3000人という数字の重み


「資料:「犠牲者数」をめぐる諸論」というページに、「雑誌「偕行」の「証言による南京戦史」最終回に掲載された、加登川氏の見解」というものが紹介されている。

ここでは、実際に南京の戦闘に参加した日本軍兵士の体験をもとに、南京で何があったのかを証言として記録しようとする過程で、虐殺の問題に行き当たったようだ。これはいわば加害者側の記録であって、その数字が小さく見積もられたとしても、立場上仕方がないところがある。加登川氏も次の弁明のような言葉を書いている。

「この戦史が採用してきた諸資料にはそれぞれの数字がある。だがこれらはもともとが根拠の不明確な、いわば疑わしい数で、その真否の考証も不可能である。その数字をあれこれ操作してみたところで、「ほんとうか」と問いただされても明確に返答し得ない数字になるだけである。史料の確からしさの判定は読む人にもよろう。畝本君や従軍将兵の諸氏には、あの南京戦場を走りまわった体験から、そこに起こりうる事象の大きさについての個人的感触を持っている。巷間喧伝される数字がいかに大きくとも、そんな膨大な数があの狭い場所でと、納得できないところがあるのである。ここにこの推定集計の難しさある。だがなにがしかの答えは出さざるを得まい。」


もともとが「虐殺」という現象を客観的に定義することが難しいので、虐殺された人が何人いたかという問題には確定した数字は出せない。しかし、日本軍兵士の立場からはこのような結論が出たということを示すことには大きな意義があるように思う。そもそもが、立場上違う人間が出す数字であるから、異なる立場からはそれをそのまま受け取ることは出来ないという前提のもとで、その立場ならこういう結果が出たという事実を受け止めることで南京事件を多様な視点で眺めることが出来るようになるだろうと思う。

この記録が貴重だと僕が思うのは、この証言を集めた元日本兵たちは、ほとんどが南京での虐殺行為はなかったと思っている人たちが中心にいたように感じるからだ。これは日本兵の立場からすれば当然過ぎるような感情ではないかと思う。もし何らかの残虐行為があったとしても、それはまったく例外的なことであって、ほとんどは軍人として恥ずかしくない行為で戦闘を終えた、と思うだろう。だからこそこのような証言の記録を残そうとも思ったのではないかと感じる。

しかし、結果として出てきた数字は、彼らの予想をはるかに上回る数字だったことが伺われる。それは、この引用の最後に書かれている加登川氏の次の言葉からそう感じるものだ。

「中国国民に深く詫びる
 重ねて言う。一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。
 日本軍が「シロ」ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。
 旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。」


3000人という数字の重さを加登側氏ほど重く感じている人はいないのではないだろうか。それは、虐殺という事実が例外的ではなかったということの重さなのだ。この3000人という犠牲者の数が少なすぎると感じる人は、事実の質よりも量で虐殺を考えてしまっているのではないだろうか。30万人の犠牲者であれば「大虐殺」で、3000人だったら「小虐殺」だという感覚はおかしいのではないか。そのような感覚は、元日本兵だった加登川氏のヒューマニズム感覚に劣るのではないだろうか。

僕がこの3000人という数字が貴重だと思うもう一つの理由は、これが犠牲者の最低ラインを語るものだと思うからだ。この数字が最低ラインとして信憑性が高いというのは、この数字が加害者側の元兵士から出されているということからくる。加害者である元兵士にとっては、自分たちの行為をことさら悪く言い立てる動機というのが存在しない。むしろ悪行の種類は小さく言いたくなる動機のほうが高いだろう。

そのような動機があったとしてもこれだけの数字が出ているということは、これが最低ラインだということを信じてもいいのではないかと思う。少なくとも0(ゼロ)ではないということが、かなりの高い蓋然性を持って語れるのではないかと思うのだ。数字の3000人が確定したもので、これ以上は犠牲者がいないのだと論理を展開すれば、それは間違いになるだろうが、これが最低ラインとして提出されている数字だというふうに受け取れば、ここでカウントされなかった数が、現実にはどの程度になるかという考察を合理的に進めていくことが出来るだろう。

それは加登川氏も語るように「参戦者の証言資料によれば不法に殺害したとされる事案に多くの疑問があるが、今日においてその真偽を究明することは不可能である。況んや広い戦場において「虐殺か否か」を一々分別し、虐殺数を集計することなど今においては不可能事である」のだと思う。だから、数字を確定することは出来ないと考えたほうがいいだろう。しかし、ある立場からこのようなものが虐殺に見えるとしたら、その概数はこのくらいになるだろうという提出の仕方は出来るだろう。南京事件の虐殺されたといわれる人々の数については、そのような姿勢で取り扱うことが客観性があるのだと思う。

最低ラインの3000人という数字は、このページの作者によれば「「証言による南京戦史」で証言が得られたものについてのみしかカウントしていない、「スマイス調査」の結果に触れていない等、明らかに過少であると思われます」と語られている。このことからも、これが最低ラインだということが伺える。しかし、この最低ラインであっても、視点が違えば0(ゼロ)になる可能性もはらんでいる。

この3000人という数字を算出した畝本正己氏の見解もこのページで紹介されているが、それはいずれも捕虜に対する「不法処理の疑いのあるもの」という根拠から推定されているものだ。つまり、この中には民間人に対する「虐殺」は含まれていない。畝本氏にしてみれば、そのような犯罪的行為は認められなかったのだろう。また、この証言集ではそのような証言は出てこなかったものとも推定される。このあたりは、立場からくる限界だろうとは思うが、仕方のないことだとも思える。

畝本氏は3000人に対しては「不法処理の疑い」と語っていて、これが疑いのままであれば、数字は0(ゼロ)になる可能性もあると考えているようだ。南京事件に関しては、このように立場からくる数字には大きな開きがある。畝本氏は、編集委員の細木重辰氏からは次のように紹介されている。

「初陣であられた畝本氏が南京戦における国軍の潔白を信じ、それを証明したいと念じられたのは、私自身の乏しい戦場体験に照らしても当然です。その立論の根拠はまずご自身の実戦体験であり、その動機は戦後数十年を閲して突然にして報道されたかの莫々大な「数字」です。」


畝本氏自身とその部隊については、おそらく虐殺の現場には遭遇しなかったのだろう。これが、日本軍にとって普通だったのか例外的だったのかということは、多くの状況証拠から蓋然性の高い結果を出さなければならないことだろう。しかし、自身の体験の強さに確信をもっていた畝本氏は、深く調べることによって潔白であることが証明されると考えていたのだろうと思う。

この証言記録に携わった人々の誠実さを物語るものとしては、同じく細木氏が次のように書いていることから読み取れる。

「ところが私どもにとって最も衝撃であったのは探索のすえ歩兵第三十三聯隊の戦闘詳報のちぎれ残った紙片の中から初めて「俘虜ハ処断ス」の文字を見出したときで、その時に畝本氏が洩らされた苦渋に満ちた「困った」の一言はよく覚えております。これは一面、氏の誠実さを物語るものでありますが、私どもも一次資料のその重さ、怖さを身にしみて感じました。」


「俘虜ハ処断ス」という言葉が、不当な行為につながることの証明になるだろうことは誰もが予測できるだろう。潔白を証明する側にとってまことに都合の悪い証拠が見つかったときに、苦渋に満ちた表情が出ようともそれを受け入れて作業を続けただろうことに、僕はこの証言集に携わった人々の誠実さを感じる。

細木氏は「その後、お読みのように甚だ遺憾な証言・書証が多く発掘されてきたのですが、「南京で何が行われたか」を明らかにするという自らに課した編集態度は、どんなにつらくてもくずすわけにはまいりません」という言葉で最後を締めくくっている。3000人という数字の大きさよりも、このような重い受け止め方をすることこそが南京事件にとっての本質ではないのだろうか。このような誠実さを持った人々であれば、なお受け入れがたい民間人に対する虐殺行為に対しても、それが整合的に説明される事柄ならば、きっと受け入れる素地があるのではないかと思う。

30万人という数字を単純に信じて、30万人も虐殺されたのだから日本軍の行為はひどいものだと発想するのは、おそらく論理的には順番が逆なのだろうと思う。むしろ個々の虐殺行為の現実性から、そのような不当な行為が、戦争という異常な状況のもとであれ確かにあったのだということを自覚することから出発することが大切なのではないかと思う。それが結果的に、何人の犠牲につながるのかは、確定した数字は出せないがさまざまな条件を付与して多様な議論を認めることが大切だろう。しかし、出発点としては、確かにそのような不当行為があったという前提を共有できることが大切なことだろうと思う。

30万人という数字がまず最初に問題になってしまえば、このような質の問題はどこかへ消えてしまう。しかもそれが現実にはあり得ない、感情を揺さぶるだけが目的の数字だったら、不当行為の存在という共通の前提がもてなくなってしまう。それが存在しないものだと考える人たちは、どうして平和なときであればおこりえない虐殺行為が、あの南京の戦闘の際には起きたのかということを深く考えなくなるだろう。そしてそれを考えないことで、同じような失敗を繰り返す可能性を残してしまうのだと思う。まず30万人説ありきという前提で問題を考えれば、どちらの側にとっても建設的な未来はないだろうというのが宮台氏が語った趣旨であり、僕も賛成する考え方だ。