学校教育の「第四の目的」


ジョン・テイラー・ガットさんは、『バカをつくる学校』の中で「アメリカの伝統的な教育制度には、建国当初から次のような明確な目的があった」と語って、次の3つの目的を挙げている。

  • 1 善良な人間を育てること
  • 2 善良な市民を育てること
  • 3 生徒一人ひとりの能力を最大限に伸ばすこと


これはまことに理想的な目的で、1と2は社会のために有用な教育という面での目的であり、3は個人のために有用な教育という面を語っている。個人と社会の両方にとって利益となる、調和的な存在となるような理想的な目的である。この目的が本当に実現されるような学校ならば、学校も混乱することなく、社会の腐敗堕落も招かなかっただろう。

しかし、「1890年以降に導入された新しい集団教育には、さらに第四の目的が加わり、先の3つの目的を脇へ追いやった」とジョン・テイラー・ガットさんは語る。「この第四の目的とは、ドイツの学校のように、子どもたちを企業や政府のために奉仕させるというものだった」という。

1から3までの3つの目的が、社会と個人の利益を調和させるものだったのに、この第四の目的は、企業や政府という社会の一部の特殊な利益のために働くようなものになっている。これは民主主義としては問題があるものの、社会を支配している権力を握っている人間たちがそう望んだものになっているために、特殊利益が実現するような状況が生まれてしまっている。

この目的の達成のためには「マインドコントロールによって、子どもたちの購買意欲を刺激し、学校を消費拡大のための精神的訓練の場にする」という方法が取られている。これがあるために、実際には社会と個人の利益には反する面があるにもかかわらず、この第四の目的は、多くの大衆の希望を集めることが出来、民主主義的な手続きによって正当化されていってしまったのだろう。

大衆は学校教育によってマインドコントロールされているため、大衆の中からこの学校教育に反対し、建設的な改革案が生まれてくるのを期待することが難しい。支配する階級は、かなり安心してこの学校教育の成果を享受できただろう。しかし、資本主義は無限に発展していくものではないということが、この第四の目的の問題を浮かび上がらせてきたのではないかと思う。

資本主義には安定成長というのはあり得ないそうだ。商品の大量生産が行き渡って飽和状態になってしまえば、その産業はもはや成長することが出来ない。そうなると、今まで作った分で生き残っていけるということはなく、肥大化した生産施設を維持することが出来なくなり、そうなれば当然安い製品を大量に作るということも出来なくなり利益率も下がる。

資本主義的大量生産は、製品がまだ市場に少ない間は高度成長を続けるが、それが市場に行き渡ればその産業が衰退して新しい産業と入れ替わるということがなければならない。だがそれはそう簡単なことではない。資本主義というのは、それが発展した頂点で衰退が始まると理解しなければならないのだ。だが、頭のいい資本主義者は、この衰退を避ける手立てを見つけた。

それは、必要のない製品を、購買意欲を刺激することで大量に売りさばくという方法だ。まだ使える製品を捨てて、新しい製品に飛びつくような付加価値(これはたいていは本質とは関係ない、使用価値とは無関係な価値であることが多い)をつけて新しい商品を送り出すということを考案した。これによって資本主義は衰退を免れることが出来た。

もし大衆が自分の頭でものを考える賢い人間ばかりだったら、その付加価値が本当に自分に必要かどうかを考えて、すぐにそれに飛びつくようなことはないだろう。賢い消費者は、資本主義の生き残りにとっては邪魔な存在となる。資本主義が生き残るには、ぜひとも大衆をバカにするような学校制度が必要だったわけだ。

しかしこれは諸刃の剣としてわれわれの社会に影響を与えたようだ。確かに資本主義は永遠の発展を約束したかのように豪華絢爛な豊かさをもたらした。しかし、この豊かさは、無駄な商品を作りつづけるということをしなければならない豊かさだ。これは、地球環境に対して予想していなかった負荷をかけることになる。昨今の温暖化などは明らかにこの影響が出ているものだろうと思う。

資本主義を発展させつづけることが本当に正しいことかどうか疑問が提出される時代になった。だがそのときに、自分の頭でものを考える大衆が少なければ、民主主義が行き渡った資本主義社会は、その歯止めをかける意見というものが多数派を占める可能性を低くしてしまった。衆愚政治がほぼ完成した社会において、民主主義の弊害が最も大きくなって露呈しているのが現在のアメリカや日本の状況なのではないだろうか。

ジョン・テイラー・ガットさんは、マインドコントロールの具体的な方法として「学校はまず退屈な場所でなければならなかった」と語っている。これは、学校制度を作った人々がどれほど意図的にそうしようと思っていたのかは分からないが、無駄な知識を詰め込むという教育をすれば、それが退屈なものになるのは避けられないだろう。そして、退屈になった学校は、そこに適応すればするほど生徒はバカになっていくということに役立った。

板倉さんが提唱した仮説実験授業は、楽しい授業の実現ということが一番の目的だった。仮説実験授業を考えたのも、それをすれば生徒にとって楽しい授業が実現するからだった。だから、必ずしも仮説実験授業の範疇に入るものではなくても、楽しい授業が実現するものであればそれを広めることに努力したものだった。もの作りの授業などはそういうものになるだろう。

楽しい授業をすれば生徒は自分の頭でものを考えるようになる。単に知識を覚えるよりもそのほうが自分が賢くなることを発見するだろう。だが、道徳的にまじめな教員は、自分の頭でものを考えるよりも、忠実に与えられた知識を覚えることを要求してきたのではないだろうか。まじめな教員にとってそこには悪意は存在していないものの、学校を退屈にするという第四の目的にとっては有効な方法になることに荷担してきたのではないかと思う。

勉強は楽しいものだというイメージを抱いて学校生活をしてきた人はどれくらいいるだろうか。勉強は我慢してやるものであり、学校が終わればそれから解放されるので、学校にいる間は忍耐してそれをするものと感じていた人が多いのではないだろうか。そして、忍耐してそれをしていれば、成績が上がることによって得る利益があると教えられたのではないだろうか。

僕にとっては、勉強というのは数学の勉強以外には考えられなかった。それ以外のものは勉強ではないのだ。それはつまらなかったからであり、単に知識を詰め込むということは無駄なことだという感覚しか抱いていなかった。だから、僕にとって勉強は楽しいものだった。言葉を変えれば、楽しいこと以外は勉強しなかったといっていいだろう。僕は勉強することを嫌いになることはなかった。数学を考えることは、漫画を読むよりも面白かったのだ。

僕が三浦つとむさんの本に出会って、すぐに三浦さんを好きになったのは、三浦さんが勉強の楽しさを語っていたからだ。三浦さんは独学の人だったが、なぜ独学が続けられたかといえば勉強が楽しかったからだという。勉強することによって今まで分からなかったことが分かるようになり、自分が成長したことが感じられ、世界が広がったことを感じることが出来るから勉強は楽しいのだと語っていた。

今の学校教育は勉強を嫌わせるために役立つ。それは、自分の頭でものを考えない人間を育てるには最も有効な方法だ。だがそれは学校優等生にはわからない。学校優等生は、そのような勉強の競争の中で勝ち抜いてきた人間だから、その欠陥を理解することは、ある意味では自分の尊厳の基盤を揺るがすことになるからだ。中途半端な学校優等生が多い教員の世界では、退屈な学校が悪いという主張が多数派を占めることはかなり難しいだろう。退屈であろうとなんだろうと、勉強するのが生徒の勤めだという思考をするものが多いのではないかと思う。それが民主主義社会の欠陥を助長することにつながるという自覚を持たなければならないと思う。

学校教育が画一的な教育内容をもっているということの理由も、ジョン・テイラー・ガットさんは明快に論じている。それは、人間を規格化することを目的にし、「規格化された人々は数学的な公式によって厳密な予測が可能だからだ」と喝破する。規格化するということは、個性を殺し、一般的な性質を持った消費者として抽象できることを意味するのだ。

画一化された同じ内容を教育するということは、平等主義の立場からは肯定される。すべての子どもたちが同じことを学ぶなら、少なくともその点では差別はなく、自らの努力によって自己責任で成果を見出すことが出来ると考えられるわけだ。しかし、これは、誰もがそれを身につけることが出来るという基礎段階に限って言えることであり、個性が分かれて勉強に差が出てくる段階でもなお同じ内容の学習を押し付けるなら、それは悪平等になってしまう。形式的に平等にすることが結果的には不当な差別に結びつくというパラドックスがここにはある。

学校において子どもたちを「人的資源」という呼び方をする人たちもいるが、このような呼び方の中には、上に語ったような抽象的な規格された人間として子どもたちを扱おうという意図がうかがえる。

学校教育の弊害は、ジョン・テイラー・ガットさんが語るように、それが資本主義に奉仕する人間を作り出そうと意図したときから生じているのだろうと思う。しかし、その弊害がこれほどひどい形で目に見えるようになったのは最近のことではないかと思う。以前は、弊害を持っていたとしても、完全な管理が出来なかったためにその網の目から落ちこぼれた人間は、学校の害に影響されずに何とか学校生活を切り抜けることが出来たのではないかと思う。しかし、今ではそこから逃れることが不可能なくらいに管理する技術が発達してしまった。

学校を改革するには、もはや制度を根本的に改革する以外にはないということに多くの人が気づいてほしいと思う。制度を改革するには、個人ではなんともしがたいからだ。優れた文部官僚だった寺脇研さんが、ゆとり教育の導入によって学校制度の改革に取り組んだが、寺脇さん個人の努力だけではそれは成功しなかった。制度を支える人々がゆとり教育本来の目的などの理解が浅く、制度としての変革に結びつかなかったからだ。制度の改革をするには、多くの人が自分の頭で考える賢い人間として活動しなければならない。しかし、制度を改革しなければそういう人間が育たないという、鶏と卵のようなパラドックス的な面がある。大人こそが、自らの頭で考えることの楽しさに気づき、目から鱗が落ちるような経験がいかに楽しいものであるかを体験して、子どもの教育を変えることを考えてほしいものだと思う。