「しょうがない」(不可避性)のロジック


「しょうがない」という判断の認識を考えるとき、これを、「それ以外に方法がない」「避けうることが出来ない」という意味で解釈すると、ある種の必然性を語っている言葉として受け取れる。この必然性に二種類のものが考えられるのではないかという感じがしている。

一つは、形式論理的な必然性であり、科学的な法則性から導かれる必然性だ。これは、まさに「それ以外に避けようがない、運命と言ってもいい」状況が訪れることが分かる必然性だ。

形式論理的な必然性を考える材料としては、犯罪事件のアリバイがある。人間は、一人の人間が分裂して二人になることが出来ない。だから、同じ時刻にA地点とB地点の二つの場所に存在することが出来ない。A地点が犯罪の行われた場所だとしたとき、容疑者が犯罪が行われた時間にB地点にいたというアリバイがあれば、容疑者の容疑は晴れることになる。その他の点で、容疑者がいくら疑わしかろうと、アリバイが成立した時は、もはや容疑をかけることが出来ない。これは、

  • 一人の人間は、同時刻に二つの場所(A地点とB地点)にいることは出来ない。(一人の人間が分裂して二人になることは出来ない)
  • 容疑者はB地点にいた。
  • 犯罪が行われたのはA地点である。


という3つの前提から、容疑者が、犯行の行われたA地点にはいなかったことが論理的に導かれ、容疑が晴れるということになる。容疑者をいくら犯人と思いたくても、犯人であるという判断は成立しない。「犯人でない」という判断は不可避であり、「しょうがない」のである。

この「しょうがない」を崩すには、上の3つの前提のいずれかが成立しないことを証明しなければならない。同じ時刻に二つの場所に登場できる超能力者がいたことはいまだ確認されていないので、最初の命題を否定するのは現実的には難しいだろう。もしそのような人間がいたら、犯罪捜査そのものの今までの常識をひっくり返されてしまうだろう。

常識的には、アリバイを崩すか、犯行場所の確定で、実はA地点ではなかったということを証明するかどちらかでこの前提を崩すことになるだろう。そうなると、論理的には「しょうがない」とは言えなくなり、容疑者の容疑はそのままで、犯行の可能性というものが残る。

科学的な認識における必然性は、例えば万有引力の法則というものを認めるなら、地球上に存在するものは、すべて地球に引っ張られるということが不可避になる。つまり、物はすべて落下するということになる。どんなに落下したくないと思っても、落下するのは「しょうがない」ということになる。

この場合、ヘリウムガスを入れた風船などが、落下せずに上昇していく現象は、この万有引力に反する矛盾のように見える。しかし、これは万有引力を否定するのではなく、落下する力よりも、上に押し上げる力(浮力)のほうが強いという解釈で、落下という原則は保持されながらも、見た目にはそれが否定されているように見えるだけだといえる。この場合も、落下の不可避性は保持されている。科学的法則性から導かれる「しょうがない」は、それを回避することの出来ない「しょうがない」なのだ。回避できるように見えるのは、他のメカニズムによって、現象的に違うように出来ているということなのだ。空気よりも比重の軽いヘリウムなどを使わない限り、この万有引力に反するように見える現象は生み出せない。

形式論理、あるいは科学法則から導かれる不可避性は、まさに避けようのない絶対的な「しょうがない」だ。しかし、もう一つの種類の「しょうがない」として、人間の意志による選択が介在する「しょうがない」があるように思う。これは、意志の自由が関係してくる「しょうがない」で、物理的可能性としては他の選択肢を選ぶ可能性があるにもかかわらず、何らかの規制が働いて自由意志による選択であるにもかかわらず選択肢が一つになってしまったとき、「しょうがない」という判断であることが決定されることがある。

社会的な規範が規制として働いているような現象は、この種の意志の自由が介在する「しょうがない」ではないかと思われる。例えば、税金を払うということは、科学法則として働いているものではないが、ほとんどすべての人が「しょうがない」と思って払っている。時々払わない人もいるので、これが絶対的な法則のもとにあるのではなく、払わないという選択肢もあるのだということを教える。しかし、払わないでいれば脱税として追求され、こちらの選択肢のほうがもっといやだとなれば、税金を払うほうを選ばざるを得ない「しょうがない」という判断が生まれる。

ルールと呼ばれるものは、約束事なので、物理的に人間を規制するものではない。しかし、そのルールに従うということを選択したとき、それが「しょうがない」という不可避性の判断に影響を与える。これは、ルールに従っている限りでは「しょうがない」という後ろ向きの解釈になりそうだが、その時はルール違反を追求されないという点では利益をもたらす。あえてルールに反することをやろうとすると、その責任を追及されるという点を引き受けなければならないので、それが抑止力となって、ルールに従うことを「しょうがない」と思う判断も生まれる。

ルールに違反することをあえてやろうと意志する時は、ルール違反という追及を受ける覚悟をしなければならない。よく考え抜いた末にこのような行動に出る人間は、ルールに従って行動することと、あえてそのときにルールを破る行動を取ることの、両方を比べて、あえてルール違反をすることの方が利益が大きいと判断してそれを行う場合がある。このとき、この判断が正しく、ルールを破ったほうが本当に利益が大きいのなら、その判断は賞賛される。しかし、そうではなく判断を間違えている時は、その責任を追及されて叩かれて血祭りに挙げられる。

宮台真司氏は、政治的指導者というのは、ルールに従って行動していれば、社会そのものの基盤が失われてしまうという危機に際しては、あえてルールを犯してでも社会の基盤そのものを守る方向に選択肢を持っていける人間でなければならないと語っていた。いわゆる有事の際に超法規的措置がとられるというのは、このような弁証法性があるからだろう。平時という条件においてはルールに従わなければならないが、有事の際にはルールに従わないという、矛盾したように見える判断は、社会の存在が持つ弁証法性なのだろう。

「しょうがない」の判断において、形式論理あるいは科学によるものは、それが個人の意志には関係なく不可避であるという点で、個人に責任は無い。しかし、意志の自由による選択が関わる「しょうがない」の判断は、それが判断として正しいかどうかが結果によって判定される。どちらの選択肢を選ぶことも出来るのに、あえて一つを選ぶということに、それを選んだ人間の責任が関わってくる。科学的な法則性であれば自分が選んだ選択ではないが、そうでなければそれを自分で選んだということがはっきりしていれば、選択した人間に責任が及ぶことになる。

かつてレーニンの言葉として、「出来ないと言うな、やりたくないと言え」というものを見た覚えがある。これは、「出来る」「出来ない」という判断において、科学法則的な判断から「出来ない」という結論が出るのなら、それは「しょうがない」と言える。しかし、意志の自由でどちらの選択も出来るなら、それは客観的判断として「出来ない」のではなく、意志の選択として「やりたくない」と言わなければ正確な表現ではないのだ、という意味だと僕は理解した。

「しょうがない」の判断において、形式論理的・科学法則的なものは客観的な判断である。意志の自由による選択が介在する判断は主観的なものである。主観的なものがすべて間違っているわけではないが、間違える可能性があることは確かだ。客観的な判断には間違いがないが、主観的判断には間違いがある可能性がある。だからこそ責任というものが生じるのだろう。本当の意味で「しょうがない」と言えれば責任は免れる。

現実には、「しょうがない」の判断は、100%客観的、あるいは100%主観的というものは少ない。客観的な判断と主観的な判断とが入り混じって「しょうがない」という判断が下される。だから、どこまでが主観性による意志の判断であるかを、具体的に細かく見ていかなければ責任というものも正しく判断できない。

ヒトラーは、結果だけを見れば負の意味での責任だらけという感じもするが、ヒトラーの「しょうがない」の判断には、公共事業による景気浮揚策によって当時のドイツの雇用確保を実現したという正しい判断もあったように見える。すべてをヒトラーに押し付けて戦争責任を問題にするのではなく、もっと細かく具体的な検討が必要なのではないかという感じもする。

同様に、日本軍の戦争責任という問題も、どこまでが客観的な意味での「しょうがない」で、どこからが主観的な意味での「しょうがない」なのかを具体的に検討しなければ、正しい判断にならないのではないかと思う。「しょうがない」というのは、責任逃れの言い訳のように聞こえてしまうが、客観的判断に結びつくような部分がある限りでは、言い訳ではなく、本当に責任を免除しなければならないという判断も成立するだろう。

久間氏が語った「しょうがない」は、果たしてどの程度の客観性のある「しょうがない」だったのだろうか。それが、主観的判断の下での「しょうがない」であれば、その判断を下した人間の責任は重い。だがこれは、そう単純に結論が出せる対象ではないような気がしている。

ペットとしての動物を殺すことをとんでもないと思う人でも、家畜としての動物を殺すことにためらいを感じる人は少ないだろう。家畜は、人間の食料として存在しているというルールのもとにあるからだ。家畜の場合は、殺されたとしても「しょうがない」という判断が成り立つ。これは、物理的には殺さないでおくという選択も出来る。「生類憐れみの令」などは、そのような選択肢を法律として押し付けたものと考えることが出来るだろう。

この家畜の屠殺の際の意志の自由に関わる「しょうがない」の判断は、責任を問われることはないだろう。家畜を殺すということは、社会にとって必要な仕事で大切な仕事でもある。それによって人間の食料が確保される。このように「しょうがない」の判断が責任を問われないときもある。久間氏が語る「しょうがない」、あるいは戦争責任に関わる「しょうがない」の考察において、責任を問われない「しょうがない」が考察できるものかどうか。一考の価値があるものではないだろうか。