事実に対する希望的判断と客観的判断


仮説実験授業の提唱者の板倉聖宣さんは、『子どもの学力 教師の学力』(仮説社)の中で次のようなことを書いている。

「私はもともと自然科学のほうを中心にやっておりますが、先ほど言いましたように、自然科学では「どうしても子どもたちが知らなければいけない」ということは、全然ないといっていいほどないと思うんです。でも、社会的認識のほうは、自分の生き方に直接跳ね返ってきますからそう簡単にいかないところがあります。自然科学者になるとか社会科学者になるとかは関係なく、自分たちの権利とか利害とかは、「読み・書き・そろばん」と同じように必要なところがあるわけです。
 仁徳天皇なんかの知識は要らないかもしれないけれども、憲法とか、その他の諸法律については必要かもしれない。いや、私はそういう個別な知識よりも、「社会というものが人間の善意・悪意を超えて、そういうものと関係なく法則的に動いているものだ、人間が善意を持って何かをやればよい結果になり、悪意を持ってやれば悪い結果になるというふうな単純なものではなくて、良かれと思っても悪いことになるということが少なからずある。悪しかれと思っても良くなることもある」というふうな社会科学的な認識を持つことによって、私たちははじめて社会科学を本気で学ばざるを得なくなると思うんです。私はそっちのほうが気になる。」


善意の結果はよいはずだと思うのは、希望を事実だと思ってしまうような希望的判断だと思う。希望と関係なく、結果として現れた事実のみを見て、客観的にその評価が出来なければ科学的とは言えない。科学を学ぶときに、大切な知識というものもあるだろうが、基本的にはこのようなものの見方こそが最も大事なものではないかと思う。

似非科学というものを考えるときに、わざわざポパーの理論を持ち出すこともなく、このものの見方さえあれば、たいていの似非科学は見破ることが出来る。まだ科学が未発達のころには、「昔は「こうあってほしい」とお祈りすると何かうまくいくという考えがありました」と板倉さんは書いている。これは、希望を事実だと思っているわけで、科学的な真理ではない。だから、そのようなものは、この時点ですでに科学ではないという取扱いが必要だろう。そして、科学ではない以上、常に正しいという主張は出来ず、いくらでも間違っている可能性があると理解しなければならない。

板倉さんは、「今でも家建てるときにオハライなんかしていますね」と語り、オハライをすればうまくいくという希望的判断について、そう思いたくなる原因を考えている。それは、「万一オハライをしないで工事がうまくいかなかったらたいへんだ」と思ってしまうのでしょう」と言っている。オハライに効き目があるとはそんなに信じていなくても、もしうまくいかなかった場合に、それを納得できるかどうかが心配でオハライをしてしまうという心理が語られている。

実際には、うまくいかなかったときに客観的に正しい原因を突き止めることが出来れば、その失敗の責任を問うべき相手を見つけることができるようになるだろう。また、その責任が自分に帰するのなら、次は決して失敗しないようにという深い反省が出来るようになるだろうと思う。オハライというような迷信に頼らないほうが結果的には賢くなるはずなのだが、失敗そのものが怖くて不安なのでお払いをしたくなってしまうのだろうと思う。

だが、オハライに頼る心情は、客観的判断という点で邪魔をするに違いないと思う。希望的判断としては、オハライをしたのだから希望がかなえられないのはおかしいという、希望の持続を望む気持ちが生まれてくるだろうと思う。そうなれば、失敗を失敗として正しく認識することが出来なくなる。科学的認識が、人間のこのような主観とは関係なく成立するという客観的なものだという理解は、現実の正しい捉え方にとって必要不可欠なものとなるだろう。

主観は、あるときは党派性やイデオロギーという形を取って個人を規定してくる。それが希望的判断と結びついてくれば、個人が認識を間違えるということだけでなく、社会のある集団が間違った認識を持つことにつながる。これが言語ゲーム的な、間違いであるにもかかわらず真理として通用してしまう言説を生み出すのではないかと思う。

希望的判断からの間違いが生み出す弊害は、教育の現場では深刻な形であらわれることがある。板倉さんの次の指摘は、教育に携わる人間は深く考える必要があるだろう。

「社会のことに関しては、多くの人たちは道徳主義的にものを判断します。社会的な問題についての善意というものに甘い考え方をするわけです。「まずい結果になったけれども、私は善意だったんだから何もやましくはない」という言い方が通用する。学校の先生方は「私は子どもたちのために一生懸命やっているのだからやましいことはない」と思ったりする。しかし、それは大間違いです。学問なんて全然したことがない人はそんなふうに甘ったれてもいいかもしれません。でも、子ども自身がちゃんと伸びなければ、教える側に善意があればあるほど子どもは傷ついてしまいます。例えば「お前!こんなこと出来ないのか。二次方程式も出来ないのか。二次方程式が出来なければ人間のくずだぞ」とカッカして、先生が善意を持って一生懸命教える。ところが、二次方程式がどれほど大事かなんて全然根拠がなくて「何となく世間で言われてるから自分もそう思う」程度のはずなんです。それなのに、「あの先生があんなに夢中で教えて、かつ、自分はついていけなかった」となったら、実に悲惨ではなかろうか、と私は思うんです。」


善意があればどのような行為も正しくなるのではない。その行為に、客観的に正しさがあると考えられるときに、善意を持って行動することが報われる可能性があると理解しなければならない。

仮説実験授業は、授業のメカニズムを解明して、その方法を使えば子どもたちがその授業を楽しむことが出来、しかも自分たちが成長したということを感じることが出来ることを客観的に明らかにした。その客観的な事実があるからこそ、子どもたちを成長させたいという善意が報われる授業を実践することが出来る。このような方法なしに、子どもを成長させたいという願いだけで、良かれと思って試行錯誤的な実践をしても、結果的に子どもを成長させられるかどうかは分からない。試行錯誤は失敗するものだという自覚をしていなければならない。それが、科学的認識というものの基本姿勢なのである。

しかし、自分の考察が客観的なものなのか、希望的判断に落ち込んでいるものなのかを自覚するのは難しい。その間違いを出来るだけ避けるには、自分が利害当事者である対象を考察しているときは、常に希望的判断が入り込んでいるのではないかと疑って見なければならないだろう。ある意味では、利害当事者が語ることはそれほど信用してはいけないといってもいいかもしれない。

どれだけ利害から離れて、第三者として眺めることができるかということが客観性の確保につながっている。それでも立場や利害というのは、無意識のうちに影響を与えてくる。それから離れるためには、ロールプレイであってもいいから反対の立場に立って考察を進めることが必要かもしれない。ディベートというものを僕はあまり高く評価していないのだが、そのようなロールプレイとしての反対の立場の体験としてならディベートもそれなりの有効性を持っているかもしれない。

板倉さんは、希望をそのまま判断に結び付けないようにということで、次のような指摘をしている。これも深く心にとめておきたいことだ。

「教えられないことを宝物のようにするから、善意があればあるほど傷ついちゃうんですね。そんなことだったら、いいかげんに扱ってくれたほうがずっとましだと私は思うんです。「善意を持ってやれば、結果は自分にはかかわりがない」ということは、少なくとも、社会科学というものを学んだ人間としては落第の考え方です。だから、私たちは自分の善意に甘えることなく、「この世の中はどういう法則性で成り立っているか、教育の論理がどう成り立っているか」ということを勉強しなくてはいけないと思うんです。」


善意を持って間違ったことをするほうが、悪意を持って間違ったことをするよりも悲惨な結果に結びつくということは考えなければならないことだろう。これは戦後民主主義教育の欠陥にもつながっているのではないかと思う。

このような認識は、社会を科学的に捉えるときに忘れてはいけないということでは、歴史的な失敗を考えるときもそれが悪意から生じたものばかりだと考えるのは単純すぎる解釈ではないかと思う。日本は戦争の歴史において、侵略行為で悲惨な結果をたくさん引き起こした。しかし、それがすべて悪意からのものであるかどうかは、主観的にそう思うのではなく客観的によく考えたほうがいいのではないかと思う。

もちろん、主観的に、侵略ではなくアジアの発展のためにやったのだと、善意を肯定するだけの解釈でもまずい。善意がありながらも、その善意が結果に結びつかないで、むしろ悲惨な結果になったのはなぜかと考えることが大事なのではないかと思う。今週のマル激のゲストの山崎養世さんが語っていたように、明治維新のような革命を中国でも起こすようにと孫文を応援した明治の日本人の善意が、なぜ欧米先進国と同じ侵略主義・植民地主義になってしまったのかを考えなければならないのではないかと思う。

板倉さんは、この本の中でヒットラーのことを調べていると語っている。ヒットラーは悪い心の持ち主だったからあのようなひどいことをしたのだ、と考えるのは単純すぎる理解だという。板倉さんは、

ヒットラー自身が悪い心を持った人だとすると、その悪い心の持ち主を9割ものドイツの国民が支持するでしょうか?そういうのはちょっと信じがたい。だけど、ヒットラーは悪い結果をもたらしたことは間違いないのです。」


と書いている。ヒットラーが悪人であれば、悪人が悪いことをしたということでは、理解が単純なので人々は安心するのだろう。しかし、そうであればヒットラーを支持したドイツの人はみんなバカだったと考えないとつじつまが合わない。自分の心を安心させるのか、客観性を持った解釈の仕方を見つけて合理的に納得するのか。これも、希望的判断と客観的判断の問題ではないかと思う。ヒットラーの優秀性を理解することは客観的判断のために必要だと僕も前々から思っていただけに、板倉さんのヒットラーの研究には大きな期待をしたいものだと思う。