文脈からの文意の理解、あるいは文脈の勘違いによる誤読


内田樹さんの「2006年07月23日 Take good care of my baby」というエントリーに関する文章をいくつか書いたのだが、そのうちのはてなダイアリーに書いたものにwitigさんという方からトラックバックをもらった。はてなダイアリートラックバックは、アダルトサイト関係のものなどをはじく機能がないので基本的に反映させないことにしている。だから、僕がそれについて何かを書くと言うことがなかったら届いているかどうかは分からないことになるだろう。

今回witigさんの「2006年11月29日の日記」について、僕が言及しようという動機を持ったのは、これが誤読というものを考えさせてくれるものだと思ったからだ。ライブドアのブログにも似たような内容のコメントが届いていたが、これもおそらくwitigさんのものではなかったかと思っている。これに関しては、反映させるかどうか迷っていて、まだブログには反映させてはいなかった。

ライブドアのブログへのコメントも誤読ではないかと感じるものだったが、短いコメントではそのポイントをつかむのも難しかったし、誤読であるという説明を理解してもらうのも難しいと思った。エントリーとして書くだけの材料を持たず、コメント欄で説明するには複雑な内容だったので、もしコメントとして反映させても何も言及せずに、形の上では無視して通り過ぎることになるだろうと思った。結果的に無視することを示すために反映させることにためらいを感じていたのだった。

コメント欄というのは掲示板ではないので、時に偶然に投稿者同士で会話になることもあるだろうが、基本的にはブログの管理者と訪問者との間に起こるコミュニケーションのやりとりがコメントだと思っている。だから、コミュニケーションを生じさせないようなコメントは原則的に反映させないことにしている。ライブドアのブログにはそのような機能があるので利用しているのだが、はてななどはそのような管理が出来ないので、投稿されたコメントは全て反映するようになっている。そのかわりに言及する必要がないと感じたコメントには返事を書いていない。

witigさんはトラックバックという形でまとまった主張を書いてくれたので、僕が感じていた誤読の内容がよりハッキリと理解出来た。それで、それについて何か言及することも出来るようになったというわけだ。witigさんは、僕の主張に賛同しないかも知れないが、まとまった意見があればこそそれに言及出来るというのが、ブログにおけるトラックバック機能の優れたところではないかと思う。

witigさんの誤読は「必要」という言葉の意味の文脈的な読みとりの誤りだと思う。この「必要」を、条件なしに二者択一的に受け取ったことに誤読の原因があると思う。おむつの必要性があれば、それは100%おむつをする必要があるし、必要性がなければ100%おむつをしないことになるという理解だ。

だから、内田さんが「おむつの必要がない」と語ったとき、それは、いついかなる時でもおむつが要らないのだというふうに受け取ってしまったのだろうと思う。このように「必要」を読みとれば、具体的に一つでも「必要」な時を見つければ論理的には反駁出来てしまう。「いついかなる時」というのは全称命題になってしまうので、それを否定するには特称命題の存在を示せばいいことになるからだ。

witigさんは、具体的な例として

「というか、自分の育児の経験からすると、シグナルが読めたところでおむつは必要だと思うのだが。自分もおむつがえの経験があるがそのときに子供がいかにもおしっこをしそうだということはよくあることである。しかし、だからといっておむつなしでどうやって対処すればよいのか見当もつかない(自分の場合はいそいでおむつを付けなおしたが、間に合わずしょんべんだらけになったこと数回)。」

「本当に内田樹がいうように「「ほい」と身体から離して、排便させちゃえばいい」のであろうか。自分のうちでそんなことした日には嫁になに言われるかわかったものではない。
街中や電車の中、店の中で「「ほい」と身体から離して、排便させ」ている親子がいたとして、「ああ、あの親は子供の細やかなコミュニケーションができていていい親子だな」と笑ってられるだろうか?」


というようなものをあげている。「いついかなる時でも」おむつの必要がないのなら、このような具体例の時だっておむつが必要なくなってしまうはずだ。ところが、この場合はどうしても「おむつは必要だと思うのだ」と感じてしまえば、内田さんの主張はおかしいという印象を持つようになる。それでは、内田さんは本当に「いついかなる時でも」おむつは必要ないと語っているのだろうか。

内田さんは、「日本ではいま「二歳までおむつをとる必要はありません」ということが育児書でいわれているそうだが、三砂先生によると、これはぜんぜん育児の方向として間違っている」ということから話を始めている。つまり内田さんが言う「必要」というのは、「二歳までおむつをとる必要はありません」という言葉で語られている文脈で理解するべき「必要」なのだ。「いついかなる時」ではない。

現在の育児では「二歳まではおむつが必要」という前提でそれが考えられていると理解していいのではないだろうか。二歳というのは微妙な年齢だろう。成長の早い子は、すでに自分で排泄の処理が出来ているかも知れない。また、言語によるコミュニケーションが出来れば、自分で排泄の処理が出来なくても、尿意や便意を催していることは伝えることが出来るだろう。

つまり、二歳くらいになれば、おむつの必要がなくなるというのは成長の具合によってある意味では当然のものとして考えられる。これは、平均的に見て二歳くらいがそのくらいになると考えられているのではないか。三砂さんの研究は、二歳までおむつをつけている「必要」は無いという主張なのだと思う。生まれた瞬間からおむつがぜんぜん要らないと言うようなものではないだろう。

二歳までおむつをしている必要はない。もっと早められる可能性があるというのが、「シグナルを読む」という技術に結びついているのだと思われる。だから、二歳までの間の一定の期間は、おむつが必要だと考えても、三砂さんの研究においては何の矛盾もないと思われる。おむつの必要な時期をもっと早められると言うことが研究の中心なのだと思う。

「現に生後2週間でおむつを取ってしまう社会もあるんだそうである」という文章も、この文脈で理解すれば、極端な例としては二歳どころか二週間という例があるので、日本社会だってもう少し早めることが出来る可能性があるのではないかということを語っていると僕は理解した。

内田さんがこの国を具体的に語らなかったのも、日本よりも早くおむつをとる国があるということを確認すればいいのであって、どこの国かと言うことは大事なことではないと考えたからだろう。すでに先例があることというのは、実践的には出来るのだという確信が持てる。見るからに不安定な二輪車に乗るなどは、初めてそれを見る人には出来そうもないことのように見えるが、誰かがそれをやっている・出来たと言うことが分かると、自分にもそれが出来るだろうと感じる人が多いという。先例というのは、実践的にそのような意味を持っている。「2週間でおむつを取ってしまう社会」というのは、そのような先例として出しているのだと、僕は理解した。

あと「「母親にシグナルが読めればおむつは要らない」というのを科学的に証明するのは無理だと思うのだがどうだろうか」という疑問については、「科学的」と言うことをどのような文脈で理解するかで判断が違ってくるのではないか。僕は、この「科学的」という意味を「任意性を持った法則」という意味で理解した。

「仮説実験授業というものは子どもたちに歓迎される」と言うことを、仮説実験授業研究会は「科学的」に証明したと僕は思っている。仮説実験授業研究会は、仮説実験授業をする度に子どもたちにその授業が面白かったかどうかを採点してもらうことにしている。そして、結果的には平均して90%くらいの子どもたちが、「とても面白かった」か「面白かった」という評価をしてくれる。

これは日本全国どこの学校でもそう言う評価をもらう。特定の条件下にある学校だけがそのような評価をくれるのではない。任意の学校で、自由に自分の感想を述べる雰囲気の中でそのような評価をもらう。そのような評価を提出することが何かの利益を生むのでもなく、何の権威もない、おそるおそるやるような仮説実験授業でも、だいたいがそのような評価をもらうことになれば、その評価にはどこの学校でもどの教師がやってもという「任意性」を持つことが言えるだろう。この「任意性」こそが「科学的」と言うことだと僕は理解している。

だから三砂さんの研究に関しても、子どものシグナルを読むことに特に優れている母親を研究するのではなく、ごく普通の平均的な母親を対象にして、どの母親でもという「任意性」を持った結果を出すのであれば、それは「科学的」になるのだと思う。もし「任意性」が得られないのであれば、それは「科学的」にはならないのではないかと僕は思っている。

内田さんが語っていることは、僕には十分整合的で論理的なものに感じる。また、三砂さんの研究の方向というのも、客観的・科学的なものを感じる。この内容が、どうして反感を持たれた読み方をされてしまうのか、自分がそのような読み方が出来ないだけにとても不思議な感じがする。