言語における使用価値と交換価値のアナロジー


シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い方である語彙に混乱があるのに気がついた。交換価値と言うべきところで使用価値という言葉を使ったりしているような気がした。これは、頭の中では思考が先へ行っていたにもかかわらず、表現がそれに追いつかずに、言葉が混同してしまったようだ。

そこでもう一度、言葉の使い方に気をつけながら、自分が何を言いたかったのかを考えてみたい。言いたいことの中心は僕がソシュール的だと思ったもので、具体的な国語の違いから来る言語規範のずれが、思考のずれにも影響を与えると言うことだ。これは、ソシュール的と表現はするものの、ソシュール自身が語ったかどうかは分からない。内田さんが紹介するソシュールの言説を基に、そのようなものだろうと僕が想像したものだ。

言語規範のずれを、語義がかぶっているにもかかわらず意味に違いがあると言うことから、内田さんはそれを「価値が違う」と表現していた。そこで表現されていた「価値」というものを、僕は商品の価値との類推で理解しようとした。僕は、そこで言われている「価値が違う」というものを、ある意味では、交換するときの価格が違うという意味で理解していたような気がする。その連想から貨幣の価値というものの考察が出てきたのだと思う。

ある言語表現を翻訳するときに、語義がかぶっていて、その具体的な物質的対象を、同じ語義の言葉で置き換えれば、具体的な言語表現の意味としては翻訳が出来る。しかし、それを具体的な対象を知らずに、言語表現だけで意味を受け取ろうとすると、語義がかぶっていない部分で、意味の取り違えをすることがある。この意味の違いに「価値」の違いを見るというのは、どういうことになるだろうか。

具体的な生きている羊を見て mouton と表現したものを、sheep と表現して翻訳すれば、そこに意味の食い違いというずれは生じない。しかし、それが具体的な生きている羊を見て表現した、ということを知らずに、言葉だけを見て理解しようとすれば、mouton を mutton と表現してしまう間違いをするかも知れない。この場合は、語義のふくらみが違うために、かぶっていない意味の方を間違えて表現してしまったことになる。

これは、個人の認識に間違いがあったり、個人的な表現の間違いとは必ずしも言えないのではないか。社会的な規範の方に間違いを起こさせる原因があったために起こった間違いではないか、と言うのが、僕がソシュール的と呼びたくなる部分だ。言語規範の構造に支配されて思考に間違いが起こるという誤謬論と言えばいいだろうか。

僕が商品との類比で見たのは、具体的な有用性から得られる使用価値と、その具体的な使用価値を持っていることを基礎とした交換価値の関係が、具体的な言葉を使って表現することと重なってくるのではないかと感じたことだ。これは比喩的に捉えることが出来るのではないかと思った。

具体的な有用性を持った商品は、そこに具体的な労働が投下されており、その労働によって具体的な価値の量を持っている。それは、量としては抽象化されてはいるけれど、それが存在すると言うことは具体性から保障されている。幻想として、頭の中だけに見えている価値ではない。

この交換価値は、社会的に正しい交換(抽象的労働量が等しいという同じ価値を持っているもの同士の交換)を生み出すと、理論的には考えられる。これは、具体的な使用価値を生み出す労働を含んでいるからこそ言えることではないだろうか。

もし具体的使用価値を持たない商品である貨幣の場合は、その貨幣を造り出すのに使われた抽象的労働量を考えようとしても、それが存在しないのであるから、そのような交換価値はないとしか言えないのではないだろうか。貨幣が持っている交換価値は、あらかじめ幻想的に設定された観念的なものと考えるしかないのではないだろうか。

それは100円の価格を持っている商品は、100円の貨幣と交換出来るという、あらかじめ決められた幻想的な価値しか持っていないのではないだろうか。商品の中に込められている人間的労働の量で両者の価値を等しくさせるような数式はないのではないだろうか。

100円の貨幣は、社会にそれが貨幣であるという幻想が流通している間は、どんな商品であろうとも、100円の価格を持った商品と交換可能になる。しかし、100円の価格を持った商品が、いつでも100円の貨幣と交換されて売れると言うことはあり得ない。それが100円の価値を必ず持っているという社会的な幻想は成立しない。

貨幣の持つ交換価値は、使用価値を基礎に持っていないので、使用価値を具体的に持つ一般の商品とは、その交換価値にレベルの違いが存在するのではないかと思う。具体性と抽象性という、違う属性が、この二つの商品には張り付いているのではないだろうか。貨幣の見かけの具体性である、硬貨であったり紙幣であったりするのは、それは本質ではなく、使用価値が捨象されて交換価値のみが幻想として流通していると言うことが本質なのではないだろうか。

これを外国語の翻訳の場合について類推してみると、具体的な対象を見て表現した言葉を翻訳する場合が、具体的な使用価値を持っている商品同士の交換価値を比べることにつながってくるのではないだろうか。具体的な対象を見ている場合は、その言語表現が指し示す具体的対象という関係性は、そのまま翻訳した言語表現にも受け継がれる。交換価値が等しく比較される商品との類似性をを感じる。等しい意味が比較されて受け継がれるような感じだ。

具体的な対象との関係を了解して翻訳するのではなく、言語としての表現を読みとって翻訳する場合は、語義のかぶっていないことが影響を与えてくる。違う意味でその言葉を受け取って翻訳する間違いが生じる可能性が出てくる。これを価値が違うと言うことの連想で捉えると、この場合は、具体的な対象が隠れて、幻想的に設定された語彙という規範の違いが「価値の違い」を生み出したと比喩的に捉えられないだろうか。

そんなものは、言語の内容を理解するときに、常に現実との連関を捉えるように注意していれば避けられるのだという人もいるかも知れない。規範に影響を受けて間違えるのではなく、読み方が悪いか・下手だからそうなるのだと言いたくなるかも知れない。もちろん正確に意味を読むために最大限の努力をしなければならないとは思うが、努力したにもかかわらず、やはり間違えることは避けられないのではないだろうか。

言語規範の全てを正しく理解しなければ翻訳など出来ないと言ったら、翻訳が出来る人は誰もいなくなるのではないだろうか。むしろ、翻訳には間違いが付き物で、どの点に気をつければ致命的な間違いをせずにすむかということを考えた方が建設的なのではないだろうか。

外国語の翻訳についての連想から、語の意味における「価値の違い」という発想を考えてきたのだが、これは外国語の翻訳だけに限らず、同じ国語を使っている者の間にも「翻訳の間違い」と言ってもいいような誤読はたくさんあるのではないだろうか。

同じ日本語を語る者同士でも、ある言葉の意味の中に同じ概念を持たない者同士がいてもおかしくないだろう。国を「愛する」と語ったときに、この「愛する」の意味する言語規範が全く重なるというような人の方がむしろ少ないかも知れない。

このような語彙における規範の違いを持つ者が、相手の言葉を理解するときに、自分の言葉に翻訳して理解しようとすると、そこに間違いが生じる可能性が起こる。ネット上では、「脳内変換」などと言う言葉で揶揄されていたが、どの語彙が正しいかは、にわかには決定出来ないだろう。

数学者同士の会話で、専門的な数学に関する会話をするときは、二人の数学者の言語規範は全く重なるだろう。しかし、数学以外では、たとえ学問的な内容であっても、対話する二人の間の言語規範が違うことの方が多いのではないかと思う。それを同じものにするために、論じる前に言葉の定義をしたりするのだが、語られている言葉を全て定義することも不可能なので、これは永遠に避けられないジレンマのようなものではないか。

また、同じ問題意識で語っているときは、語彙の違いに気づくこともたやすいが、問題意識が違うときは、違う語彙の基に語っていると言うことに気づくことがまた困難だ。このような問題を、僕はソシュール的な「語の価値」の問題ではないかと思っている。人間のコミュニケーションを妨げるもの、誤謬論としてこれを考えたいというのが僕の問題意識だ。そして、他人が書いた文章を正しく理解するための技術を向上させると言うことが目的でもある。それは言語規範に注目することで向上する技術ではないかと、今は感じている。