他者の経験を事実として受け取るときの認識


社会的な存在である人間は、自分だけの体験の世界だけではなく、他者の体験を自分で追体験することで世界を広げることが出来る。外界に対する広く深い認識が出来るのも、われわれが他者の経験を追体験して、自分で体験するだけでは得られないたような世界を理解することが出来るからである。

しかし、他者の経験を追体験するというのは、認識論的には非常に難しいものだろうと思う。自分の体験でさえも錯角に陥る場合があるのに、他者の経験をただその情報を見たり聞いたりしただけでどれほど正確な知識として理解できるようになるだろうか。哲学的に、徹底的に正確さを求めてしまえば、それは決して正しいと言えるものがなくなってしまう。可能性としてはどうしても欠陥のある知識になる。そこで、この可能性を根拠にして「すべては確実に知ることが出来ないのだ」というような不可知論に陥ることにもなる。

なお不可知論というのは、「哲学で、経験や現象とその背後にある超経験的なものや本体的なものとを区別し、後者の存在は認めるが認識は不可能とする説。また、後者の存在そのものも不確実とする説。」のことを言うのであって、具体的に知りえない対象が存在するという主張ではない。不可知論が言及する対象は、経験的なものの背後にある、超経験的であるがゆえに認識できないものだ。超経験的なものという定義から、経験では把握できないことが論理的に帰結されるものなのである。

したがって、不可知論が主張するのは、われわれが経験するものの背後についてはわれわれは知りえないのであるということであって、だからこそ認識は不完全であり、「すべては確実に知ることが出来ないのだ」という結論につながってくる。本質は、超経験的という対象から、認識の不完全さを導くことにあるので、対象の具体性は捨象されている、つまり具体的な対象の認識については言及していないということが大事なことだ。

具体的に知りえないことがあるというのは、不可知論とは関係がない。たとえば霊魂というものは想像の世界にのみあるのであって、実体としては存在しないと主張するのは、霊魂という実体については知りえないと言っていることになる。これは不可知論ではなく、実体として存在しないものは、実体として把握できないというトートロジーを語っているだけだ。論理的帰結なのである。

「実体として存在しないものは、実体として存在を確認できない」というのは、論理的に同語反復であり、絶対的に正しい言明である。だから、これに反論することは出来ない。反論できるとすれば、「霊魂は実体ではない」という判断が、現実に正しいかどうかということが対象になる。霊魂が実体であることを証明できれば、この言明には反対できる。

霊魂が実体であるかどうかは、僕はかなりの程度論理的な問題だと思っている。それは霊魂というものをどう定義するかによって決まるだろう。何か実体を把握してそれに「霊魂」という名前をつけたものではないからだ。それは、「霊魂」というものを想像させるような現象を観察したことによって、その背後に「霊魂」というものを設定したほうが理解できると感じられたことが大きかったのではないかと思う。「霊魂」そのものを観察した人はいないのだ。

不可知論というのは、究極的な想像上の可能性が否定されることによって現実の可能性を否定するものだ。究極の対象は認識不可能だ。だから、現実存在もどこかに認識の不完全さをもっているから、「完全な認識」は不可能だ。だが、完全ではなくても、十分有効な認識は出来るはずなのだが、それさえも否定するのが不可知論なので不可知論は間違っていると僕は思うわけである。

霊魂は実体として存在しないのであるから、実体として認識できないというのは、不可知論の問題ではなく論理の問題だ。具体的に認識できないものがあるというのは不可知論の問題ではない。それは認識の対象ではないことだったり、われわれの認識能力が不足していたりと、現実の問題がそこにはあるのだ。哲学の問題ではない。

他者の経験を事実として認識できるかという問題は、かなり抽象的な問題なので、究極的な哲学的問題にかかわってくることがある。不可知論がかかわって、他者の経験を追体験するという可能性が否定される恐れがある。そうなると、情報というものの信憑性は、われわれがただそれが正しいと「信じているだけ」だということになりかねない。

現実的には、社会における情報の有効性を考えるなら、正しい情報と間違った情報があるという認識が重要だ。そして、両者を区別する技術をもつということが必要になる。不可知論的に、すべての情報は疑わしいのだから、「完全に正しい情報などはありえない」といって、具体的な有効性には十分だと思えるような情報さえも否定してしまうのは間違いだろう。

板倉さんは「程度の問題」を教えなければならないというようなことを語っていた。究極的な完全性を求める哲学的思考は、すべてを不完全なものとしてしまう。そして、不完全なものは信用できない・価値がないという見方を持っていれば、それは世界がすべて否定されることにもなるだろう。華厳の滝に飛び込んだ哲学少年のような認識になってしまう。どの程度正しさを持っていれば信頼してもいいかという「程度の問題」は需要だ。

歴史における事実の認識は、直接自分が体験できる事実ではない、他者の経験の追体験の問題として鮮明に現れてくる。明治維新のころの人々の生活が、物理的にはどうだったかというのは直接見ることが出来ない。他者から聞いて理解したりする。あるいは写真が残っていれば、間接的に見ることは出来るかもしれない。しかし、その当時の人々がどのような思いを抱いて生活していたかは、間接的にも知るのは難しい。何を語ったかは聞くことが出来るが、それがどのような思いを含んでいるかは想像の範囲の問題になる。

歴史における事実とはどのようにして確立されているのだろうか。一つの方法は、裁判における物的証拠を元にした考察のように、具体的に残っている物質的存在を根拠にして事実を確立するという方法があるだろう。誰も恐竜を見たことがないが、巨大な骨の化石を見つけることで、かつて恐竜が生きていたことが想像できる。そして、その想像は論理的に正しいと、誰にでも受け止められるので、それが事実として確定していく。

物的証拠は間接的なものとしても見つけることが出来る。フランス革命明治維新を研究した小林さんによれば、権力に寄生していた人々が、国家の財政をいかに私益のために浪費していたかという事実を確認することが必要だったという。それは、フランス革命の場合は、王の側近の貴族たちに対する、国家財政の記録があるという。これを見ると、それがある程度物的証拠として事実の裏づけになるという。もちろん、ここには記録をつける人間たちが正しくそれを行っているという信頼がなければならないが。

江戸時代の国家財政に関しては、正確な記録という物的証拠が乏しいらしい。それでは、江戸時代もそうだっただろうという思い込みや想像を理論の基礎にしてしまうことになるのだろうか。もしそのようなものを理論の基礎にしてその後の論理を展開してしまえば、その想像を裏切る物的証拠が出てきたときに、理論は根底からひっくり返されてしまう。

小林さんが指摘している物的証拠は、「日本の場合、金額の記録はないにしても、上級旗本が大名も及ばぬ豪奢な生活をしていたことや、一万石の譜代大名が、大藩の藩主よりも豪奢な生活をしていたことから、財政資金の流用が逆算できる」というものだ。これなどは、急に金遣いが派手になった人間の、その金の出所を疑うという犯罪捜査にも似た思考法だろうか。

他者の経験を追体験して事実として受け止めるには、物的証拠を求めて、そこに成立する論理的構造を把握するということが一つの手法になるようだ。それが見つからないときは、解釈としては想像の域を出ることが出来ない。想像の域にあるということは、その想像を仮定に置いた仮言命題として解釈をするということになるだろう。

南京大虐殺」と呼ばれている歴史的「事実」に関してこのごろ考えることが多いのだが、ここであったこととして、確実に言える事柄はどの「程度」までなのかということが気になっている。これは、政治的立場によって主張できる事柄が違ってくるので、「事実」を直視することが難しい対象である。物的証拠が数多く提出されているにもかかわらず、そのすべてに疑問が提出されている事柄でもある。

何が信用できることであるかを、立場を超えて確立することができるだろうか。特に、南京で何が起こったかを語る言説がどの程度信用できるものであるか、どこまで追体験できる「事実」であるのかを決定する要因はなんだろうかということが気になっている。他人が語ることの信用性はどこまで客観的に決められるのだろうか。

本人が嘘をつくつもりはなくても、長い間に記憶は変化することがある。勘違いということもあるだろう。それを差し引いて、確実にこれは確かだと判断することが出来るだろうか。本多勝一さんが『中国の旅』で、ほとんど聞き書きでルポを書いたときには、そこで聞いたことの信用性を高めるために、実際の行動を追体験したときにつじつまが合うかどうかを細かく調べたようだ。

ある人の体験を聞いたとき、たとえばどこかを移動しているというような話だったら、実際にその移動にどれくらいの時間がかかるものなのかを、あるときは実験をしたりして、記憶違いや勘違いがないかを確かめるという方法をとったそうだ。そして、どれほど確からしく見えようとも、つじつまがあわない部分が多すぎる話は信用度が低いと判断したようだ。

僕は、南京で歴史に残るような大事件が起きたという事は確かだと思っている。物的証拠としては、当時世界中に報道された記事が残っていたり、東京裁判でも裁かれるようなものとして取り上げられたというものがある。そこに何もない、でっち上げであるならば、世界中の人間がそのような動きをするということとの整合性が取れなくなる。

日本を陥れるための陰謀だという想像も出来るが、世界中がそのようなことをしていると想像するのは論理的な無理を感じる。何かがあったということは追体験できる事実としては確実なものであると思う。問題は、「何か」の具体的内容としても、確実に事実だと言えるものが確定できるかどうかということだ。政治的な立場を超えて確立されていることを知ることで、追体験としての事実という認識に対する理解を深めたいと思う。