「ファシズム」概念を抽象する 1


ファシズム』(アンリ・ミシェル著・文庫クセジュ)という本をヒントに、「ファシズム」の概念が出来ていく過程を考えてみたいと思う。概念というのは、思考を進める出発点になるものだ。たとえば数学などで、「偶数とは2で割り切れる整数のことである」と定義して、偶数の思考を進める場合など、「偶数」という言葉を見たら、この性質を満足する対象なのだと言うことで思考を進めていく。

同じように、「ファシズム」と言うことについて思考を進めようと思ったら、まず「ファシズム」と言うことがどういうことなのかを知らなければならない。これがありふれた、誰もが共通に持っている概念ならば特に説明することなく思考を進めていく。だが、どこかで概念の共通性が崩れそうな部分があれば、そこはどのようなものかというのを事前に説明しておかなければ論理の展開が違うものとして受け取られてしまうだろう。

『日本ファシズム史』(田中惣五郎・著、河出書房新社)という本の冒頭には、「ファシズムとは、資本主義社会が、没落の断崖に立ったとき試みる独裁の一つの形態である」と定義されている。これは、抽象の過程を省いて、抽象の結果としての定義を語ったものだ。この定義に対して異論があるかも知れないが、この本で展開する「ファシズム」の概念は、この定義に書かれているものとして考えるのだ、と言うことをここでは宣言している。

数学の場合では、このような宣言としての定義は、ほとんどの数学者の間で異論がない同意できるものになっているが、現実を対象にする社会科学の場合には、立場・視点の違いによりそれは異論がたくさん存在するだろう。しかしある主張を、そこに何が語られているかという受け手の立場で見るなら、主張する人の定義をそのまま受け取ってまずは理解することが必要だ。異論があってもその異論をひとまずは括弧の中に入れて、相手が言うような意味で考えてみなければならない。

『日本ファシズム史』を理解する立場では、田中氏の定義をそのまま受け入れなければならないが、「ファシズム」一般を考察しようとするなら、その定義が生まれてくる過程を理解し、自分が解決しようとする問題に、どのような抽象がもっともふさわしいかを考えなければならない。僕の問題意識としては、個が完全に殺されるような「ファシズム」の体制が、これからの日本社会で生まれてこないように、その徴候を警戒し、発展を防ぐようなことに有効な定義を求めようとするものだ。

さて『ファシズム』という本では、「ファシズム」の概念に関する言説が数多く語られている。それを一つ一つ見ていくことで、その概念が作られる過程を考えてみたいと思う。言説をいくつか抜き出しておこう。

  • 1 「ファシズムとは、様々な勢力を寄せ集めたもので、その思想については問わないにしても、それがともかくも統一を保っていたと言うこと自体が既成事実に他ならないのである。」
  • 2 「ファシズムの独裁者はいずれも経験主義者であった。支配者は常に民衆から一頭地を抜いた存在でなければならず、その行動は無言の言葉となり、その口をついて出てくる言葉は、常に真理であるとされた。」
  • 3 「全てのファシストたちが例外なしに、自己の存在意義を確証する手段として、実在の、時に架空の敵をわざわざ名指しして、これを弾劾し、これと戦うという方法を選んだ。」
  • 4 「ファシズムが有無を言わさず全面的に否認したのは、あの<啓蒙思想>に啓発され、政治的にはフランス革命で実現した19世紀龍の自由社会であった。(中略)ファシズムに忌避された対象として、まず挙げられるのが民主主義である。圧力団体に言いなりの弱体政体である民主主義は<腐敗>していて、とても国益を守るに足りない、と言うのがその根拠である。議会制などという代物は意味のない制度であり、言論の自由と言ったところで、それは国家の置かれている現実とは何の関わり合いもない。複数政党制は、いたずらに分裂と無駄な議論を重ねるためのものでしかなく、政治の指導者を国民が選ぶなどと言うにいたっては言語道断もはなはだしい愚挙、と言うのがファシズムの考え方であった。」
  • 5 「ついでファシズムに忌避されたのが、個人主義、人権、<人間の尊厳>などである。個人は何の権利も持たず、その存在意義は、その個人が所属する共同体を介してのみ認められる。個人は共同体の一員として組み込まれ、命令されるままに動かなくてはならない、と言うのがその理由である。」
  • 6 「自由社会も忌避の対象となった。自由は放縦に退化するものであり、放縦は集団の連帯を弱める、と言うのがその論拠である。集団には、これに参加するのを拒否する全ての個人に罰を与える権利がある。裁判の目的は個人を守ることではなく、集団の保全を守ることであって、集団の保全を危うくする者は制裁を受けなくてはならない、と言うのがファシズムの考え方であった。」
  • 7 「理性に基づく行動も、生命の飛翔を抑圧するものとして忌避された。ファシズムがそもそも反知性的な反動であり、かつまた本能に基づく復讐であってみれば、行動への信仰が称揚され、暴力が美徳として讃えられるのも当然であろう。」
  • 8 「ファシズムは、何よりもまず国家主義を主張する。国家は神聖化され、最高至上の存在と見なされる。国家の利益のために、国内で政治、社会、人権が三位一体となることを求められ、国家を分裂させ、弱体化させる反国家主義は厳しく糾弾される。ファシズム出現時直前の時代は否定され、ファシズムは過去の多少なりとも神話的な時代にその原型を求めようとする。(中略)このような黄金時代には、国家は外国の影響を受けずに、全く純粋だったわけで、今また国家を浄化しようと言うことになると、ファシズムは勢い拝外主義、人種差別主義に走らざるを得ず、究極的には反ユダヤ主義となる。国民、国家、人種の三者は、全く同一の歴史的現実として捉えられることとなる。」
  • 9 「国家の生存が確実に保障されるには、まず国家が強く、かつ専制的でなければならない。中央集権性により地方の特殊性は抑圧されなければならないし、国家は個人、職業団体、社会の諸階級の利益よりも集団全体の利益を優先させなければならない。独裁制を重視し、国家と、独裁制を支持する思想とに付随する一切のものを一体化させると同時に、合法的であると否とにかかわらず、社会福祉の考え方を普遍化させなければならない。国家は自ら警察官の役目を果たし、裁判は国家の秩序に奉仕するものとされる。これまで弁護士、検事、裁判官が別々に果たしていたそれぞれの機能は一本化されるが、これは裁判の際に被告が問われるのは、その行為よりもむしろその意図であり、その<政治的信条>であるからに他ならない。かつての異端者への審問と同様に、ファシズムの裁判所が一掃しなければならないのは、他ならぬ国家への汚辱行為なのである。」
  • 10「以上のような政策を全て実行に移すためには、ファシズムに固有の、全く新しい型の男性が出現し、その男性は思いのままに行動することが必要となる。その新しい型の男性は、何よりも男性的でなければならず(ファシズムは女性を蔑視する)、指導者としての適性を備え、おのれに対しても他人に対しても、ともに厳しい態度を保持するものでなくてはならない。この男性の備えている資質は、何よりも勇気、規律精神、連帯感でなくてはならない。ファシストたちが発展させようともくろんでいるのは、このような男性の持つ知的な資質よりも、むしろ<動物的な資質>の方であって、批判精神なるものは退廃的であるとして退けられる。ファシストたるには、<盲信し、服従し、闘争する>だけで十分であって、その理想の姿は、全く感性を欠き、人間的な意識をも失った完全な自動人形になりきることで、ただ求められるのは、命ぜられるままを理屈抜きに実行できる能力だけなのである。この種の新しい型の男性像は、ヒトラーの親衛隊の中に、ほぼ理想に近い形で見られたもののようである。」
  • 11「教育家が育成を求められ、芸術家が制作を望まれるのも、こうした新しい型の男性像である。ファシズムの文化は、ヒューマニズムの持つ普遍主義を極度に嫌い、それに代わって国家への帰属、集団の中での連帯、土、国語、郷土への愛着(ナチ党はこのほか、血への愛着を説いた)を称揚する。つまり、ファシズム文化が重視するのは、あくまでも行動を介しての感性及び思考であって、その行動なるものも、非理性主義に基づくものでなければならず、荒削りな独断、事物の図式化が要求され、ユーモアとか繊細な感覚とかは一切認められず、そのかわり宣伝のためにイヤと言うほど乱用されるスローガンが大切にされるといった具合である。」


かなり長い引用になったので、考察するだけのスペースがなくなってしまった。これからの考察の方向としては、上のような「ファシズム」の特徴が、具体的にはどのような姿から抽象されてきたかを考えてみたいと思う。そして、日本の歴史においては、上の特徴を証拠立てるような事実としては何が見られるかを探してみたいと思う。

その上で日本の持つ特殊性ゆえに、上の特徴が現れにくい所を捨象して、「ファシズム」の本質のエッセンスとしての概念が求められないかを考えたいと思う。僕は、あくまでも、日本にも「ファシズム」が存在したという観点で抽象をしてみるつもりだ。そういっても間違いがないような概念を求めていると言ってもいいだろうか。

だから、目的は「日本にもファシズムが存在した」ということをいいたいと言うことではない。あくまでも「ファシズム」という言葉を通じて近代日本を理解し、現代日本の理解に役立てたいと言うことが目的だ。「ファシズム」という言葉で表現されるような特徴というのは、論理を否定し、非論理が跋扈するような社会を作る恐れがあるので、論理を基礎にして生きていきたいと思う僕には非常な不利益になると思う心情が作用している。これは、僕の個人的な利害感情から生まれてくるものだが、論理が否定され、非論理が論理を駆逐する社会というのは、一握りの強者だけが好き勝手にして、大多数の弱者が迫害される社会になると思う。そういう意味では、僕の個人的利害は、おそらく大多数の民主的な利害をも代表するものになるだろう。

次のエントリーでは、これらの特徴から「ファシズム」という概念が生まれてくる道筋というものを考えてみたいと思う。そして、「ファシズム」という対象を考察する他の考え方との比較も考えてみて、その概念の妥当性というものも考えてみたいと思う。そのような考察こそが、未来へ役立てることが出来るものになるだろう。