反映した「語義」の違いのずれが、どのように人間の思考にも影響しているかという、人間の思考と「語義」のずれの関係を「価値」として捉えようと言うことなのだ。

これは「価値」という言葉を使わなくても、現象そのものを客観的に表現出来るように努めて考察することは出来るだろう。しかし、「価値」という言葉を使うことによって、この考察に多くのヒントを与えてくれる。それこそが言語を用いて思考することの本質を教えてくれるのではないか、と言うのがソシュール的な発想ではないかと僕は感じた。ソシュールがそう書いているかどうか知らないので、ソシュール的という表現を使ったが、思考の本質を考える上で、この視点は役に立つのではないかと感じたので、問題意識も芽生えたと言えるだろうか。

語と結びついた概念というのは、対象が単純であれば、対象の存在のあり方からごく自然に見たままのものが概念として生まれるだろう。そこに「語義」のずれは少ないと思われる。「雨」と「rain」の間にどれだけの「語義」のずれがあるか調べたことはないが、単純な現象としてはほとんどずれはないのではないかと思う。もう少し複雑性を反映した「土砂降り」などという語に対しても、英語にそのまま当てはまる単語として辞書には downpour という語が載っていた。

しかし、その地域で非常に重要な対象を指す言葉は、細かく複雑な対象を別々に表現する「語義」が出来たりする。日本語での、魚の成長に従って様々な呼び名で呼ばれているのは、魚という存在が日本人の生活にとっていかに重要であるかを示すものでもあるだろう。

このような言葉には、「語義」がかぶさっていても、概念として違う対象を指す場合の外国語が対応することが多い。これは、その国語を使う人間の思考の構造にまで影響を与えるだろう。何を考えるかという点で、民族的な個性があるのではないかとも考えられる。

靖国参拝問題」で日本が中国や韓国と摩擦を起こすのも、日本人がその言語規範から来る制約で、ものの考え方に独特の傾向があるからではないかとも感じる。それは、個別的な言語である日本語と関係ない、論理的な言語を使えば共通のものが語れるのに、日本語を使うことによって中国や韓国と共感出来ないと言うことがあるのではないだろうか。僕は、中国や韓国の批判の方に論理的な正当性があると思うだけに、そのようなことを感じる。

このような問題は、個人の表現である、個人的な言語の意味に関わる問題ではなく、ある意味では言語規範に関わって生じる問題でもあるように感じる。そうであれば、個人的な言葉の使い方だけに注目していたのでは問題の理解が十分でなくなるのではないかとも思う。日本人の多くが、論理的には変だと思うことを、そちらが正しいと思っていたりするのは、単に論理の能力の問題だけじゃないかも知れないと言うのが最近の僕の問題意識だ。

以前は、論理さえ正しく学ぶことが出来れば、判断も論理的に正しくなると思っていたが、それを邪魔する大きな力が、個人の能力だけではなく言語規範にもあったりしないかと言うことを感じている。

中国や韓国の靖国参拝批判に対して、それは内政干渉であり、文句を言うこと自体が気に入らない、間違っていると思っている日本人は多い。この判断は、僕は以前は論理的ではないと思っていたのだが、もし日本人の言語規範において、ある言葉の語彙が、これを内政干渉だと思わせるような「語義」を持っていたら、むしろ内政干渉だと思う方が論理的になってしまう。そのような可能性を、僕がソシュール的だと思った、内田さんが語る「語義がかぶっている」「価値が違う」という言葉に見たのが、僕の問題意識だ。

論理的判断というのは、たいていが仮言命題の形をとり、その前提が正しいことを仮定して結論が正しいことを主張することが多い。しかし、その前提としていることに対して、その「語義」にずれがあったら、同じ前提の下に思考しているとは言えなくなる。論理的に正しいか否かという判断が、現状認識だけではなく、言語規範の問題としても関わってくると、これはかなり複雑な問題になるだろう。そのような複雑な対象を正確に捉えたいというのが、僕の問題意識として感じるところだ。

このような、思考に影響を与える「語義」の違いを「価値」の違いとして捉えるのは、「価値」が幻想として個々人の頭の中にあるものだという類似性が論理の展開のヒントになるのではないかと思っている。特に貨幣が持っている「価値」がその幻想性を純粋に表しているような感じがする。

普通の商品であれば、マルクスが語るように、社会的に有用な労働の量がどれだけ注ぎ込まれているかが価値の量を決めるという抽象で、価値の実在生を感じることが出来る。具体的な商品は、誰かがそれを作ったものと感じられ、誰かの労働を注ぎ込んだからこそ「使用価値」が生まれたと感じることが出来る。その「価値」は決して幻想ではない。

しかし、造幣局で造られた貨幣は、その造幣局の職員の労働は注ぎ込まれているだろうが、その労働の価値がそのまま貨幣の中に込められているとは信じられない。1億円の紙幣を作った職員の労働は、1億円の価値を生んだとは信じがたい。その貨幣に内在していると思われている「価値」は、全くの幻想だと言わなければならないだろう。

人々が規範として固定化している「意味(対象の関係性)」は、正しく現実を反映した客観的なものばかりではない。むしろ幻想として固定化された規範が多いのではないだろうか。その幻想が、どのように社会的に共有されるかは、複雑で分からないことが多いだろう。しかし、それを考えることで、論理的な正しさというものを深く考えることが出来そうな気がする。

例えば、総理大臣というのは、客観的に考えれば、立派な倫理観と優れた能力(思考力や行動力など)を持った人間がなるのが、論理的には正しいと思える。しかし、人々の言語規範の中に、総理大臣という対象が、立派で優れた人間だという概念と結びついていると、その規範から生まれる論理的帰結は、「総理大臣は立派で優れた人だ」と言うことになるだろう。

時間がたつに連れてその期待が裏切られると、人々の言語規範の中から、「今の総理大臣は違う」という判断が生まれる可能性はあるが、なったばかりでまだ期待を裏切っていない総理大臣は、現実を客観的に判断して評価するよりも、言語規範から得られる評価の方が信じられてしまうかも知れない。

人々が、安倍さんに関しては、実はほとんど正確な情報を持っていないときに、高い支持率という高い評価を与えているとしたら、それは、人々が判断を間違えていると言うよりは、言語規範から論理的に帰結しているとも考えられるのではないだろうか。根拠は現実にあるのではなく、幻想としての言語規範の方にあるのではないだろうか。

幻想としての言語規範の運動(生成や消滅・発展など)は、それを「価値」との類似で捉えることで、論理的な考察が進むのではないか。そのような問題意識から、僕は内田さんが語るソシュール的な説明に注目したのだった。