弁証法的矛盾と形式論理的矛盾


「リカちゃん人形問題に関連して、規範と美意識の区別」というエントリーで紹介されていた「リカちゃん人形問題」というものが、形式論理的に面白い対象になるのではないかと思った。元ネタになるのは、「[考察]リカちゃん人形問題」というエントリーになるようだ。

ここで問題にされているのは、

 1「リカちゃん人形が好きでない女の子がいても良いじゃないか」

という主張と、

 2「リカちゃん人形の好きなおじさんだったらキモイ!!」

という主張の両方を同時に主張すると、これが矛盾になるのではないかということだ。この「矛盾」というのが、形式論理的な矛盾ではなく、弁証法的な意味での矛盾ではないかと感じたので、形式論理として考えると面白い考察が出来るのではないかと感じた。

矛盾というのは、その基本的性質は、肯定命題と否定命題の両方が同時に成り立つと主張するところにある。形式論理ではこれは許されない。形式論理では、矛盾した命題からは任意の命題が導かれてしまう。つまり、すべての命題が、形式論理で証明されてしまうのだ。矛盾を生じさせるような体系を作ってしまうと、そこでは論理的に証明するということに意味がなくなる。すべては矛盾から導かれてしまうので、正しいものを定理とするような体系を作ることが出来なくなるのだ。

形式論理では決して許されない矛盾が、弁証法的な考察では、それを見出すことをきっかけにして対象の把握を深めることが出来る。弁証法的な矛盾は、結論としての主張が、肯定判断と否定判断の形をしているので、一見矛盾しているように見えるのだが、それは前提とするものが違っているために結論が対立しているだけに過ぎない。前提が違うというのは、対象を違う視点で眺めているためであって、弁証法の発想法としての有効性は、この矛盾の発見をきっかけにして、対象の多様な側面を把握するところにある。多様な視点で対象を眺めることを可能にするので、弁証法的発想は視野を広げて、対象の把握を深めることが出来るのである。

さて、上の1,2の主張に対して、上のエントリーでは次のようにその「矛盾」を取り出している。

 1 女性では「典型的でないジェンダーロールの行動でも良い」

 2 男性では「典型的でないジェンダーロールの行動は悪い」

これが、「矛盾」に見えるのは、「良い」と「悪い」という正反対の主張で、肯定と否定が同時に成り立つように主張しているからである。「良い」「悪い」は、確定的な判断ではないので、論理の対象にならないという考察もあるだろうが、互いに否定をするような判断であるとこれを受け止めて、その判断そのものを考察の対象外にして、論理構造のみを考えることにする。

さて、結論として「良い」「悪い」という正反対の判断を示している上の命題だが、これは、その結論の主張が正反対だからといって、形式論理的に矛盾しているわけではない。この矛盾は、弁証法的なものとして解釈することが出来る。

形式論理的な矛盾というのは、あくまでも命題としての肯定と否定が同時に成立することを主張するものだ。それは、結論の言葉が正反対の意味を持っているということとは違う。結論の言葉の意味が正反対のものを示しているのは、たいていの場合が弁証法的な矛盾になる。この場合も、もし形式論理的な矛盾になることを示そうとするなら、1の命題を形式論理的に表現しなおして、その否定をしたものが2の命題と同じであることを示さなければならない。そして、それは、まったく違うものになるので、この「矛盾は」形式論理的なものではないことが分かる。

1の命題を解釈して形式論理的な表現に書き直してみよう。形式論理的表現にするために記号を導入する。

 女性…w  男性…m
 J(x)…xは典型的なジェンダーロールの行動をする
 Good…良い(という判断) Bad…悪い(という判断)

これらの記号を使って、1と2の命題を記号化すると次のようになる。

1 あるwが存在して(not(否定)J(w)かつ Good(よいという判断))
(女性の中には、典型的なジェンダーロールの行動でない行動をしても、なおかつそのときに「良い」という判断が出来る人間が存在する、という意味で解釈した。)

2 すべてのmについて(not(否定)J(m)→(ならば)Bad(悪いという判断))
(男の場合は、典型的なジェンダーロールの行動でない行動をしたものは、すべて「悪い」という判断になると解釈した。)

さて、形式論理で1の命題を否定すると次のようになる。

1の否定 すべてのwについて(J(w)または Bad)
(すなわち、女性はすべて典型的なジェンダーロールの行動をするのであって、そうでない行動をする女性は存在しない、かまたは、すべての女性はどんな行動をしようとも「悪い」という判断しか出来ない、ということ)

これが形式論理における1の否定であって、2の命題とはまったく無関係なものになる。1の否定は、あくまでも女性に対する言明であって、男性に対して語るものではない。従って、1と2は、形式論理的にはまったく矛盾しない。まったく関係のない違う命題として真偽を問題にしなければならない命題になる。

また、1を否定した命題が1と両立することは、現実的にもあり得ないだろう。形式論理的矛盾は、現実には決して起こりえないと僕は思う。1の主張は、ある性質に合致する女性の存在を主張しているのに、その否定命題では、そのような性質を持つ女性は存在しないと主張しているのだから、現実的にはそれが両立するようなモデルを見つけることは出来ないだろう。形式論理的な矛盾は、それが矛盾である限り、現実にそれを実現するモデルを見つけることは出来ない。

上の最初の二つの命題が、一見矛盾のように見えるのは、1の命題が女性に対して語っているものであり、2の命題が男に対して語っているものだという、視点の違いからくるものである。その前提(視点)が違っているので、結論としての判断が違っていても、それは論理的には問題はない。それを導く前提が確かなものであれば、導かれた結論が正反対であっても、どちらも論理的には正当性を主張しうる。

この前提そのものに関する考察は、論理構造とは離れてしまうので、あまり深入りはしないが、「リカちゃん人形問題に関連して、規範と美意識の区別」で指摘されているように、「そもそも、「非典型的なジェンダー表現でもいいじゃないか」と、「非典型的なジェンダー表現をする人はキモイ」は全然矛盾しない。前者は規範意識であり、後者は個人的な美醜の感覚だからね」という考え方が妥当なのではないかと思う。

形式論理として面白い対象だと感じるのは、「[考察]リカちゃん人形問題」で考察されている、「「典型的でないジェンダーロールの行動の是非」を論じているとすれば、2つの意見は確かに矛盾する」という指摘だ。ここで語られている「矛盾」は、形式論理的な矛盾ではなく、弁証法的な矛盾だと理解すれば正当だが、形式論理的に矛盾していると考えると勘違いということになるだろう。

「「リカちゃん人形好きな人間はだめ」というのが主張であれば矛盾しない」という指摘に関しては、論理的な違和感を感じる。これは、「女性」「男性」という前提を、「人間」というもので統一して、前提条件を解消してしまったものだと考えられる。この解消によって、前提の違い(視点の違い)から生まれた弁証法的矛盾が果たして解消されるものかどうかに疑問を感じる。もともとの命題は、形式論理的には矛盾していないのだから、この視点の統一によって、同じ見え方をするように出来るのであれば、弁証法的な矛盾は解消されるはずだが、果たしてそうなるかどうか。

先のエントリーでは、「そうであれば、女性がリカチャン人形が嫌いであれば、賞賛されるし、男性がリカちゃん人形が好きだと、きもいといわれるわけで、まったく筋が通る」と論理が展開されているが、これは、先の命題の矛盾が解消されたのではなく、まったく違う命題が主張されているだけなのではないか。

最初の命題では、女性に対しては、その一部に対してある性質を持っていても承認されるということが語られているに過ぎない。ある性質を持っている女性のすべてが賞賛されるということが語られているわけではない。男性に関しては、「だめ」という判断を「悪い」と同じ意味だと理解すれば、同じことを語っていることは分かる。だから、「リカちゃん人形好きな人間はだめ」ということで、女性と男性を統一して「人間」にして、それによって視点の違いを解消しようとするのは、すべてを男性の視点にして、女性の視点を否定してしまえば統一できるということを語っていることになるのではないだろうか。

ジェンダー学者の中には、「典型的でないジェンダーロールの行動でも良い」と言う主張ではなく、「女性も、女性的行動でなく男性的行動をとるべき、とれるべきだ」という主張があるのだろう」という指摘が、もし当たっているなら、ジェンダーという考えの中には重大な形式論理的矛盾が含まれているのではないかと思う。

女性が男性的になることが正しいという主張は、男性的な行動規範の押し付けが問題であるという主張とは、形式論理的に相容れないのではないかと思う。ジェンダーという考え方は、行動規範に結びつくような実践的な認識ではなく、現実に対する認知的な認識の際に、女性・男性という立場の違い(視点の違い)が、認知的判断に違いをもたらすということを語っているだけに過ぎないのではないかと思う。先の二つの弁証法的矛盾を示す命題は、その矛盾を解消する必要はなく、単に物事を深く見るための視野を教えるものと受け止めればいいだけのものではないかと思う。

形式論理的矛盾は、推論の方向として、ありえないものだという判断に結びつく。弁証法的矛盾は、対象の複雑さを示すものとして捉えられる。そして、その複雑さがある種の問題を引き起こすものなら(マルクスが指摘した資本主義の矛盾のように、労働者の生死を左右するような問題を引き起こすなら)、(その弁証法的)矛盾の解消の方向を考えなければならない。しかし、何も問題を引き起こさない矛盾であれば、それはそのままにしておいてもいい矛盾になるのではないかと思う。

「リカちゃん人形問題」における矛盾も、放っておいても論理的にはさほど大した問題は引き起こさないのではないかと思う。「リカちゃん人形問題に関連して、規範と美意識の区別」で「単なる自分の嗜好にすぎないモノを公の場で発言するべきかどうかは別として」と指摘されているように、論理の問題とは別に、品性の問題はあるだろうが、品性下劣なものは軽蔑で対応することで淘汰されるのがふさわしいだろう。もし、品性下劣なものが淘汰されないようであれば、日本社会の問題点として意識しなければならないだろうと思う。