マルクス理解の難しさ


僕はマルクスの『資本論』に何度か挑戦してその都度挫折している。それは、マルクスの叙述の抽象度の高さにあると今までは思っていた。抽象のレベルが高すぎるので、その過程を追うことが難しく、現実のどの面が捨てられていっているかを理解することが難しいのだと思っていた。しかし、大塚久雄さんの『社会科学の方法』を読んだら、抽象レベルの高さに加えて方法論的にも難しさがあるのではないかということを感じた。

抽象度の高さから言えば数学などは最高レベルの抽象度を持っている。だが、数学の場合は、抽象度は高くてもその過程が短い場合は理解が容易なので、そのようなものから抽象化の過程に慣れていって、その過程が複雑で長いものの理解へと進むような学習をしていく。いきなり複雑な過程を持つ高い抽象レベルの対象へ行くことはない。

資本論』などは、数学的に言えば最高度の複雑性を持った抽象度がその難しさを与えていると僕は感じていた。しかし、それだけなら、ほとんど数学の一分野だと言われている現代経済学の理解と同じように、手順さえ踏んで学習していけば、自分で新しい分野を切り開いていくのではないからもう少し分かってきてもいいものだと思っていた。先駆者にとっては大変なことでも、後から続く者はその大変さの数分の一の努力で困難を克服できるのではないかと思っていた。

しかし、抽象レベルの高さ意外にも難しさの原因があるとしたら、それを意識して学習しなければその難しさの克服が出来ないのではないかと思う。それを大塚さんの本が教えてくれるような気がした。大塚さんは、

マルクスの経済学の場合、経済学の認識対象となるものは、ほかならぬ生きた人間諸個人であります。生きた、肉体を持つ、そして社会をなして経済生活を営んでいる、そういう現実の人間諸個人なのであります。それが経済学における認識の出発点であり、また到達点なのであります。マルクスが、根本的に考えるということは人間を捉えることだというふうに言っているのは、そのことでしょう。そうした人間諸個人は、もちろんロビンソン的孤立人ではなく、マルクス自身の言葉を使うと「社会をなして生産しつつある人間諸個人」で、彼はそこから出発し、かつ終始それを認識対象として持ちつづけるわけです。このことを、まず、はっきりと頭に入れておいていただきたいと思います。」


と書いている。ここで語られているのは、マルクスの抽象は、「生きた、肉体を持つ」個々の人間を完全に捨象しているのではなく、いつまでもそれを引きずって抽象しているということだ。これは、ある意味では「抽象」という行為に反することをしていることになる。最高レベルの抽象の高さにある数学では、個々の具体物の個性というものを完全に捨てている。そうしなければ最高レベルの抽象に達することが出来ないからだ。

自然数という対象は、何か物を数える行為から発生してきた概念だと言われている。その抽象の過程の出発点は、数えられる具体物からスタートしている。だから教育においても、数を教えるときにまず数えることからはじめたりする。しかし、数を操作する段階に至ったら、いつまでも何か数えられるものを必要としていたのでは、それ以上の抽象のレベルに進むことが出来ない。計算をするときにいつまでも指を使っていたら、指でイメージできる数字以上の計算操作は出来なくなる。文字を使った考察などはほとんど不可能だろう。

次のレベルに進むには、具体性を捨てた抽象が必要だ。最初の段階の具体性はすべて捨てられる。新しい段階での具体性が抽象の結果として捉えられなければならない。そうすることで、どんなに大きな数になっても計算ができるようになるし、それが具体的な数値をもたない文字になっても同じ方向の抽象を進めることができる。

このように捨象によって次の段階の抽象レベルに達したときは、最初の段階の具体性に帰って考察することはかえって難しくなる。それは方程式を教えているときに痛感したりするものだ。方程式の最初の段階では、箱の中に隠された数を当てるという極めて具体的な対象の考察からはじめる。隠された数は最初はわからないが、それにある具体的な数の加減乗除の計算をして結果を聞いてからだと当てることができる。

それがなぜ当たるかを考える過程で、最初の箱という具体性が捨象され、純粋に未知数という概念で方程式を考えるようになる。そうすると、やがて方程式を解いて答を見つけるという操作に慣れてくる。その段階で、その方程式の答が本当に正しいかを、最初の式に代入して確かめてみようということを考えると、これが意外なほどに難しい。初学者にとって、自分が慣れてきた手順のどこかに間違いがあるということを指摘されると、それを理解するのは容易なのだが、代入して確かめれば正しいことが分かるという、最初の段階の具体性にまで帰るのはなかなか難しいようなのだ。

一度抽象したことによって捨てられたものをもう一度取り戻すというのはかなり難しいことではないかと感じる。宮台氏的な言い方をすれば、「再帰性の自覚」は難しいということになるのではないだろうか。ある概念を抽象することに慣れて、せっかく捨てることが自明だと思えるようになったのに、その捨てたものにもう一度帰るというのは、自明性を疑うことであり、かなり難しいのではないかと感じる。

マルクスにおける、具体的な人間の捨象というものも、抽象の過程においてはそれが行われなければ次の段階の高い抽象へ向かうことが出来ないだろう。しかし、必要に応じてマルクスは捨てた具体性に何度も戻っているのではないかという感じがしてきた。これは初学者にとってはたいへん難しい理解になるのではないかと思う。

初学者というのは、その学問対象の全体を見渡すだけの素養をまだ持たない。全体を見渡すことができるなら、そこで捨てた具体性にまた言及する必要性を理解することができるだろうが、全体性の理解を欠いていると、その言及が恣意的でご都合主義的に見えてくる。そうなると、その考察に戻るよりもそれを捨てたいという気持ちのほうが強くなるのではないかと思う。

方程式の全体像を把握している人間からすれば、それが現実に適用されたときに、それが正しい答を出しているかは現実との対照をすることで得られることは容易に分かる。しかし、方程式の初学者にとっては、せっかくその解き方のアルゴリズムを覚えてそれに慣れた状態にあるときは、アルゴリズムの過程にある間違いはよく理解できるが、その答の意味が現実にどのようなものであるかの考察までは思いが至らないのではないかと思う。

マルクスが、「生きた、肉体を持つ」人間を忘れなかったというのは、『資本論』のどのような記述にそれが表れているかを意識しなければ、その理解が難しくなるのではないだろうか。これは、捨象してしまって次の段階の抽象に入ったほうが、抽象の結果を理解するのはしやすいのだろう。

現代経済学が設定するような「経済人」というような、現実には存在していない、抽象の高いレベルに存在する対象である人間は、「生きた、肉体を持つ」人間の個性をすべて捨てた最高レベルの抽象ではないかと思う。経済的な面で常に正しい判断をする人間などは実際にはいるはずがない。しかし、そのような人間を設定して考察を進めることができれば、論理の範囲ではゆるぎない真理を語ることができる。そこでは例外がすべて捨象されて、抽象的な装置として常に一定の働きをするような関数としての人間だけが生きている世界になるからだ。

マルクスの『資本論』は普通は経済学だと言われているようだが、大塚さんは経済学「批判」だと書いている。これは、抽象レベルの高い経済学が、その抽象のゆえに現実の人間の個性をすべて捨ててしまったことに対する批判が書かれているのではないかと思う。だが、抽象のレベルを高くしてほとんど捨象することができれば、理論としては安定した「科学」になりうるが、現実をいつまでも引きずっていれば、それはいつまでも例外に脅かされてしまい、「科学」的真理としての安定性をもてないのではないかとも感じる。このあたりをマルクスはどう克服しているのだろうか。この克服が理解できないと、マルクスは恐ろしく難しいものになるのではないだろうか。

ここで前回考えた「疎外」という概念が重要なものになってくるのではないかと思う。マルクスは、自然成長的分業という現象に「疎外」というものを見ていると大塚さんは語っている。社会の発展に伴って、人々は分業することによって生産力が増大することを知ったが、それは計画的に行われたものではなく、自然成長的にそれぞれの個人が、ある意味では勝手に自分の意志で分業を担うようになってきたと見ている。

この自然成長性を抽象すれば、それぞれが正しい判断で計画的に行為を行うという、「経済人」のような抽象的人間を設定することができるだろう。しかし、そういう抽象の結果としては、その抽象世界での出来事には偶然性はなくなってしまう。すべてが必然的なつながりのあるものになる。だからこそ理論としてはすっきりするし、体系としては完全な安定あるものになる。しかし、現実はそのような必然性が支配する世界ではない。

現実の偶然性を理論の中に取り入れなければ、その理論は現実に対する有効性を失ってしまうのではないか。例外を、例外として取り扱うことの妥当性を理論が持たなければならない。それがマルクスが言う「疎外」の概念を使うことで得られるのではないだろうか。

個々の人間が何を意志するかには必然性はない。そこにある偶然性を正しく捉えるには確率論的な考察が必要だ。この確率論的な捉え方も、人間の個性を抽象してしまえば、どの確率も同様に起こる可能性があるという、平等原則のようなものとして抽象される。しかし、個々の人間に条件の違いがあるときは、その条件の違いが確率分布にどのように影響を与えてくるかを考えなければならない。ここに、個々の人間の個性を抽象しながらも、その個性のすべてを捨てるのではなく引きずっていくということが行われるのではないだろうか。

これは宮台氏が語るシステム理論にも似た考察の方向だ。システム理論では、個々の人間の個性をすべて捨象した社会システムは、確率的に最も多く見られるような現象が実現する社会として抽象される。しかし現実の社会は、確率的には実現されないような秩序を持ったものとして現れている。この確率的に低い状態を作り出す根拠になっているものがシステムという構造として捉えられている。

システムという捉え方も、抽象レベルとしては最高に近いものであるにもかかわらず、現実性を失わないように配慮されているのではないかと思う。そこにまた理解の難しさがあるのではないだろうか。社会科学は、考察の対象に人間というものが入っている。だから、抽象のレベルを上げたときの非現実性と、現実の「生きた、肉体を持つ」人間との折り合いをつける必要がどうしてもあるだろう。そこにマルクス理解の難しさがあり、社会科学を「科学」として理解することの難しさがあるのではないか。

集団の動きに翻弄される個人を語った問題に、マルクスだったらどう解決をつけるだろうかという大塚さんの考察もまた面白いものだったが、これはまた改めて論じてみようと思う。これは、マルクス主義国家の失敗の原因の正しい結論にもつながっていると感じるような、面白い考察だった。