社会科学の科学性について


大塚久雄さんの『社会科学の方法』(岩波新書)というとても面白い本を見つけた。大塚久雄という名前は、学問の世界ではビッグネームだったようだが、今では一般にはあまり知られていない人なのではないだろうか。僕も初めて手にしてみたのだが、内容の面白さと分かりやすさは、かつて三浦つとむさんの本を初めて読んだときのような感じがした。

三浦さんはアカデミックの世界とはまったく無縁の人だったから、その分かり易さはむしろ当然だと思っていたのだが、アカデミックの世界の巨人とも言える人が、これほど分かりやすい文章を書く人だとは意外だった。まだ最初の部分を読んだだけなのだが、そこだけでも「目から鱗が落ちる」というような経験ができることにあふれている。

大塚さんは、冒頭で「科学的認識である以上、それは因果性の範疇の使用ということと、どうしても関連を持たざるを得ない」と書いている。これは、「因果関係」というものを「仮言命題の成立」と言い換えると、<ある出来事が成立したなら、必ずこういうことが起きると正確に予想できる>ということだと解釈できる。

科学というものをこのように規定すると、自然科学においては、その命題が仮言命題として成立することを比較的容易に承認できるのだが、社会科学においては人間の「意志」が入り込むので難しくなるという面が出てくる。人間は、「意志の自由」において不合理なことを選択することがありうるので、いくら合理的に因果関係を考えても、それに反する行動を人間がするのであれば、社会科学は正確な予想が出来なくなるという問題がある。

科学における正確な予想というものを、100%完全な予想だと捉えると、これは自然科学においてさえ成立しなくなる。現実の出来事のすべてを完全に把握することは出来ないからだ。現実の対象というのは、無限に多くの視点から観察することができる。これをすべて把握することは原理的に出来ないので、見落としたものからの予想外の出来事が生まれる可能性が常に存在する。

この予想外の可能性を捨象できると判断するところに科学の成立がある。これを捨象しない限り、つまり予想外が例外的なものだということの判断がない限り科学という真理は成立しない。だから、この真理が成立するということを前提にして、さらに社会科学の場合はどのような特殊な性質を持っているかを、自然科学との比較で考える必要がある。

自然科学の場合、この捨象(=抽象)の判断を整合的に理解することは比較的たやすい。例えば、自然落下の法則の場合は、その質量にかかわらず重力加速度は一定であるという法則がある。つまり、重さに関係なく物は同じ速さで落ちるということだ。これはガリレオピサの斜塔での実験というエピソードが有名だ。大きい鉄の玉と小さい鉄の玉を同時に落としたとき、両者は重さに違いがあるにもかかわらず同時に地上に到達することをもってその法則を証明している。

これに対してはすぐに例外が見つかる。羽のように軽い物は、明らかに鉄の玉よりもゆっくり落ちることが観察される。しかし、これも真空の中で実験すれば同時に落ちることが観察されるので例外的なものだということが分かる。また、自然科学は、この例外がなぜ起こるのかという理由のほうも整合的に解明している。

羽の場合は、その重さに対して表面積が大きいので空気抵抗を受ける割合が大きくなる。鉄の玉くらいの構造なら、空気抵抗は落下速度を目に見えるほど変えるという影響を与えない。しかし羽の場合はそのような影響を受ける。ここに特殊性が存在し、それが例外的な事実として見える理由になる。例外が例外である所以がはっきりするので、これを例外として捨象することができる。例外を捨象した後に抽象された結果として残る仮言命題(=因果関係)が科学法則という真理になる。

社会科学の場合も、科学の法則として成立する事柄は、自然科学の場合と同じように捨象(=抽象)を経て得られた、例外を切り捨てたものになっているのだが、例外を切り捨てる際に、自然科学ならその理由が価値判断抜きに論理的なものだと理解できるが、社会科学ではそこに難しさがあるように感じる。社会科学においては、それを考察する人間の社会的立場というものが関係してきて、捨象が恣意的なものではないということを整合的に理解することが難しくなる。

自然科学なら、人間とは独立した物の属性としての法則を求めることになるので、そこに客観性の成立を主張することができる。人間が、どのように自分の立場から利益になるように願おうとも、物はその期待に応えてくれる「意志」をもたないからだ。物は人間の立場を考慮しない。立場を越えた存在になるので、そこに客観性の成立を主張することができる。

これが社会科学になると、人間が構成している社会は、個人の「意志の自由」によって何が起こるかわからないという状態にある。「意志の自由」をもたない封建社会のような時代なら、自由に自分の考えで選択するような人間は例外的なものとして社会の法則から捨象することができるだろうが、「社会」という概念がそもそも封建制を克服した近代になってから成立したと見るなら、自由に選択する人間が構成した社会の法則性を求めるのが社会科学ということになる。この予測が混沌としていて定まらないのなら、社会学は成立しないということになってしまう。

あるいは、自分の立場の利益になることが「法則性」だと信じさせることができるなら、それは実際には科学的な意味での「法則性」ではないのに、社会にそのような予測が成立してしまうということが起こってしまう。自然は人間を裏切らないが、人間は人間を裏切るので、社会の法則性は混沌としてしまう。恣意的ではない、立場を越えた法則性というものが社会には存在するのだろうか。それがなければ、社会科学の成立ということも主張できない。

このような疑問に対するすっきりした答として、大塚さんはマルクスの「疎外」概念を引いて説明している。これがまことに見事で「目から鱗が落ちる」という感じがしたものだった。物質的存在というものが人間から独立に存在して、人間の意志では自由にならない面があるからこそ客観的法則としての性質を求めることができるというのが、唯物論という考え方の基礎になる。

社会は、それを構成するものが人間であるのに、「社会」という対象は人間の意志から独立して存在するものとして扱えるという考え方が「疎外」というものだというのが大塚さんの説明だ。これは、板倉さんがよく語っていた<個人の法則と社会の法則は違う>という見方にも通じるものだ。個々の人間には自由意志があるのに、社会全体を見ると個人の自由にならないものがたくさんあることに気づく。

このことがなるほどと思えるのは、大塚さんが語る「群集のなだれのような動きに巻き込まれる個人」というものの比喩の見事さから感じる。大勢の人間が集まって動いているとき、あるきっかけでその流れの動きが止まらなくなるときがある。そのような時は、いくら個々の個人がその動きに逆らっても、個人の意志は集団の動きにまったく反映されない。あたかも集団が一つの生き物であるごとくに一つの方向に動いていくのに、個人はただ身を任せるだけになってしまう。

その動きを作り出しているのは個々の人間であるのに、巻き込まれている人にとっては、何かわけの分からない大きな力に自分が動かされていると感じてしまう。それは、個人の力ではどうしようもないという点で、個人の立場を越えてしまっている。それは、客観的な存在として人間に立ち向かってきている。このように、本来は人間のほうに属しているものであるにもかかわらず、それが人間から独立して存在するかのように、人間に対してくるものを大塚さんは「疎外」として説明している。

これは、数ある「疎外」の説明の中でも最も分かりやすいと僕は感じたものだ。この「疎外」概念でマルクスの言葉を読み返せば、マルクスの理解ももっと深くなるのではないかと思った。

大塚さんによれば、社会科学の対象になるのは、このように「疎外」されたものであるから、それは立場を越えた客観性を持ち、科学としての真理性を獲得するのだということだった。なるほどと納得できる説明だと思った。それと同時に感じたのは、「疎外」されたものが社会科学の対象であるなら、社会科学は自然科学のように存在する物質という実体を対象にするのではなく、実体としては存在しない、想像上の「幻想」のようなものを対象にするものでなければならない。つまり「装置」としてのブラックボックスがその対象にならなければならないということだ。

宮台真司氏の、機能を本質としたシステム理論や、国家が幻想だとするような言い方などは、すべて社会科学の科学としての方向性に沿った考察だったことが分かる。社会科学の対象は「疎外」されたものだから、実体として捉えるよりも機能として捉えて、システムとしての関数の面を考えたほうが法則性を捉え易いということになるわけだろう。

大塚さんは、この「疎外」に関連して、人間性の捨象ということにも触れている。「疎外」において重要になるのは、個人の個性ではなく、そこから抽象された人間的本質とでも言うべきものが、人間に対立してくるという面だ。そこでは、個性をもった人間は捨象され、「文学的な意味」での人間性というものは捨てられている。これは社会科学であればある意味では当然の考察の方向だ。

これに対して、社会科学は人間を無視しているとか、人間が描かれていないなどという非難があるそうだ。これは勘違いによる非難だということを、大塚さんは、山登りと地図の比喩でまた卓抜に語っている。

山登りをして、すばらしい景色を眺め、頂上に出たときの感動を語るにはどうしても文学的な表現が必要だ。あるいは、絵画という芸術で表現したり、音楽にしたりしてもその感動を伝えることができるだろう。しかし、社会科学の対象にはならないので、社会科学でその感動を語ることは出来ない。

社会科学が出来ることは、例えばこの山の地図を作ることだと大塚さんは言う。山の地図は、景色のすばらしさや、その山に登る個人の感動などはすべて捨象して、山の形状を計測した数値を正確に反映するような図にする。個々の人間の状況にかかわらず、立場を越えた共通の事実として地図が成立する。地図を見ているだけでは、山の美しさや、それに登ったときの感動は分からない。だが、どのようなルートを経て登ればいいのかは分かる。社会科学に求めるのは、そのような真理であり、感動を与えてくれるようなことを求めてはいけないのだ。

社会科学は数学系の発想で考えなければならない。人間を描いたり感動を伝えるのは文学系の芸術が引き受けるものだ。文学系は、自分の役割を自覚して、数学系に自分の役割を押し付けるべきではないのだ。社会科学が科学として成立する条件も、やはり数学系的発想にあるのだなということを、「目から鱗が落ちる」ように大塚さんの文章は感じさせてくれた。これからの展開がさらに期待できる面白い本だと思う。