「語義」と「価値」−−語の意味


内田樹さんが『子どもは判ってくれない』の中で「語の「意味」には「語義」と「価値」の二つの種類がある」と書いている。これは、ソシュールが『一般言語学講義』で説いたもので、ソシュール的な視点からの「意味」の考察になっているそうだ。

三浦つとむさんは、言語を個別的な表現として捉えた。現実に語られたものを言語として考察の対象にした。言語は表現の一種であり、表現としての資格を持たないものは言語という対象からは外して考えた。それに対してソシュールは、個別的な表現ではなくて、社会的な存在である、共通認識としての言語規範を言語学の対象に選んだ。

そのソシュール的な発想から、内田さんが語る「語義」と「価値」という、意味の二つの側面を発見することが出来る。この二つの側面は、個別的な表現が持っている関係性としての「意味」ではない。言語規範という社会的存在が、個人を越えた性質として持っている側面としての「意味」だ。

このような視点は、ソシュール的に言語を捉えなければ生まれてこないと思われるので、同じようなことを三浦さんは論じなかったのではないかと思う。言語規範論としてどこかで語っていただろうか。僕は、この「語義」と「価値」というとらえ方は、三浦さんと違う視点として言語のとらえ方としてはとても面白いものだと思う。この面白さに、ソシュールを再評価したいという思いが生まれる。三浦さんが批判した側面ではない、別の視点としての価値をそこに見出す。三浦さんが批判した側面しか知らなかった頃には気づかなかった面白い観点だと思う。

内田さんは、「語義」と「価値」について次のように説明する。

「「語義」というのは「語の辞書的意味」であり、「価値」というのは「意味の厚みや幅」のことである。
 例えば、フランス語では「羊」を指すのに mouton という語を用いる。英語には「羊」を表す語は二つあり、「生きている羊」には sheep、「食肉としての羊」には mutton を充てる。私たちは平気で「英語のシープはフランス語ではムートンて言うのだよ」というふうに同定して怪しまないが、sheep は「食肉加工された羊肉」という意味を含まないので、この二語は「語義はかぶっている」が、「それぞれの語の意味の厚みや奥行き(つまり「価値」)は違う」のである。」


ここで考察している「語義」と「価値」は、両方とも言語規範が持っている性質である。個別的な表現として考察されているのではない。それは一種のレベルの違いとして考察されている。いわゆる国語としての違いが、フランスと英国での規範の違いに現れている。その国が違うという地域性を捨象すると、「辞書的意味」として語られる「語義」になると考えられる。

これは、翻訳された文章を読むときなどに、かなり影響を表してくる問題ではないかと思う。その国の言葉で読めば正しく意味を受け取れる文章が、翻訳して国語を変えたために意味を取り違えるという問題が起こってくるだろう。これは、翻訳者の能力という個別的な要因だけではない、言語規範という社会的存在そのものも関わってくる問題ではないかと思う。

さらに考えるならば、同じ日本人であっても、世代が違うと言語規範が違ってくると言うことが起こる可能性がある。そうなると、同じ形式の言語を語っていても、規範が設定する関係性が違ってくるので意味を取り違えると言うことが起こる。これをどのように解決するかは、教育として重要な問題だと思う。

数学の授業などでは、生徒の側が持っている言語規範と、僕が持っている言語規範の違いを常に感じている。これをどう近づけるかというのが、教育をどのように有効にしていくかという問題でもあるのかなと思う。その意味では、ソシュールのこの発想は、教育という観点からは非常に重要で優れた視点だと思う。

ソシュールが言語のこの側面を「価値」と呼んだのは、貨幣が持っている「価値」との連想からも面白いと思う。貨幣が持っている「価値」は、商品と交換出来るという「交換価値」のことを指す。物々交換の時代なら、両者にとって有用だという「使用価値」があるものが交換されると言うことが論理的に整合性があると考えられる。しかし、貨幣には、それ自体では何にも使えないと言う、有効性がゼロだという性質がある。なお「価値」という言葉は、ソシュールの言葉を日本語に翻訳した言葉だが、これが商品が持っている「交換価値」との連想で理解されれば、翻訳における意味の違いを埋めることが出来るのではないかと思う。それは、翻訳した語彙としての意味を受け取っているのではなく、具体的な存在を眺めることで意味を受け取ることになるからだ。

使用価値がないものが何故に交換されるのかという不思議な面を整合的に理解しなければならない。これは、交換そのものが社会的なものになり、必ずしも使用価値のあるもの同士だけが交換されると言うことではない時代になって、交換のために使う目的の商品が生まれたという時代の到来とともに貨幣というものが誕生する必然性があると考えられる。

商品は、その持ち主にとっては使用価値がないが、買い手にとっては使用価値があるという、立場に違いによって価値の見え方が違う存在である。物々交換の時代には、相手がその使用価値を求めているという前提で交換がされなければならないので、交換相手を探すのが困難になる。しかし、どんな商品とも交換は出来るという、交換を目的にした貨幣という商品が出来れば、物々交換で商品をため込んでおかなくても、とりあえず貨幣を持っておけば、交換という機能を保つことが出来る。

貨幣というのは、そのように便利で役に立つ商品になる。この便利さが社会的に承認されれば、貨幣そのものに使用価値がなくとも、交換価値という「価値」はそこにあると誰もが認めることが出来る。しかし、それは実体としてそこにあるものではない。誰もがそれに価値があると合意したことを信頼してそこに「価値」を見ると言うことになる。「価値」は幻想に過ぎないものだが、その幻想が貨幣の「価値」を支える。

だから、幻想がなくなった貨幣は、人々の信頼を失い、その額面どおりの「価値」を持たなくなる。人々の合意という幻想こそが貨幣の「価値」の源泉であると言うことと同じ構造が、ソシュール的な言葉の意味における「価値」にもあるように感じる。

辞書的な意味というのは、ある意味では権威が認めた額面どおりの「価値」であり、「価格」に近い感覚ではないだろうか。それに対して、「意味の厚みや幅」というのは、人々がそれを認めている・合意している間は社会的に通用するものになるのではないだろうか。

それが時代とともに変わっていくのは、時代の物理的状況の変化に応じて、人間の精神的状況も変わっていくからだろう。人々の合意が違う方向へ向いていって、語の「価値」に変化が出てくるのだろう。ある方向に肥大化したり、減衰したりして、広く使われる流行語になったり、死語になったりして忘れられるのではないだろうか。それは価値が高まったり低くなったりするイメージと重なったりする。

この語の「価値」という発想はどのような点で役立つものになるだろうか。一つは、コミュニケーションを円滑に進めるため・正確な伝達のために役立てると言うことがあるだろう。「価値」は、言語規範のずれを規定するものになる。言語規範にずれがある人間同士が言葉によるコミュニケーションをすれば、そこには伝達の間違いが生まれるだろう。翻訳における語の意味のずれを修正しなければならない。「価値」の違いに注目する視点は、そのようなコミュニケーションの正確さという点で役に立つだろうと思う。

教育という営みは、コミュニケーションを通じて行われるので、コミュニケーションが正確に行われることは、教育の効果も高めることになるだろう。教師と生徒の間の言語規範のずれは、教育として研究に値する対象になるのではないかと思う。同じ発音の言葉をオウム返しに繰り返せたとしても、それが生徒の中に正しい認識をもたらせたとは言えないだろう。暗記した知識を増やすことだけが教育の目的ではない。生徒の認識を深めるということを目的にするなら、言語規範のずれを深く分析しなければならないだろう。

もう一つの効用は、物事を多様に捉えて考えるという、思考における方法として語の「価値」を考える視点を持つと言うことがあるのではないかと思う。我々が対象を捉えるとき、心を白紙にして、何もないところに対象の像が視覚的あるいは聴覚的・他の感覚を基にした像がぽっかりと浮かんで理解すると言うことはないのではないかと思う。

言語のない時代の人間の思考がどうなっていたかは分からないが、すでに言語が社会的に流通している世界で生きている我々は、ものを考える際に言語が浮かんでくるのを避けることができない。つまり、対象を捉えるときに、どのような言語を使っているかと言うことが大きく影響してくる。また言語があるおかげで、物事を深く捉える思考が出来ると言うこともあるだろう。これはソシュール的な視点であり、言語規範の構造に、思考の構造が支配されると言うことが構造主義的な視点ではないかと思う。

我々が、言語によって世界を切り取るというのは、そのような意味ではないかと思う。ある対象を思考するとき、一つの言語規範で、固定的にそれを捉えるのではなく、言語規範に多様性を持たせることで、その対象のとらえ方にも多様性を持たせることが出来る。つまり、物事を多面的に眺めると言うことの工夫で、語の「価値」という視点を方法論的に使うことが出来るのではないかと言うことだ。

マル激の中で、神保哲生氏が「談合」という言葉を巡って、今では犯罪行為として法律の中に書かれているが、その昔は決して悪い言葉ではなかったという、言語規範の違いを語っていた。談合坂という地名が残っているように、戦争をするよりは話し合いで解決した方が、より利益が大きいと判断されれば、「談合」ということも正しい選択だと言える。

法律において「談合」が禁止されているのは、その話し合いが秘密裏に行われて、一部の人間だけが不当な利益を得ようとするので、その不当性が犯罪として問われるのだと考えなければならない。「談合」そのものに不当性があるわけではない。このような言葉は、物事を考えるときにたくさん見つかるのではないだろうか。

「職務の遂行」も、それが行われることが正しくて、それに反することが全て悪いという言語規範で捉えると、現実を深く捉えることが出来なくなる。「善」や「悪」という言葉もそうだ。最近気になったのは、時効によって処罰を免れた殺人犯が、処罰されないのはケシカランというような判断だ。これは「罪」「処罰」「時効」というような言語規範の意味のずれである「価値」に関わってそのような感情的反発が生まれてくるような気がする。このケシカランという感情が、「時効」そのものの否定にまで言ってしまうと、論理としては間違っているのではないかとも感じる。言語規範の分析でこの論理を考えてみたいものだと思う。