理論構築における抽象(=捨象)−−何を目的として何が引き出され、何が捨てられるのか


わどさんから「「成熟社会」論の震源地/批評」というトラックバックをもらった。トラックバックをもらった僕のエントリーは「成熟社会にふさわしい教育とは」だ。

ここで書かれているわどさんの感情的な思いというのは理解できる。「近代成熟期にはいると、物が豊かになり、長時間労働をしなくてもすむようになる」という表現に対して、未だに長時間労働に従事していて、しかもその労働に使命感を感じることなく「苦役」という感覚しか持てなかったら、現在が「近代成熟期」であるという判断そのものに異議を唱えたくなるかも知れない。

しかしこのような異議を唱えることは、社会全体を「近代成熟期」と判断しなければいけないイメージ(抽象化)が、自分の周りの生活実態というイメージの壁によって邪魔されることにならないだろうか。両者は抽象化のレベルが違うのだと思う。

社会全体というのは、自分の周りの狭い世界だけを見ていたのではその実体がつかめない。特殊な生活環境にいる人は、その環境から外に出ない限り、社会全体のイメージを間違えて受け取るだろう。社会全体のイメージというのも、個別的な体験で判断するのではなく、ある程度の抽象によって理解する必要があるのではないかと思う。社会全体のイメージをそのまま再現するような体験というのは、おそらくあり得ないだろうから。

統計的な判断で言えば、近代過渡期というのは第1次産業から第2次産業へと労働人口が移行すると言うことが起こる時期だと言える。戦後まもなくの高度経済成長期には、農業を離れて工場労働者になる人々が多かった。実際のあらわれとしては、農業では食えなくなったと言うことだろうと思うが、近代過渡期という時代が、そのような労働の流動性を要求したとも言えるだろう。このときに、農業を守って生きた人がいたとしても、社会全体としては製造業に従事する人が増えた近代過渡期だと判断することが正しいのではないだろうか。

今の時代は、製造業は外国へと移転されている。ものを作るのは、もはや日本国内ではコストダウンの競争に耐えられず、第2次産業に従事する人が、サービス業を中心とする第3次産業へと流出している。この事実は、やはり現在が近代成熟期へと入ったと感じさせるものだ。

また、第3次産業で人々が食っていけると言うことは、それだけサービスを受け取って金を払う人が多いと言うことでもある。つまり、大多数の日本人は、余暇に金を使って楽しむという生活をしているのである。まさに近代成熟期だからこそそのような生活スタイルがあるのではないか。

僕は大学を卒業する年に初めて個人的な旅行をした。旅館に泊まるという旅行は、修学旅行以外はしたことがなかった。もちろん、両親が子どもだった僕を旅行に連れて行くと言うこともなかった。結婚して子どもが出来たとき、子どもがまだ小さいうちに僕は家族旅行をしている。これは、僕が教員であり、まあまあ高い給料をもらっていたからだと言うことだろうか。

そうではないと思う。僕の生活はかなり普通の生活に近いのではないかと思う。家族で旅行に行ったり、家族でレストランに食事に行ったりするのは、僕が家族を持った時代あたりから普通の生活になったのではないかと思う。そうでなければ、日本全国にあれだけたくさんのファミリーレストランがあって、しかもその経営が成り立つと言うことの理由がなくなってしまう。

これらの事実から論理的な帰結として、現在という時代が「近代成熟期」で、ものが豊かになり、余暇をどう使うかが問題になってきた時代なのだという判断をするわけだ。「近代成熟期」という判断は、抽象によって得られた論理的な判断であって、具体的な生活感覚から得られる事実の判断ではないのだ。

また、捨象という言葉が、「捨てる」というイメージを持っているからと言って、「しかし宮台氏やひで先生の社会観では、ゴミ箱に捨てられる商品は捨象という思考の方法によって視野のそとに放りだされ、二人分、三人分を働くサラリーマンたちはギリシャの奴隷たちさながら社会の本質からは隠される存在のようです」というイメージを持つのは、捨象という言葉に対する誤解だと思う。これは、あくまでも概念上の操作の技術を表す言葉であって、道徳的な価値に関わるところはない。

働きすぎるサラリーマンに対しては、宮台氏が霞ヶ関の官僚の例を出して面白い話をしていた。霞ヶ関の官僚は、平均して年に5000時間くらい働くそうだ。毎日働いても1日に14時間くらい働かなければならない。日曜くらい休むのかも知れないが、寝る時間・食事する時間・通勤する時間を除けばほとんど働いていると言ってもいいだろう。

この働きすぎるサラリーマンに対して、宮台氏は、霞ヶ関の官僚だったらそれはかまわないというような言い方をしていた。それは、彼らが日本の進路を握るような重要な使命を負った仕事をしているからであり、その使命感を満足させるような仕事であれば、それだけ働いたとしても全く苦にはならないだろうと言うことだ。彼らは働いて賞讃を得ることで、働いた分に見合うだけの報酬を得ていると考えられるのだ。

彼らは金銭的には、その働きにふさわしいと思えるほどの大金はもらえない。しかし、彼らの労働の動機は金にはない。むしろ金に動機があるようであれば、それは日本の指導者としてふさわしい働きではなくなってしまう。彼らは、その使命感ゆえに過剰な労働をすることが正しいのだ。これは、いつだったか、mechaさんがコメントで語っていた、「2割の人間で8割を引っ張る」というようなものだろうと思う。

彼らが働いて多くの日本人の豊かさを支えるというのは、構図としては適材適所の仕事と言うことになるだろう。そして、団塊の世代のサラリーマンは、これと同じ構図を、高度経済成長期の会社で作っていたのではないかと思う。彼らは、日本の高度経済成長という国益を担っていた使命感に燃える労働者だった。彼らこそが日本の成長を支え、豊かな生活を実現する推進力だった。

それに対して基本的な尊敬を捧げるべきだというのが、内田樹さんが語るオーバーアチーブとしての労働と言うことではないだろうか。彼らは近代過渡期の象徴的な存在だ。

この近代過渡期にふさわしい人間は、勤勉であり、命令されたことにいちいち疑問を持たずに、自分の使命を理解して邁進する猛烈サラリーマンだ。当然、学校教育もそのような人間を高く評価して、そのような人間を育てることに全力を注ぐだろう。そして、それはかなりうまくいったのだと思う。なぜなら、そのように高く評価されて卒業した人間たちが、ほとんど実社会でも成功するという結果になったからだ。

軍隊と監獄を基礎にした教育は、近代過渡期においては成功したのである。それは支配者たちが要求する人間像にふさわしい教育であり、しかもその教育によって育てられる側にとっても大きな利益をもたらすものであったから、そこには矛盾が存在せず、両者にとって蜜月のような時期が続いただろう。そのような教育に異議を唱える人間は少数派だったに違いない。

西洋的な市民社会を望む人間はたぶん少なかっただろう。だから、監獄のように自由がなかったとしても、それがさほど問題にされなかったのではないかと思う。軍隊のように、体罰という暴力でたたき直されても、たたき直された方が正しいとされたのではないかと思う。

しかし、近代成熟期に入って、この教育が通用しなくなった。最も大きい要因は、この教育で育てられ、高い評価をされた人間たちが、現実の社会で使い物にならなくなってきたと言うことではないかと思う。命令を忠実に実行し、勤勉で仕事に邁進するだけでは、現代社会は成功を導かなくなったのではないだろうか。

変化する社会に対して臨機応変に対応する能力が必要とされているように感じる。だが、監獄と軍隊を基礎にした教育ではそのような能力は育たない。かつてはその労働に高い使命感を感じていた官僚たちも、自分たちの仕事が必ずしも高く評価されないことに使命感が下がり、長い労働が喜びではなく苦役になってきたのではないかと思う。それがさらに現代に必要な労働の資質を育てるのに邪魔をするのではないかとも思う。

今の日本社会の教育では、実社会へ出たときに役立たないものが多い。それに気づいた人々が教育に対する不満を増大させていると思う。かつては、教育される中で、評価される努力を積めばその努力は報われた。だが、努力が報われない教育では、誰が勤勉になるだろうか。

今の子どもたちが勉強しない、学力が低いというのは、子どもたちの意識のせいではない。近代成熟期にふさわしい教育が構築できない学校制度に根本的な問題がある。時代に合わない教育の中で、勤勉さを取り戻す動機を育てたり、勤勉によって学力を向上させようと言うことに無理がある。現在を「近代成熟期」だと捉えればこのような論理展開が出来る。近代成熟期にふさわしい教育制度に変換すれば、子どもたちの勤勉さは取り戻され、高い学力も復活するだろうと思う。

現実を対象にした考えに絶対と言うことはない。だから、今が「近代成熟期」ではないとする判断も一定の条件下では成り立つだろう。だが、このような判断をすれば、教育の改革は出来ない。現在が「近代成熟期」ではないのなら、それは「近代過渡期」だと判断するしかない。それならば、今やっている教育制度を変えずに、その中で個人的な努力で何とか問題を解決するしかなくなる。

今ある問題が、特殊な事情にある子どもだけの問題であれば、その問題を抱えている個別的な対象で努力をすればいいだろう。しかし、今の教育が抱えている問題は、どの子どもたちにも(任意の子どもたちにもと言うこと)起こることだと考えるなら、個人的な努力ではどうしようもない。それは制度的な改革という根本を変えない限り解決は出来ないだろう。

このような発想をするかどうかは、現在が「近代成熟期」であるのに教育の中身はまだ「近代過渡期」に合わせたものになっているという判断が必要だ。僕は、教育の問題は制度を変えなければ解決しないと思っている。だからこそ、今の時代を「近代成熟期」だと判断するのだ。自分の生活で、労働時間に比べて余暇の時間の比率が高いからという理由で、今を「近代成熟期」だと判断するのではないのである。