抽象概念の直感的理解


今年度の数学の授業では関数を扱っている。関数というのは、数学の中でもなかなかの難物で、これを単にxとyとの数式だと捉えて計算をするだけだと解釈すると、関数本来の持っている深い意味を理解するのは難しい。計算が出来るようになれば、関数を道具として利用することは出来るが、それは定型的なものにとどまる。関数という概念を利用して、それを現実の対象の中に見つけて、現実の把握を深めて実践的にその知識を利用するという積極的な使い方は出来なくなる。

このような本来の意味での「応用」(数学での「応用」は、応用問題が解けること、すなわち計算が出来ることが「応用」だと思われているが、公式の適用をするだけのものは本来の意味での「応用」ではない。新たな発見をもたらすような考察に利用できることが本来の「応用」だ)をするためには概念的な理解が必要になる。そして、この概念的な理解は、抽象的な定義を記憶するのではなく、その構造を直感的に把握することが必要になる。

それが抽象された概念であるにもかかわらず、その概念を運用するという思考の展開をするには直感的な把握が必要なのである。このあたりのことも、人間の思考というものが持つ現実的な弁証法性ではないかと思われる。言葉の定義だけを記憶した概念は、それを変化させて現実に適応させるというダイナミックな思考の展開が出来ない。言葉の定義は固定的で、その抽象概念が、現実の条件によってどのように多様な側面を見せるかが知られていないからだ。

抽象的概念が実際に生まれてくる過程を経験した発見者は、その多様性を保存したままそれを捨象し、本当の意味での抽象を経験することが出来るので、抽象概念でありながら直感的にも理解しているという把握のしかたが出来る。しかし、後からそれを学ぶ人間は、結果としての抽象的定義からそれを学ぶことになるので、多様性を始めから捨象して、抽象された側面だけを見ていることになる。これは、その抽象だけが思考の対象であればあまり問題は生じないものの、捨象された部分が問題にされる現実的な事柄への「応用」では、現実を無視した空理空論に陥る可能性が出てくる。

数学の世界のみで関数を扱っていれば、抽象的定義から出発して、形式論理だけで演繹的に思考を進めても破綻することは少ないだろう。しかし、それは数学を専門的にやる人間だけに必要なやり方ではないかとも思われる。義務教育段階で、将来数学の専門家になるわけでもない人々の大衆教育で、このようなやり方で関数の教育をしても何の役にも立たないのではないかと思われる。専門家でない人間にとって本当に役に立つ関数の教育というのはどういうものか、夜間中学という特殊な場にいてそれが追求できるのではないかというふうに感じている。

関数を直感的に把握するにはブラックボックスという教具を使う。これは、入り口と出口がついているけれども中が見えないというものだ。中が見えないので、中が分からないという意味で「ブラック」という名前になっている。関数において抽象化でもっとも重要な要素は、何が入って何が出てくるかという、物がそれを通り抜けるときの現象を捉えることだ。そこにある種の法則性を見つけることが出来たとき、そのブラックボックスは、ある種の「機能」をもつと理解でき、その「機能」のことを関数と呼ぶ。

この「機能」という言い方はかなり抽象度が高い。関数は機能だといわれると、何か分かったような気になってしまうが、それは言葉を言い換えただけで概念理解としてはまったく進んでいない。「ブラックボックス」を「暗箱」と翻訳するようなものだ。言葉は、言い換えただけでは概念の理解にならない。何が抽象されて、何が捨象されているかが理解できたとき初めて概念的な理解が出来る。

この「機能」的側面を理解するために、関数をブラックボックスという実体的な装置として捉えるのが直感的理解というものになる。「機能」は実体として存在しているものではない。それはある装置の属性として存在しているものだ。装置と切り離すことが出来ないという意味で実体とつながってはいるけれども、その装置そのものが「機能」だといえば、それは観念として頭の中に存在しているものを、現実存在である実体に押し付ける間違いになるだろう。

この機能という存在は、そのままでは思考の運用の対象にならない。手で触ったり・目で見たりする実体的な対象にしないと人間はそれを思考することが出来ない。関数という機能が、何らかの装置であるブラックボックスと等値されるというのは、フィクショナルな実体を設定して思考を進めるという、思考の方法論の一つと考えることが出来るだろう。フィクショナルな実体の設定というのが、直感的理解の一つのカギとなるだろう。これを、あくまでもフィクショナルなものであるということを忘れないことが大切だ。フィクショナルなものであるにもかかわらず、これを実体としても存在するのだと思い込むと、「機能主義」という間違いに陥ったと言われるだろう。宮台氏的な表現を使えば、「ネタ」が「ベタ」になるという感じだろうか。

数学の専門家は、関数の特殊な表現である数式の計算が出来る。これによってかなり細かい変化を予測するということが出来るようになる。これはかなり便利なことだ。しかし、細かいことに気を取られずに、大筋として関数を捉えることが出来れば、数学の専門家ではなくても関数を利用することが出来るのではないだろうか。数式表現に深入りすることなく、入力と出力の対応の法則性を捉える概念として関数をもっと有効に利用することは出来ないだろうか。

関数は「変化」を捉えるものだといわれる。実際には、変化そのものを捉えるのではなく、入力と出力というカテゴリーに分けることの出来る二つのものが、入る前と出た後で違うものになっていたとき、そこに「変化」があったと見ることができるということだ。「変化」そのものを捉えるのではなく、「変化」があった現象を静止的に捉えて、前と後の比較によって「変化」は頭の中で想像するということが、関数による「変化」の捉え方だ。「変化」そのものは、ブラックボックスの中にあるので、それは関数では分からないのである。

そうすると、このような現象は世の中のあちこちに見つかることが分かる。何も変化していないように見える自然の風景にしても、長い間の時間で測れば変わっていることが分かる。この変化に対して、そこに何らかの法則性が存在すると考えると、そこにある種の機能をもつ装置を設定して、対象を関数として捉えることが出来る。このような、関数的世界観こそが、実は数学の専門家ではない人にとってもっとも役に立つ関数の概念ではないかと思う。

何かが変化しても、そこには法則性が見つからないことが多い。このような時、たいていの人はそれが偶然起こったことだと考えてしまうだろう。そうなったのは運命であって、自分には事前にそれを予測することは出来ないと考える。そうであれば、何か悪いことが起こっても、それは運が悪かったということで「しょうがない」とあきらめなければならないということになる。

だが、ここに関数を発見して、そこに何らかの法則性があるのだと認識すれば、実はそれが分からないから運命としてのあきらめが出てくるのであって、対象を良く知れば、その法則を把握してもっと良い方向に現実を変えることもできるという希望も出てくる。関数的世界観は、前向きな方向に現実を変えうるという発想にもつながる。

関数的把握によって、現実が悲観的観測の方向にしかならないということも出てくるかもしれない。しかし、関数的把握をすれば、実際にはどこかに最悪の事態を回避できる可能性を見つけることが出来る。板倉さんの表現によれば、「どちらに転んでもシメタ」という方向を見出すことができるということだ。これは、信念という信仰によってそう思い込んでいるということではない。もし最悪の事態が訪れることが確実であっても、それが分かった上で対処するのと、ある日突然その事態が訪れるのでは心構えが違うだろう。最悪の事態というのは、それが事前にわかるようであれば、最悪であるがゆえにそれを利用して前向きに考えを展開できるということもある。

国家論において国家を暴力装置と考えるのも、一つの関数的把握になるのではないかと思われる。この関数は数式で表すことは出来ないが、ある種の違法性というものが発生すれば、それを入力として、国家の暴力装置である警察がそれを取り締まるという出力がもたらされる。その装置が持つ法則性は、法を守るという合法性にある。

この関数は、数学の世界の関数のように完全無謬ではない。現実に存在するものはある種の誤差が存在するので、合法性というものをときどき間違って判断することもあるだろう。関数という抽象的なものを現実に適用する時は、このような誤差の問題も処理しなければならない。だから、大衆教育にとって重要なのは、細かい面倒な数式の計算をすることではなく、何が誤差であり、何が無視してはいけない要素なのかということの判断のセンスを磨くことではないかと思う。

国家という暴力装置が、関数として誤差を適切に処理している時は、社会の秩序は保たれ問題は生じないだろう。しかし、この暴力装置が、誤差の処理の適切さを欠き、合法性という関数本来の機能が危うくなってくれば、社会の秩序も危なくなる。暴力装置という、合法性を実現する装置としての国家が、良い関数として機能するように考えるのが、国民国家における国民にとって大事なことになるだろう。そのように国家を見ることが、国民が国家をコントロールするということになるのではないかと思う。

国家を装置として見るというのは、もっとも大雑把に関数として捉えたときの見方で、実際にはこの関数が具体的にはどの場面でどのように合法性を実現するかを細かく知らなければ、現実の関数としての国家の理解は深まらない。しかし、基本的な国家観としてこのようなものを持っているということが、国家の合法性に対する関心を呼び起こし、それを監視しようとする動機も育てるだろう。関数教育がこのようなところにまで浸透すれば、それは本当の意味での大衆教育として有効になるのではないかと思う。

国家を装置として見るということは、「愛国心」というものに関しても一つの見識を与えるだろう。装置という実体を我々は愛することは出来ないからだ。国家が装置に過ぎないなら、それは愛の対象にならない。宮台氏的な表現では、国家という装置を、我々が乗っているバスにたとえたとき、「バスを愛せよ」というのが、装置としての国家を愛せよということになる。

実際に我々が愛するのは装置としての国家ではない。そこに住んでいる具体的な我々の仲間であり、我々が生まれ育った土地であり、そこに存在する文化なのである。これらが愛しいものとして我々に感じられるとき、本当の意味での「愛国心」が生まれる。国家を装置だと認識することが出来れば、装置を愛せよなどという「愛国心」がニセモノであることはすぐ分かるだろう。関数的国家観が、大衆的な利益になる可能性がここにもあるのではないかと思う。このような思考の展開に利用できる抽象概念としての関数を教えるにはどうしたらいいかを考えたいものだ。