「ファシズム」について考える−−特に抽象の過程について


ファシズム」の概念やイメージについては専門家でさえも一致したものがないそうだ。これは現実を対象にした考察ではしばしばそういうことが起こるのではないだろうか。現実からある概念を抽象するとき、その対象をどういう視点から見るかで抽象の過程が違ってくる。この違いは概念の形成やイメージの全体像に反映してくるだろう。

「言語」の概念も三浦つとむさんとソシュールの間には大きな違いがあるように見える。これは、どちらが正しいという問題ではなく、何を解明したいかという目的の違いが、対象に対する視点の違いに結びつき、それが抽象(何を引き出すか?)=捨象(何を捨てるか?)というものに結びついて、それらが概念やイメージの違いに結びついてくるものと思われる。

具体的な言語現象において、直接は伝わらない、言語表現の背後に隠されている人間の認識がどうして他者に伝わるかというメカニズムを解明したいという目的であれば、三浦つとむさんが定義する「言語」の概念がふさわしいと思われる。ソシュールについてはあまり詳しくは知らないのだが、内田樹さんが引用して語る内容は、世界を認識する際に世界のとらえ方に言語がどのように有効に働きかけているかという、言語によって人間の世界が広く深くなっていくメカニズムを考えることが多い。そしてその際には、ソシュール的な思考がふさわしいように僕は感じる。

日本において「ファシズム」という政治体制が存在したかどうかと言う判断においても、似たような抽象の過程の違いを感じる。それは、何を目的として「ファシズム」という概念を利用したいのかと言うことが大きく関わってくるような気がする。そして、その目的によって選ばれた概念を使えば、「存在した」「存在しない」というどちらの判断も成り立つような感じがする。それは、定義を選ぶことによって、それを前提として帰結される論理的な判断のように思われる。

これはたとえば、何ものかが「赤い」というような判断をするとき、典型的な赤色に対しては誰でも同じ判断をするかも知れないが、ちょっと他の色に見えそうなとき、もしも「赤色」と「朱色」を区別したいという人だったら、判断が違ってくることもあるだろう。「赤である」という判断と「赤でない」という判断は、対象の物理的性質を反映したものではなく、「赤」という言葉の概念の違いによって論理的判断が違ってきているものだと思われる。似たような判断の違いが「ファシズム」という言葉にもありそうだ。

歴史的な事実がただ1回のユニークなもので、そこからもっぱら解釈を引き出したいと考えている人は、「ファシズム」という言葉をその由来とも言えるイタリアのファシスト党と結びつけて概念を作るのではないだろうか。この場合の「ファシズム」は具体性にベッタリ張り付いた抽象という感じになるだろう。他の国の政治体制が「ファシズム」であるかどうかは、イタリアにおける「ファシズム」にどの程度似ているかで判断される。

この場合の「ファシズム」概念は科学的な検討に値するものはたぶん得られないだろう。現実に存在するものが概念の根拠になってしまうと、その概念が、現実を深く知れば知るほど変わってしまうからだ。極端な場合は、最初提出された「ファシズム」概念が、実際のイタリアをよく調べていたら当てはまらなくなり、イタリアにさえも「ファシズム」はなかったというようになりかねない。そうなると困るので、最初の概念は現実の新発見に際して修正されることになる。

そうすると、これはイタリアにおける「ファシズム」を「ファシズム」と呼ぶので、イタリアには「ファシズム」はあった、と言うトートロジーになり、反証は不可能になり科学としての資格を失うだろう。科学は普遍的な性質に関わる法則を語るものだから、歴史が1回きりだと考えたら、これはどうしても科学の対象にはならないだろう。そして、そのような抽象の過程を経て得られた「ファシズム」という概念は、客観性を判断する対象にはならないだろうと思う。

このように作られた「ファシズム」という概念に、「悪」のイメージがつきまとったりすると、ある対象を「ファシズム」だと判断した時点で、それを非難することになる。「ファシズム」が民衆を弾圧する「悪」だというイメージがあれば、日本はそのような国ではないと言うことを主張したい人は、日本に「ファシズム」があったと言うことを感情的に認められないだろうと思う。

歴史は1回きりだという歴史観を持っていると、日本に「ファシズム」があったはずがないと言う前提から思考を始めるのではないかと思う。そして、そのような思考にぴったり合うような「ファシズム」の定義を探し、それを概念として採用するだろう。これは、どこかに「ファシズム」の正しい定義があり、その定義に照らして「日本にファシズムはなかった」と判断することが客観的に正しいと言うことを導かない。むしろ、「ファシズム」の正しい定義などないのであって、それは恣意的に決められるのだと言った方がいいだろう。

このような思考は判断を客観的に導くのではなく、むしろその逆に、日本に「ファシズム」があったはずがないから、最初から「ファシズム」がなかったという結論を導くことが目的で論理を構築してしまう。これは論理的には間違いがないように構築できるから、そのおかしさを理解するのは難しい。だが、これは論理的につじつまを合わせただけのもので、現実を少しも反映したものではないということは言えるだろう。

「日本にファシズムはなかった」という判断が、全てこのように最初から「ファシズム」の定義に含まれている判断だったかどうかは、その言説を詳しく検討してみないと分からないが、抽象の過程が、イタリアのファシスト党から引き出されていて、他との比較が対等でないよう面があれば、このような論理の構造が見出せるかも知れない。いずれにしろ、歴史が1回きりだというような基本的な発想は科学にはならないし、それは客観的な判断にもならないと言うことは重要だろう。

具体的な対象の一つを抽象の過程の中心に据えるのではなく、多くの似たように見えるものを比較して、対等の対象として共通の性質を引き出している抽象の過程は、それは科学的な検討に耐えうる定義を提出する可能性がある。

このような発想は歴史を1回きりのユニークな事実だと見る見方ではない。むしろ、同じような条件下では同じようなことが繰り返されるという普遍性を求めようとする見方になる。具体的な現象として現れるときは、そこにはユニークな一面もあるだろうが、それは捨象されて、ユニークでない共通の面が抽象されることによって普遍性を見ようとする。これは科学の発想としてとらえられる。

歴史を科学的に見ようとする観点からは、「ファシズム」という概念は、そのままで具体的に現れることのない抽象的な概念になる。それは多くの対象を比較することで共通部分が抽象されたものになる。と言うことは、発想としてはまず多くの共通部分を持つ対象が存在するという判断があって、そこから概念が抽象されていくという過程が見られるだろう。

このことは、「ファシズム」を抽象する対象として、日本の敗戦までの政治体制を含むと見るのなら、日本に「ファシズム」があったという判断を予期しながら抽象することになるだろう。だから、この概念を使えば、当然日本に「ファシズム」があったという判断になるに違いない。

こう考えれば、日本に「ファシズム」があったかなかったかという判断は、ある程度の先入観に左右されながらしていることになるのではないかと思う。それがなかったと思いたい人は、なかったと結論できるような概念を抽象し、あったと判断したい人はあったと結論できるような概念を抽象することだろう。それでは、この両者には客観性というものはあまりなく、単に見解の相違・感じ方の違いというものがあるに過ぎないのだろうか。

これは、何を解明したいかという目的の違いが、その概念の妥当性というものに関わってくるような気がする。歴史を物語として1回きりのものだと考えるならば、何をどう呼ぼうと自分の自由だと言うことになる。それは物語なのだから、どこにフィクションが含まれていようとかまわない。だが、歴史から何らかの教訓を引き出し、それを未来に役立てようとするのなら、それにふさわしい概念を作らなければならないだろう。

ファシズム」を考えるというのは、将来、この「ファシズム」と呼ばれるような政治体制に似たようなものがこの戦争がもたらした災厄を再びもたらすことのないよう、「ファシズム」が成長しないように警戒すると言う目的でこれを考察するのではないかと思う。この目的にふさわしい概念は、やはり1回きりの特殊な事実として概念を作るのではなく、普遍的なものとして、その徴候を見つけられるような概念を作る必要があるだろう。

日本が経験した戦争や軍国主義に対して、それを災厄だと思うなら、日本の政治体制を「ファシズム」だと捉えて、他の「ファシズム」との共通部分を拾い出し、将来(もしかしたら現在でも)、同じような「ファシズム」が日本社会を覆うことのないように警戒をするという姿勢が必要だろう。そのような目的からすれば、当然日本には「ファシズム」があったという判断になるに違いない。

日本を含む多くの国の現象から、「ファシズム」と呼ぶにふさわしいものを抽象し、それを「ファシズム」と呼ぶなら、日本に「ファシズム」が存在するのは定義から来る論理的に自明な帰結になる。問題は、その抽象の仕方に妥当性があるかどうかを検討することだろう。多くの資料からそれを学び取りたいと思う。そしてその上で、丸山が語る「ファシズム」の意味をもう一度考えてみようと思う。

なお概念の形成としては、三浦さんが言語論で使ったような手法が分かりやすいのではないかと思う。三浦さんは、まず言語を含む「表現」という概念を出発点にしていた。言語が「表現」としての特徴を持つことは誰でも賛成することだろう。言語は「表現」の一部だ。だが、言語と「表現」とはイコールではない。「表現」の中には言語と呼べないようなものも入っている。たとえば絵画などはそうだ。そのような言語ではないものと言語との違いを考察することによって、三浦さんは言語の特性を引き出そうという抽象の過程をたどった。

ファシズム」の場合、それが「全体主義」であるとか「軍国主義」であるとか言うことは反対する人がいないだろう。だが、その中には「ファシズム」でないものも含まれている。だから、日本は「ファシズム」ではなく「全体主義」だとか「軍国主義」だという言い方があるそうだ。「ファシズム」ではないが「全体主義」であるものとか「軍国主義」であるものとか言うものと、「ファシズム」との違いがはっきりすれば「ファシズム」の抽象の過程というものもハッキリしてくるかも知れない。そのような方向で考えてみようかと思う。